第27話 紹介カードは、隣に並ぶと少し照れる
紹介カードの下書き用紙は、鞄の中で妙に存在感を放っていた。
ただの紙だ。
図書室でもらった、白い用紙。
そこに本のタイトルと、好きな一文と、短い紹介文を書いただけ。
それだけなのに、家に帰ってからも何度か鞄を開けて確認してしまった。
――隣にいる理由は、あとから見つけてもいい。
自分で選んだ一文を見て、少しだけ恥ずかしくなる。
別に、変な文章ではない。
むしろ、わたしはその一文が好きだった。
けれど、好きな一文を人に見せるというのは、思ったより自分の内側を見せることに近い。
何に心が動いたのか。
どんな言葉を大事だと思ったのか。
それを、カード一枚で知られてしまう。
しかも、その紹介カードは玲奈さんのカードと並ぶかもしれない。
玲奈さんが選んだ一文も、まだ頭に残っていた。
――近づきたいと思うたび、相手が逃げないか少し怖くなる。
あの一文を選んだ玲奈さんの横顔。
少し照れたように笑った顔。
図書室の静かな空気の中で、わたしたちの選んだ言葉だけが妙にはっきりしていた。
「……だめだ」
机に向かって、ひとりで呟く。
考えすぎると、全部が恥ずかしくなる。
わたしは下書き用紙をクリアファイルに戻して、鞄の中へしまった。
でも、しまったところで気にならなくなるわけではない。
明日、清書するのだろうか。
玲奈さんも来るのだろうか。
篠宮先輩は、またあの静かな声で感想を言ってくれるのだろうか。
考えれば考えるほど、明日の放課後が近づいてくる気がした。
朝、教室に入ると、玲奈さんはもう来ていた。
最近では珍しくない。
けれど、今日はわたしが扉を開けた瞬間、彼女の視線がすぐこちらへ向いた。
「ましろ、おはよう」
「おはよう、玲奈さん」
いつもの挨拶。
でも、玲奈さんの机の上に、見覚えのある白い用紙が置かれているのが見えた。
紹介カードの下書き。
わたしの視線に気づいたのか、玲奈さんが少しだけ笑う。
「昨日のやつ、見直してた」
「朝から?」
「うん。家で見たら、ちょっと恥ずかしくなって」
「玲奈さんでも?」
「でも、って何」
「玲奈さんは、あまり恥ずかしがらなそうだから」
「ましろの前ではけっこう恥ずかしがってるよ」
朝からそういうことを言わないでほしい。
わたしは鞄を机の横にかけながら、視線を逃がした。
「それは、知らない」
「知ってるでしょ」
「知らないことにしてる」
「ずるい」
「玲奈さんに言われたくない」
玲奈さんが小さく笑う。
その笑い声に、少しだけ肩の力が抜けた。
昨日、図書室で少し真面目な話をしたせいか、今日は顔を合わせるのに少し緊張していた。
けれど、こうしていつものように話せると安心する。
「ましろは、見直した?」
「少し」
「やっぱり悩んだ?」
「悩んだ。紹介文、短い方が難しい」
「わかる」
玲奈さんは下書き用紙を持ち上げて、少しだけ眉を寄せる。
「わたし、気づいたら感想文みたいになってた」
「それ、わかる」
「本の紹介って、内容を説明しすぎてもだめなんだよね」
「うん。読みたいと思ってもらうための文章だから」
「ましろ、そういうの上手そう」
「上手くはないよ。ただ、紹介文読むのは好きだから」
「じゃあ、わたしのも見てくれる?」
自然に言われて、一瞬返事が遅れた。
玲奈さんはすぐに付け足す。
「あ、嫌ならいいよ。清書前に、ましろにだけ見てもらえたらいいなって思っただけで」
ましろにだけ。
その部分だけが、妙にはっきり聞こえた。
「……わたしでよければ」
「本当?」
「うん。でも、わたしのも見て」
「もちろん」
玲奈さんは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、また少しだけ胸が落ち着かなくなった。
後ろの席から、みおが眠そうな声を出す。
「朝から交換日記?」
「違う」
即答した。
みおは鞄を置きながら、わたしたちの机を見る。
「ああ、図書室のやつか。紹介カード?」
「うん」
「へえ。ましろと玲奈さんのカードが並ぶんだっけ」
「まだ決まったわけじゃないけど」
「でも並びそうな顔してるよ、二人とも」
「顔で決めないで」
みおはにやにやしながら、わたしの後ろの席に座った。
「いいじゃん。並んだら見に行く」
「見なくていい」
「見るよ。幼なじみなので」
「関係ない」
「関係あるよ。ましろの文章とか、かなりレアじゃん」
そう言われて、少し困る。
たしかに、わたしは普段あまり自分の書いたものを人に見せない。
作文や課題なら別だけれど、感想や紹介文みたいな、自分の気持ちが少し混ざる文章は、見られると落ち着かない。
玲奈さんが、わたしの顔を見て少し声をやわらかくした。
「ましろ、嫌なら無理に見せなくていいよ」
「……嫌ではない」
「じゃあ見たい」
「早い」
「だって嫌じゃないんでしょ?」
「最近それを利用されてる気がする」
「利用じゃなくて、受け取ってるだけ」
そう言われると、言い返しづらい。
みおが後ろで笑っている。
「玲奈さん、ましろの扱いうまくなってきたね」
「そうかな」
「うん。押すところと待つところの区別がついてきた」
「みお、分析しないで」
「古参なので」
「もう聞き飽きた」
「でも便利」
まったく。
朝から騒がしい。
でも、そんな空気の中で、紹介カードの恥ずかしさが少し薄れた気もした。
昼休みは、いつも通り玲奈さんとお弁当を食べた。
ただ、今日はお弁当より先に、玲奈さんが下書き用紙をそっと机の端に置いた。
