第28話 掲示された言葉は、思ったより見られている
紹介カードが掲示された翌日、わたしはいつもより少しだけ早く図書室へ向かった。
別に、見に行きたかったわけではない。
いや、見に行きたかったのかもしれない。
けれど、それを素直に認めるのは少し悔しい。
朝の図書室前の廊下は、まだ人が少なかった。教室棟の方からは登校してきた生徒たちの声が聞こえるけれど、ここまで来ると少し遠い。窓から入る光はやわらかく、床の上に細い線を作っている。
図書室の扉の横には、読書週間の掲示板があった。
昨日、篠宮先輩が用意していた台紙が、もうきちんと貼られている。
色画用紙で作られた見出し。
何人かの生徒が書いた紹介カード。
そして、その一角に――。
わたしのカードと、玲奈さんのカードが並んでいた。
「……本当に並んでる」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかったと思う。
左にわたし。
右に玲奈さん。
ただそれだけなのに、なぜか落ち着かない。
わたしのカードには、昨日何度も見直した文章が書かれている。
――誰かと一緒にいる理由は、最初からはっきりしていなくてもいい。隣にいる時間の中で、少しずつ見つかっていくものもある。
自分で書いた文章なのに、掲示されていると別の人の言葉みたいだった。
昨日までは手元にあった。
机の上で、玲奈さんにだけ見せた。
それが今は、誰でも見られる場所に貼られている。
思ったより、恥ずかしい。
でも、少しだけ誇らしい。
その二つが混ざって、胸のあたりが落ち着かなくなる。
「見に来てたんだ」
後ろから声がして、肩が跳ねた。
振り向くと、玲奈さんが立っていた。
鞄を肩にかけて、少しだけ息を弾ませている。いつもより早く来たらしい。
「……玲奈さんも?」
「うん。ましろ、いるかなって思って」
「わたしが?」
「だって、気になって来そうだったから」
「見透かさないで」
「当たってた?」
「……少し」
玲奈さんは嬉しそうに笑った。
それから、掲示板の前に並んで立つ。
朝の廊下で、二人きり。
正確には、遠くに何人か生徒の気配はある。でも、この場所だけは少し静かだった。
「並んだね」
玲奈さんが言った。
「カードがね」
「うん。カードが」
もう何度目かわからないやり取り。
それでも、言わずにはいられない。
玲奈さんは自分のカードを見て、少しだけ照れたように笑った。
「自分の文章、掲示されると恥ずかしいね」
「うん。思ったより」
「ましろの、やっぱりいいね」
「朝から褒めなくていい」
「朝だから言ってる」
「どういう理屈?」
「一日分、先に言っておこうかなって」
「一日分もいらない」
「じゃあ半日分」
「減らせばいいわけじゃない」
玲奈さんが小さく笑う。
その笑い声が、図書室前の静かな廊下にやわらかく響いた。
わたしは、玲奈さんのカードを見る。
――近づきたいと思うたび、相手が逃げないか少し怖くなる。
何度見ても、玲奈さんらしい一文だと思う。
明るくて、距離が近くて、いつもわたしを振り回すのに、その奥にちゃんと怖さも持っている。
それを知っているから、このカードが少しだけ特別に見える。
「玲奈さんのも、いいと思う」
言うと、玲奈さんがこちらを見た。
「ほんと?」
「うん」
「どこが?」
「……自分で聞く?」
「聞きたい」
まっすぐな目だった。
こういうときの玲奈さんは、逃げない。
聞きたいことをちゃんと聞いてくる。
だから、わたしも少しだけ逃げるのをやめた。
「迷ってるところを書いてるのが、いいと思う」
「迷ってるところ?」
「うん。近づきたいって気持ちだけじゃなくて、怖いって気持ちも書いてあるから。そこが……ちゃんと玲奈さんっぽい」
玲奈さんは黙った。
わたしは急に恥ずかしくなって、掲示板の方を向く。
「ごめん。変な感想だったかも」
「変じゃない」
玲奈さんの声は、思ったより静かだった。
「すごく嬉しい」
「……そう」
「うん。ましろにそう見えてるんだなって思ったら、嬉しい」
見えている。
その言葉に、少しだけ胸が揺れた。
玲奈さんはいつも、わたしを見ていると言う。
でも最近は、わたしも玲奈さんを見ている。
明るいところだけじゃなくて、少し迷うところも。
それを伝えてしまった。
恥ずかしい。
でも、嫌ではなかった。
「おはようございます」
静かな声がして、二人同時に振り向いた。
篠宮先輩だった。
いつものように背筋が伸びていて、手には数冊の本を抱えている。朝から図書室の手伝いだろうか。
「篠宮先輩。おはようございます」
「おはようございます」
わたしと玲奈さんがそれぞれ挨拶を返す。
篠宮先輩は掲示板を見て、少しだけ目元をやわらげた。
「見に来てくださったのですね」
