第30話 幼なじみは、余白まで読んでくる
図書室を出たあと、わたしと玲奈さんは一度教室へ戻ることにした。
鞄を置いたままだったからだ。
放課後の廊下は、もうだいぶ人が少なくなっていた。部活へ行く生徒はとっくにグラウンドや体育館へ向かっていて、帰る生徒もほとんど昇降口の方へ流れている。
窓の外では、夕方の光が校舎の壁を淡く染めていた。
ついさっきまで図書室にいたせいか、廊下の空気が少しだけ広く感じる。
手紙みたいな言葉。
玲奈さんのカード。
わたしのカード。
それが少しだけお互いに向いていたこと。
考えないようにしても、頭のどこかに残ってしまう。
隣を歩く玲奈さんは、いつもより少し静かだった。
でも、その静かさは嫌なものではなかった。何かを隠しているというより、さっき話したことを大事に抱えているような静けさだった。
「ましろ」
玲奈さんが小さく呼んだ。
「うん?」
「今、何考えてた?」
「……いろいろ」
「便利な答え」
「便利だから」
そう返すと、玲奈さんは小さく笑った。
その笑い方を聞いて、少し安心する。
いつもの玲奈さんだ。
でも、いつもの玲奈さんの中に、さっき窓際で少し怖いと言った玲奈さんもいる。
わたしは、その両方を知ってしまった。
知ってしまった、という言い方は変かもしれない。
知れてよかった、の方が近い。
教室に戻ると、ほとんど人はいなかった。
机の列が夕方の光に沈んでいて、昼間あれだけ賑やかだった場所とは少し違って見える。誰かが黒板の端に残した小さな落書きと、開けっぱなしの窓から入ってくる風だけが、まだ教室に残っていた。
そして。
「おかえりー」
なぜか、みおがいた。
自分の席に座って、頬杖をつきながらこちらを見ている。
わたしは足を止めた。
「……みお、委員会は?」
「終わった」
「早くない?」
「今日は確認だけだったからね」
みおはそう言って、わたしと玲奈さんを交互に見る。
その目が、すでに何かを察している。
嫌な予感しかしない。
「で?」
「何」
「図書室デート、どうだった?」
「デートじゃない」
「はいはい。図書室企画作業会、どうだった?」
「言い直しても、ちょっと含みがある」
「そこは消えないよ。わたしなので」
みおは悪びれずに笑った。
玲奈さんも少しだけ笑う。
「藤咲さん、ずっと待ってたの?」
「まさか。戻ってきたら、二人ともまだ鞄あるし。これは何か一山あったなと」
「一山って」
「だって、二人とも顔がちょっと違う」
わたしは反射的に自分の頬に触れた。
「違わない」
「その反応がもう違う」
「みお」
「はいはい、怒らない」
みおは軽く手を振ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、嫌な顔じゃないね」
その一言に、すぐには返せなかった。
みおは昔からこうだ。
からかうときは容赦がないのに、こちらが本当に困っているかどうかは妙に正確に見てくる。
玲奈さんが静かに言った。
「藤咲さんには、隠せないね」
「隠すならもっと上手くやらないと。特にましろは、顔が全部言うから」
「全部は言ってない」
「じゃあ八割」
「多い」
みおは笑ってから、机に置いていた鞄を持ち上げた。
「紹介カード、見たよ」
「えっ」
「朝、混んでたから昼休みにちょっとね。二人の、隣に貼ってあった」
心臓が跳ねる。
見られるとわかっていた。
掲示されているのだから、誰が見てもおかしくない。
けれど、みおに見られたと聞くと、また別の恥ずかしさがある。
「……どうだった?」
聞いてしまった。
自分でも驚いた。
みおも、少しだけ目を丸くした。
「ましろから聞くんだ」
「聞いたらだめ?」
「だめじゃない。珍しいなって思っただけ」
みおはそう言って、鞄を肩にかける。
「よかったよ。ましろの文章、あんたらしかった」
「それ、みんな言う」
「だってそうなんだもん。無理に盛ってなくて、でもちゃんと残る感じ」
わたしは少しだけ視線を落とした。
褒められているのだと思う。
それはわかる。
でも、みおに言われると、子どもの頃から見られていた部分まで一緒に見られているようで、どうにも落ち着かない。
「玲奈さんのもよかった」
みおは今度は玲奈さんを見た。
「明るい人が書いた明るいだけの紹介文じゃなくて、ちょっと奥が見える感じ」
玲奈さんは、一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、少し嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
