第29話 手紙みたいな言葉は、本人に届くと困る
朝比奈さんの言った言葉は、そのあともしばらく図書室の中に残っていた。
――お互いに向けた手紙みたいにも見えて。
そんなつもりで書いたわけではない。
ない、と思う。
でも、まったく意識していなかったかと聞かれたら、すぐには頷けない。
玲奈さんのカードが隣に並ぶことを知っていた。清書する前に、お互いの下書きを見せ合った。玲奈さんがどの一文を選んだのかを知っていて、わたしの一文を玲奈さんがどう受け取ったのかも知っていた。
そのあとで書いた文章が、本当に“ただの紹介文”だったのか。
考え始めると、わからなくなる。
「小日向先輩……すみません」
朝比奈さんが、恐る恐るこちらを見た。
さっきまでの勢いは少し影を潜めている。両手で紹介カード用の紙を持ったまま、しゅんと肩を落としている姿は、叱られた子犬みたいだった。
「謝らなくていいよ」
わたしは小さく首を振った。
「でも、余計なこと言いました」
「余計では、ないと思う」
「本当ですか?」
「うん。ちょっとびっくりしただけ」
「ちょっと……」
朝比奈さんは、わたしと玲奈さんを交互に見た。
「本当に、ちょっとですか?」
「……かなり、かもしれない」
「やっぱり!」
図書室だから声を抑えているのに、感情だけが大きい。
篠宮先輩が、机の向こうで小さく微笑んだ。
「朝比奈さんの感想は、率直でしたが、失礼ではありませんでしたよ」
「篠宮先輩……」
「ただ、受け取る側の準備が必要な言葉ではあったかもしれません」
「準備……」
朝比奈さんは真剣な顔で頷いた。
「次から、準備運動を入れます」
「運動はしなくていいと思う」
思わず言うと、玲奈さんが隣で小さく笑った。
その笑い声に、少しだけ空気がほどける。
玲奈さんは、さっきからあまり話していなかった。
けれど、不機嫌そうではない。
むしろ、何かを大事に抱えているような静けさだった。
わたしはそれが気になって、少しだけ横目で見る。
玲奈さんは、掲示板の方ではなく、机の上に置かれた朝比奈さんの白いカードを見ていた。
朝比奈さんは、今まさに自分の紹介文を書き始めようとしている。
その様子を見て、玲奈さんが静かに言った。
「こはるちゃんは、どんな本にするの?」
「えっと……この前借りた恋愛小説にしようと思ってます」
「距離の詰め方の勉強にするって言ってたやつ?」
「あっ、はい! でも読んでみたら、距離を詰めるだけじゃだめなんだなって思いました」
「へえ」
玲奈さんの声がやわらかくなる。
朝比奈さんは紙の端を指で押さえながら、少し照れたように続けた。
「相手がびっくりしないように、でも自分の気持ちも隠しすぎないようにする話でした」
言ってから、ちらりとわたしを見る。
「……小日向先輩に、順番が大事って言われたので」
「わたしはそんな大したこと言ってないよ」
「でも、すごく残りました」
朝比奈さんの言葉はまっすぐだった。
受け止めるこちらが少し身構えてしまうくらいに。
けれど、前より少しだけ違う気がした。
ただ勢いで投げてくるのではなく、ちゃんとこちらに届く形を探そうとしている。
その変化が、なんだか嬉しかった。
「じゃあ、誰に読んでほしいかも決まってる?」
玲奈さんが聞く。
朝比奈さんは、うーんと少し考えた。
「好きな人に、どう近づけばいいかわからない人……です」
言い終えてから、また慌てて口元を押さえる。
「今の、強かったですか?」
わたしは少しだけ笑った。
「でも、カードに書くなら伝わりやすいと思う」
「本当ですか?」
「うん」
「じゃあ、少し言い方をやわらかくします」
朝比奈さんは真剣にペンを持った。
その横顔を見ていると、数日前に原稿を読ませてもらったときのことを思い出す。
窓際の先輩。
あの話も、朝比奈さんなりの手紙だったのかもしれない。
言えなかった憧れを、物語の形にしたもの。
そう考えると、紹介カードも、感想も、原稿も、全部少しずつ同じところにつながっている気がした。