「はい。気になって」
玲奈さんが素直に答える。
篠宮先輩は、二枚のカードに視線を向けた。
「昨日、図書委員の方たちにも好評でした」
「えっ」
わたしは思わず声を出してしまった。
篠宮先輩は落ち着いたまま続ける。
「二枚並べると、対になっているように見えると」
「対……」
玲奈さんが小さく繰り返す。
対。
その言葉が妙に恥ずかしい。
たしかに、わたしのカードは“隣にいる理由”で、玲奈さんのカードは“近づく怖さ”だった。
並べると、どこか向き合っているように見えるのかもしれない。
そう思うと、ますます落ち着かない。
「何人か、紹介されている本を借りたいと言っていました」
「本当ですか?」
「はい。今日中に貸出があるかもしれません」
嬉しい、と思った。
自分の文章で、誰かが本を手に取るかもしれない。
それは少し怖くて、でも嬉しい。
朝比奈さんが原稿を読んでもらって喜んでいた気持ちが、少しわかる気がした。
「ましろ、よかったね」
玲奈さんが小さく言う。
「玲奈さんも」
「うん」
短い会話。
でも、ちゃんと届いた。
篠宮先輩はわたしたちを見て、静かに微笑んだ。
「お二人の言葉が、誰かの読むきっかけになるなら、企画としては成功です」
その言葉に、わたしは少しだけ背筋を伸ばした。
篠宮先輩は本当に、必要な場所に言葉を置くのが上手い。
「ありがとうございます」
わたしが言うと、玲奈さんも隣で頷いた。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
ぱたぱた、という軽い音。
聞き覚えがある。
「小日向先輩!」
朝比奈さんだった。
朝から元気だ。
片手に鞄、もう片方の手には小さなノートを持っている。こちらを見つけた瞬間、顔がぱっと明るくなった。
「あっ、一ノ瀬先輩も! 篠宮先輩も!」
「おはよう、こはるちゃん」
「おはようございます」
玲奈さんと篠宮先輩が挨拶する。
朝比奈さんはすぐに掲示板へ視線を移し、目を輝かせた。
「これですね!」
「声、少し小さめにね」
「あっ、はい!」
わたしが言うと、朝比奈さんは両手で口元を押さえた。
でも目の輝きは全然小さくなっていない。
掲示板に近づき、まずわたしのカードを見る。
それから、玲奈さんのカードを見る。
そして、なぜか両手を胸の前で握った。
「すごいです……」
「そんなに?」
「はい。並んでます」
「カードがね」
「はい。カードが」
朝比奈さんは真剣に頷いた。
その言い方があまりにもまっすぐだったので、玲奈さんが少し笑った。
「こはるちゃん、今のわかって言ってる?」
「え?」
「ううん。いいの」
玲奈さんが楽しそうに笑う。
朝比奈さんは首を傾げたあと、またカードを見た。
「小日向先輩の文章、すごく小日向先輩です」
「どういう意味?」
「静かで、優しくて、少し考えてから心に来ます」
また、大きな感想。
でも、朝比奈さんらしい。
「一ノ瀬先輩の文章は、一ノ瀬先輩なのに、少し秘密みたいです」
玲奈さんが目を丸くした。
「秘密?」
「はい。いつも明るい一ノ瀬先輩の中にある、少しだけ隠れている気持ちみたいで」
朝比奈さんは本当に素直に言った。
玲奈さんは、少しだけ頬を赤くする。
「こはるちゃん、感想がまっすぐだね」
「昨日、小日向先輩に順番を考えるように言われたので、少し考えました!」
「それで今の?」
「はい!」
「そっか。ありがとう」
玲奈さんは笑った。
その顔は、少し照れていたけれど嬉しそうだった。
篠宮先輩が静かに言う。
「朝比奈さんも、読書週間の紹介カードを書いてみますか?」
「えっ、わたしもですか?」
「はい。興味があれば」
朝比奈さんはぱっとわたしを見る。
なぜわたしを見るのだろう。
「いいんじゃない?」
そう言うと、朝比奈さんは一気に表情を明るくした。
「書きます!」
即答だった。
篠宮先輩は頷く。
「では、放課後に図書室へ来てください。説明します」
「はい!」
朝比奈さんの声が少し大きくなって、わたしは思わず人差し指を唇の前に立てた。
すると朝比奈さんは慌てて頷く。
「はい……!」
小声でも勢いがある。
玲奈さんが隣で肩を震わせていた。
朝の時間が迫り、それぞれ教室へ戻ることになった。
篠宮先輩は図書室の中へ入り、朝比奈さんは一年生の教室へ向かう。
わたしと玲奈さんは二年二組へ戻った。
教室に入ると、みおがすでに席にいた。
こちらを見るなり、にやっと笑う。
「おかえり。朝からどこ行ってたの?」
「図書室前」
「ああ、掲示見に行ったんだ」
「……うん」
「玲奈さんも一緒?」
「うん」
「はいはい、なるほど」
みおは全部わかった顔で頷く。
「何がなるほどなの」
「いや、二人で自分たちのカードが並んでるのを見に行く朝、いいなと思って」