「うん。まあ、二枚並んでるせいで、ほぼ会話してたけど」
「みお」
「いや、あれはしてたよ。ましろのカードが『隣にいる理由はあとからでいい』って言って、玲奈さんのカードが『近づくのも怖い』って返してる感じ」
また、核心を突かれた。
しかも朝比奈さんとは違って、みおはわかっていて言っている。
わたしは返事に困って、鞄の持ち手を握った。
玲奈さんも少しだけ頬を赤くしている。
「……藤咲さん、やっぱり鋭いね」
「幼なじみなので」
「それ、ほんと万能だね」
「便利でしょ」
みおは軽く笑う。
けれど、そのあと声を少し落とした。
「でもまあ、手紙に見えたとしても、全部を今すぐ読まなくていいんじゃない?」
わたしは顔を上げた。
「え?」
「手紙ってさ、読んだら返事を書かなきゃいけない気がするじゃん」
みおは黒板の方を見ながら、何でもないことのように言う。
「でも、すぐ返事しなくてもいいやつもあるでしょ。読んで、持って帰って、何回か読み直して、それから返事するみたいな」
みおの声は軽い。
でも、言っていることは軽くなかった。
わたしは何も言えなかった。
玲奈さんも黙っている。
みおはそこで、いつもの顔に戻った。
「まあ、何が言いたいかっていうと、ましろは周りに急かされると固まるからね。こはるちゃんの直球とか、わたしの茶化しとか、玲奈さんの近距離とか」
「今、三人まとめて危険物みたいに言った?」
「だいたい合ってるでしょ」
「否定しづらい」
玲奈さんが小さく笑った。
「わたしも入ってるんだ」
「入ってます。玲奈さん、近距離部門代表なので」
「何その部門」
「ましろ心臓負荷ランキング上位」
「みお!」
思わず声が出た。
みおは楽しそうに笑う。
でもすぐに、少しだけやさしい目になった。
「でも、ましろ」
「何」
「困ったら困ったって言いなよ。嬉しいときも、嬉しいって言えるなら言った方がいい。言えないなら、言えないでもいいけど」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。
みおは昔から、こういうことを何気なく言う。
からかって、笑って、こちらを振り回して。
でも最後に、ちゃんと逃げ道を置いてくれる。
「……うん」
わたしは小さく頷いた。
「わかった」
「よし。じゃ、わたしは帰る。二人は?」
「わたしも帰る」
玲奈さんが言った。
わたしも頷く。
「じゃあ、昇降口まで一緒に行こ」
みおはそう言って、先に教室を出た。
その後ろ姿を見ながら、玲奈さんがぽつりと言う。
「藤咲さんって、すごいね」
「そう?」
「うん。からかうけど、ちゃんと見てる」
「昔からだよ」
「そっか」
玲奈さんの声に、ほんの少しだけ羨ましさが混じっている気がした。
前にも、似たような顔を見たことがある。
わたしの昔を知っているみおに対して、玲奈さんが少し静かになったとき。
でも今日は、その顔に強い寂しさはなかった。
むしろ、少しだけ納得しているようにも見えた。
「玲奈さん」
「うん?」
「みおは昔から知ってるけど」
「うん」
「玲奈さんは、今のわたしをたくさん見てると思う」
言ってから、また少し恥ずかしくなる。
けれど、言えないほどではなかった。
玲奈さんは目を丸くして、それからゆっくり笑った。
「ましろ、今日も急に来るね」
「来た?」
「来た。けっこう」
「……ごめん」
「謝らないで。嬉しいから」
玲奈さんは、そう言って少しだけ視線を落とした。
「今の、ちゃんと持って帰って読み直す」
「何を?」
「ましろの言葉」
「手紙じゃないよ」
「でも、手紙みたいだった」
そう返されると、何も言えない。
わたしは鞄を持ち直して、玲奈さんと一緒に教室を出た。
廊下の先で、みおが待っている。
「遅いよー」
「待ってなくてもよかったのに」
「待つよ。今日は三人帰宅の気分なので」
「何その気分」
「古参の気まぐれ」
「もう古参の使い方が雑」
みおは笑いながら歩き出す。
わたしたちもその横に並んだ。
昇降口までの短い距離。
みおが真ん中に入ることもあれば、少し前を歩くこともある。玲奈さんはわたしの隣にいる。肩は触れない。でも、近い。
みおは途中でふと思い出したように言った。
「そういえば、こはるちゃんのカードも見に行かなきゃね」
「まだ清書したばかりだと思うよ」
「貼られたら見に行く。あの子の文章、絶対まっすぐで面白そう」
「面白がらないで」
「いや、ちゃんと読むよ。ましろがちゃんと読んでたし」
何気ない言葉だった。
でも、少し嬉しかった。
わたしが朝比奈さんの原稿をちゃんと読んだことを、みおは当たり前のように受け取ってくれている。