誰かに何かを届けるために、言葉を選ぶ。
それだけなのに、こんなに難しい。
「ましろ」
玲奈さんが小さく呼んだ。
「何?」
「少し、外出る?」
「外?」
「廊下。ちょっとだけ」
声はいつもより静かだった。
篠宮先輩がこちらを見る。
「休憩でしたら、どうぞ。清書の用紙はこのまま置いておいて構いません」
「あ、はい」
わたしは少し戸惑いながら立ち上がった。
朝比奈さんは不安そうにこちらを見る。
「小日向先輩、大丈夫ですか?」
「うん。すぐ戻るよ」
「はい」
玲奈さんと一緒に図書室を出る。
扉が閉まると、紙の匂いが少し薄れて、廊下の空気に変わった。
放課後の校舎は、夕方の色を帯びている。窓から差し込む光は弱く、床に伸びる影が少し長い。
玲奈さんは、すぐには話さなかった。
窓際まで歩いて、そこで立ち止まる。
わたしも隣に立つ。
肩は触れない。
けれど、図書室の机に並んで座っていたときより、少しだけ近く感じた。
「ごめんね、急に」
玲奈さんが言った。
「ううん。どうしたの?」
「さっきの、こはるちゃんの言葉」
「手紙みたいってやつ?」
「うん」
玲奈さんは窓の外を見ていた。
校庭の端で、運動部の生徒が片づけをしているのが見える。遠くから掛け声が聞こえるけれど、ここまでは届ききらない。
「あれ、聞いたときにさ」
「うん」
「嬉しいって思った」
胸の奥が、小さく跳ねた。
玲奈さんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「でも同時に、ちょっと怖くなった」
「怖い?」
「うん。ましろのカードが、もし本当に手紙みたいなものだったら、わたし、すごく嬉しい。でも、そう思いすぎるのは違うかもしれないって」
その言葉は、ゆっくりだった。
ひとつずつ、確かめるように出てくる。
「ましろは、本の紹介として書いただけかもしれないのに。わたしが勝手に、自分に向けられたものみたいに受け取ったら、困らせるかもしれないって」
玲奈さんの声が、少し小さくなる。
「だから、ちょっと怖くなった」
わたしはすぐには答えられなかった。
玲奈さんはいつも近い。
近づいてくる。
言葉も、視線も、歩く距離も。
でも、その近さの中で、ちゃんと怖がっていた。
わたしが逃げないか。
困っていないか。
受け取りすぎていないか。
それを知っているはずなのに、こうして言葉にされると、また少し胸が詰まる。
「……玲奈さん」
「うん」
「わたしも、怖いよ」
玲奈さんがこちらを見た。
「わたしも、自分の書いたものを玲奈さんがどう受け取るか、怖かった」
「うん」
「でも、見てほしかった」
言った瞬間、自分でも驚いた。
けれど、引っ込めなかった。
「全部が玲奈さんへの手紙だったかって聞かれたら、たぶん違う。でも、玲奈さんに見られることを考えなかったかって言われたら、それも違う」
頬が熱くなる。
それでも、続ける。
「だから……勝手に受け取られた、とは思わない」
玲奈さんは、じっとわたしを見ていた。
いつもの明るい笑顔ではない。
少し泣きそうにも見えるくらい、静かな顔だった。
「それ、言ってくれるの、ずるい」
「玲奈さんに言われたくない」
「うん。そうだね」
玲奈さんは小さく笑った。
それから、窓枠に指先を置く。
「ましろの言葉って、静かなのに、急に深いところまで来る」
「そんなつもりはないんだけど」
「知ってる。だから余計に」
沈黙が落ちる。
でも、気まずくはなかった。
さっき図書室の中で感じていたざわざわしたものが、少しずつ落ち着いていく。
「玲奈さんのカードも」
わたしは言った。
「うん?」
「わたし、少しだけ自分に向けられてるみたいに受け取った」
言ってから、心臓が一気に騒がしくなった。
ここまで言うつもりはなかった。
でも、言ってしまった。
玲奈さんが固まる。
わたしは窓の外を見たまま、続けた。