「言わないで」
「照れるってことは、自覚あるんじゃん」
「みお」
「はいはい」
玲奈さんが少し笑いながら自分の席へ向かう。
みおはその背中を見てから、わたしに小さく言った。
「よかったね」
「何が?」
「見に行くくらい、楽しみにできることが増えて」
からかいではなかった。
そういう声で言われると、逆に返事に困る。
「……うん」
わたしは小さく頷いた。
「よかった、かも」
みおは少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「ましろ、最近ほんと素直期だね」
「やっぱり返事しなければよかった」
「遅い遅い」
みおは楽しそうに笑う。
その笑い声に、わたしも少しだけ笑ってしまった。
昼休みには、紹介カードの話題が少しだけ教室にも届いていた。
図書室前を通ったクラスメイトが「小日向さん、あれ書いたの?」と声をかけてきたのだ。
心臓が跳ねた。
けれど、相手は別にからかっているわけではなかった。
「うん……一応」
「文章、よかった。あの本、ちょっと気になった」
「あ、そうなんだ」
「今度借りてみようかな」
それだけ言って、その子は友達のところへ戻っていった。
たったそれだけ。
でも、わたしはしばらく箸を持ったまま固まってしまった。
玲奈さんが、隣で嬉しそうに笑う。
「ましろの言葉、届いてる」
「……変な感じ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「うん」
玲奈さんはそれ以上言わず、ただ隣で笑っていた。
その距離がありがたかった。
放課後、図書室へ行くと、朝比奈さんがすでに篠宮先輩から説明を受けていた。
ノートを開き、真剣にメモを取っている。
わたしと玲奈さんが入ると、朝比奈さんは顔を上げた。
「小日向先輩、一ノ瀬先輩!」
「ちゃんと説明聞いてる?」
「はい! 好きな一文を選ぶのが難しいです!」
「そこ、悩むよね」
「はい。でも、悩むの楽しいです」
その言葉に、少しだけ胸があたたかくなる。
悩むのが楽しい。
わたしも、たぶんそうだった。
恥ずかしくて、落ち着かなくて、それでも書くのをやめたいとは思わなかった。
朝比奈さんは、しばらく考えたあと、わたしに聞いた。
「小日向先輩」
「うん?」
「紹介カードって、誰かに届ける手紙みたいですね」
わたしは少し驚いた。
それは、大げさなようで、案外ぴったりな言葉だった。
「……そうかも」
「ですよね」
朝比奈さんは嬉しそうに頷く。
「誰に読んでほしいか考えると、その人に向けて書いてるみたいになります」
玲奈さんが、隣で静かに聞いていた。
篠宮先輩も、少しだけ目を細める。
「良い捉え方ですね」
篠宮先輩が言うと、朝比奈さんは照れたように笑った。
「小日向先輩のカードを見て、そう思いました」
「わたしの?」
「はい。一ノ瀬先輩のカードもです。二枚が隣に並んでいたので、なんだか、お互いに向けた手紙みたいにも見えて」
図書室の空気が、一瞬止まった気がした。
わたしは固まった。
玲奈さんも固まった。
篠宮先輩は静かに瞬きをした。
朝比奈さんは、数秒遅れて自分の言葉の強さに気づいたらしい。
「あっ」
小さく口を押さえる。
「今の、順番を間違えましたか?」
わたしは何も言えなかった。
玲奈さんが先に笑った。
少し照れたように。
「ううん。たぶん、かなり核心だった」
「核心……」
「こはるちゃんは、まっすぐだね」
「すみません……」
「謝らなくていいよ」
玲奈さんはそう言ってから、ちらりとわたしを見る。
その視線に、胸の奥が跳ねる。
お互いに向けた手紙。
そんなつもりで書いたわけではない。
ない、はずだ。
でも、玲奈さんに見せることを少し意識していなかったかと言われたら、否定できない。
玲奈さんのカードが隣に並ぶことを、まったく考えなかったかと言われたら、それも嘘になる。
「……朝比奈さん」
「はい」
「順番は、少し急だったけど」
「はい……」
「でも、感想としては、嬉しい」
言うと、朝比奈さんが顔を上げた。
玲奈さんも、わたしを見る。
わたしは少しだけ視線を落とした。
「そう見えたなら、たぶん……悪いことではないと思うから」
声が小さくなる。
それでも、ちゃんと最後まで言った。
玲奈さんは、何も言わなかった。
でも、隣でとても静かに笑っている気配がした。
図書室の窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていく。
掲示された言葉は、思ったより見られている。
誰かに見られるのは、まだ恥ずかしい。
けれど、その言葉が誰かの中で別の意味を持つことがあるのなら。
それは、少し怖くて、少し嬉しいことなのだと思った。