そういうところが、やっぱり幼なじみなのだと思う。
昇降口で靴を履き替え、外に出ると、夕方の風が少し冷たかった。
校門の前で、みおは別方向へ向かうために立ち止まる。
「じゃ、わたしこっち」
「うん。また明日」
「玲奈さん、ましろをよろしく」
「みお」
反射的に言うと、みおはにやっと笑った。
「今のは、幼なじみとしての決まり文句」
「決まり文句にしないで」
玲奈さんは少しだけ真面目に頷いた。
「うん。よろしくされます」
「玲奈さんも受けないで」
「だって、任されたから」
「任されなくていい」
みおは満足そうに手を振った。
「じゃーね。ましろ、ちゃんと言葉の順番考えすぎて黙り込まないように」
「最後に余計なこと言わないで」
「余計じゃなくて大事なこと」
そう言って、みおは歩いていった。
その背中はいつも通り軽い。
けれど、残していった言葉は少し重かった。
言葉の順番。
黙り込まないこと。
すぐに返事を書かなくてもいい手紙。
その全部が、今日のわたしの中に残っている。
みおの姿が見えなくなってから、玲奈さんが隣で言った。
「藤咲さん、本当にましろのこと大事なんだね」
「うん」
「前より、素直にそう思えるようになった」
「前は?」
「少し、羨ましかった」
玲奈さんは正直に言った。
わたしは、その横顔を見る。
「今は?」
「今も少し羨ましいよ。でも、それだけじゃないかな」
「それだけじゃない?」
「うん。藤咲さんがましろの昔を知ってるなら、わたしは今のましろをちゃんと見たいって思う」
胸の奥が、静かに揺れた。
「……玲奈さんは、ちゃんと見てるよ」
言うと、玲奈さんは少しだけ足を止めた。
わたしも立ち止まる。
校門から駅へ向かう道。
周りには何人か生徒がいるけれど、少し距離がある。
玲奈さんは、まっすぐわたしを見ていた。
「ましろ、それ、今日何回目?」
「何が?」
「わたしを嬉しくするやつ」
「数えてない」
「わたしも。でも多い」
「……じゃあ、控える」
「控えないで」
玲奈さんはすぐに言った。
「嬉しいから」
「そう言うと思った」
「じゃあ、わかってて言った?」
「……少し」
玲奈さんが口元を押さえた。
照れている。
たぶん。
いつも近づいてくるのは玲奈さんなのに、今日はわたしの言葉の方が少しだけ近いらしい。
それが恥ずかしくて、でも少しだけおかしかった。
「帰ろう」
わたしが言うと、玲奈さんは頷いた。
「うん」
二人で歩き出す。
みおがいたときより、少し静かになった。
でもその静けさは、もう寂しいものではなかった。
「ましろ」
「うん?」
「さっきの藤咲さんの話」
「手紙の返事のこと?」
「うん」
玲奈さんは前を向いたまま言った。
「返事、急がなくていいからね」
足元の小石が、靴の先で小さく転がった。
「……何の返事?」
聞き返すと、玲奈さんは少し笑った。
「いろいろ」
「ずるい答え」
「便利だから」
「それ、みんな使うようになってる」
「ましろ発だからね」
「発祥にしないで」
玲奈さんは小さく笑った。
それから、少しだけ声をやわらかくする。
「でも、本当に。ましろが考える時間、ちゃんと待つから」
その言葉に、胸の奥がじんわりあたたかくなった。
待ってくれる。
急かさずに。
でも、隣にはいてくれる。
それが今のわたしには、思ったよりずっと大きかった。
「……ありがとう」
「うん」
「でも、玲奈さんも」
「わたしも?」
「怖いこととか、寂しいこととか、急に全部言わなくてもいいけど」
わたしは少しだけ言葉を探す。
「言いたくなったら、聞くから」
玲奈さんは黙った。
わたしも、言ってから黙った。
夕方の道に、車の音と、遠くの踏切の音が重なる。
しばらくして、玲奈さんが小さく言った。
「それ、返事みたい」
「何の?」
「わたしのカードへの」
そうかもしれない。
近づきたいと思うたび、相手が逃げないか少し怖くなる。
その言葉への返事。
逃げないよ、とまではまだ言い切れない。
でも、聞くよ、とは言えた。
たぶん今のわたしには、それが精いっぱいだった。
「……じゃあ、少しだけ返事かも」
そう言うと、玲奈さんは本当に嬉しそうに笑った。
「うん」
「全部じゃないけど」
「少しでいい」
「うん」
「少しずつがいい」
玲奈さんのその言葉に、わたしは頷いた。
手紙みたいな言葉は、本人に届くと困る。
でも、返事を少しだけ渡せると、困るだけでは終わらない。
怖くて、恥ずかしくて、逃げたくなることもある。
それでも、言葉を返したあとの帰り道は、前より少しだけ明るく見えた。