「近づきたいけど、逃げないか怖いっていう一文。玲奈さんがそれを選んだの、たぶん……わたしのことも、少し入ってるのかなって思った」
「少しじゃないよ」
即答だった。
今度は、わたしが固まった。
玲奈さんは、困ったように笑う。
「少しじゃない。かなり入ってる」
「……そういうこと、すぐ言う」
「今は言わないとだめだと思ったから」
心臓がうるさい。
廊下は静かなのに、自分の中だけが騒がしい。
「ましろのカードも、少しわたしに向いてたなら嬉しい」
「……少しは、向いてたと思う」
「うん」
「でも、今言うのはかなり恥ずかしい」
「わたしも、かなり恥ずかしい」
二人で小さく笑った。
その笑い方が似ていて、また少し恥ずかしくなる。
しばらくそのまま、窓際に立っていた。
何かが決定的に変わったわけではない。
告白をしたわけでもない。
好きという言葉を、はっきり恋の意味で言ったわけでもない。
でも、何かを一枚めくったような感じがした。
見えていたのに、見ないふりをしていた紙の端を、少しだけ持ち上げてしまったような。
「戻ろうか」
玲奈さんが言った。
「うん」
図書室へ戻る前に、玲奈さんが小さく言った。
「ましろ」
「何?」
「今日、話せてよかった」
「……うん」
「あと、カード、並べてもらえてよかった」
「カードが?」
「うん。カードが」
その言い方に、少しだけ笑ってしまう。
わたしも、同じように返した。
「わたしも、並んでよかったと思う」
「カードが?」
「うん。カードが」
玲奈さんは、嬉しそうに笑った。
図書室に戻ると、朝比奈さんが真剣な顔で紹介カードを書いていた。
篠宮先輩はその向かいで、別の生徒のカードを整理している。
わたしたちが戻ると、朝比奈さんがぱっと顔を上げた。
「おかえりなさい」
言われて、少しだけ不思議な気持ちになった。
図書室なのに。
家でもないのに。
でも、その言葉は自然に聞こえた。
「ただいま」
わたしが返すと、朝比奈さんは嬉しそうに笑った。
玲奈さんも隣で、静かに笑っている。
席に戻ると、朝比奈さんがカードをこちらへ差し出した。
「小日向先輩、これ、変じゃないですか?」
「見るね」
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
――好きな人に近づきたいけれど、言葉の順番がわからない人へ。焦らなくても、まっすぐな気持ちは、ちゃんと届く形を探せると教えてくれる本です。
わたしは、少しだけ驚いた。
朝比奈さんらしい。
でも、前よりずっと、届ける相手のことを考えている文章だった。
「すごくいいと思う」
「本当ですか?」
「うん。朝比奈さんらしいけど、ちゃんと読んでくれる人のことも考えてる」
朝比奈さんの顔が、ぱっと明るくなる。
「よかった……!」
玲奈さんもカードを覗き込んで、にこりと笑った。
「こはるちゃん、いいね。すごく伝わる」
「一ノ瀬先輩……ありがとうございます」
篠宮先輩も頷いた。
「このまま清書して大丈夫だと思います」
「はい!」
朝比奈さんは嬉しそうに清書用のカードを受け取った。
その姿を見ていると、少し前の自分を思い出す。
自分の言葉が誰かに受け取られるか不安で、でも見てもらえると嬉しくて。
たぶん、みんな同じなのだ。
近づきたい相手に、言葉を渡すのは怖い。
でも、渡さなければ届かない。
放課後の図書室は、相変わらず静かだった。
けれど今日は、その静けさの中にいくつもの言葉が置かれていた。
わたしの言葉。
玲奈さんの言葉。
朝比奈さんの言葉。
篠宮先輩の言葉。
どれも少しずつ違っていて、でも誰かに届こうとしている。
手紙みたいな言葉は、本人に届くと困る。
恥ずかしいし、逃げたくなるし、どう受け止めればいいかわからなくなる。
けれど、届いた瞬間にしか生まれないものも、きっとある。
そう思ったら、わたしは少しだけ、自分の紹介カードがあの場所に貼られていることを誇らしく思えた。