「ましろ、先にこれ見ていい?」
「お昼食べながら?」
「食べ終わってからでもいいけど、気になって」
「じゃあ、少しだけ」
わたしも鞄から自分の下書きを取り出す。
机の上に、二枚の紙が並んだ。
それだけで、なぜか落ち着かない。
玲奈さんは、わたしの紙を両手で受け取った。
わたしも、玲奈さんの紙を見る。
字は思ったよりきれいだった。
少し丸くて、でも読みやすい字。
好きな一文の下には、こう書かれていた。
――近づく側も、いつも自信があるわけじゃない。明るく笑っている人の中にも、相手を大切にしたいからこそ怖くなる気持ちがある。距離を縮めたいけれど、壊したくない。そんなやさしい迷いが残る物語です。
読み終えて、すぐには顔を上げられなかった。
玲奈さんらしい。
でも、たぶん玲奈さん自身のことでもある。
そう感じてしまった。
「……どう?」
玲奈さんの声が、少し不安そうだった。
わたしは用紙から目を離して、ちゃんと玲奈さんを見る。
「いいと思う」
「本当?」
「うん。玲奈さんがどこに心を留めたのか、わかる」
「そっか」
「あと、“距離を縮めたいけれど、壊したくない”ってところ、好き」
言ってから、しまったと思った。
玲奈さんの表情が、一瞬止まったからだ。
それから、彼女は少しだけ視線を落とす。
「そこ、いちばん悩んだ」
「そうなの?」
「うん。書きすぎかなって思った」
「でも、そこがあるから伝わると思う」
これは本当だった。
きれいにまとめるだけなら、もっといくらでも書き方はある。
けれど、その一文があることで、玲奈さんがその本をどう読んだのかが見えた。
「……ありがとう」
玲奈さんは小さく言った。
その声は、いつもより少しだけ低い。
わたしは頷いて、自分のお弁当箱に視線を落とした。
今度は、玲奈さんがわたしの下書きを読んでいる。
自分の文章を読まれている時間は、落ち着かない。
朝比奈さんが原稿を読まれているときに緊張していた気持ちが、少しだけわかった。
わたしの紹介文は、こうだった。
――誰かと一緒にいる理由は、最初からはっきりしていなくてもいい。隣にいる時間の中で、少しずつ見つかっていくものもある。この本は、大きな事件ではなく、言葉にしづらい小さな変化を大切に描いた物語です。
書いたときは、それほど変ではないと思った。
けれど、玲奈さんに読まれていると思うと、急に自分のことを書いているみたいに見えてくる。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
「ましろ」
「……うん」
「これ、すごく好き」
玲奈さんが言った。
声がまっすぐだった。
「本当に?」
「うん。ましろの文章って、静かだけど、ちゃんとあたたかい」
「そんなこと……」
「あるよ」
玲奈さんは、わたしの下書きを大事そうに机へ置く。
「“隣にいる時間の中で、少しずつ見つかっていくものもある”ってところ、好き」
今度は、わたしが固まる番だった。
そこを拾われるのは、予想していた。
でも、実際に言われるとどうしていいかわからない。
「……書きすぎかと思った」
「わたしは、そこがあるから好き」
「そう」
「うん」
玲奈さんは少しだけ笑う。
「わたしたちのカード、やっぱり並べたいね」
「カードが?」
「うん。カードが」
その言い方は、昨日と同じだった。
絶対にカードだけの話ではない。
でも、指摘する勇気はなかった。
昼休みの終わり頃、朝比奈さんが教室の入口に顔を出した。
「小日向先輩!」
今日は手に小さなノートを持っている。
「原稿、少し直しました!」
「早いね」
「はい! でも、今日は見せに来たわけじゃなくて」
「違うの?」
「紹介カードのこと、聞きました!」
わたしは一瞬、玲奈さんを見た。
玲奈さんも少し驚いている。
「誰から?」
「図書室の掲示で見ました。読書週間の準備って書いてあって。小日向先輩も書くのかなって思って」
「書くことになったよ」
そう言うと、朝比奈さんの顔がぱっと明るくなった。
「絶対見に行きます!」
「絶対はちょっと」
「見ます! あと、一ノ瀬先輩のも!」
玲奈さんが笑う。
「わたしのも?」
「はい! 小日向先輩と一ノ瀬先輩の紹介カードが並んでいたら、すごく素敵だと思います!」
朝比奈さんは悪気なく言った。
本当に、まっすぐに。
わたしは返事に困った。
玲奈さんも少しだけ照れたように笑っている。
後ろから、みおがひょいと声をかけてきた。
「こはるちゃん、今のは大正解」
「大正解ですか?」
「うん。二人とも照れてる」
「みお!」
わたしが振り返ると、みおは楽しそうに笑っていた。
「だって事実だし」
「事実でも言わないで」
「紹介カード、わたしも見に行くから。三人で見に行こっか」
「三人?」
「わたしとこはるちゃんと、ついでにましろ本人」
「本人が見に行くの?」
「だって玲奈さんのカードも見るでしょ」
それは、たしかに見ると思う。
けれど、今言われると恥ずかしい。
玲奈さんが隣で小さく言った。
「じゃあ、わたしもましろのカード見に行く」
「玲奈さんはもう読んだでしょ」
「完成版は別」
「そういうもの?」
「そういうもの」
みんなが勝手に予定を増やしていく。
少し前のわたしなら、それだけで疲れていたと思う。
今も少し疲れる。
でも、それだけではない。
完成したカードを見に来てくれる人がいる。
恥ずかしいけれど、少しだけ嬉しい。
そんなふうに思ってしまう自分がいる。
放課後、図書室へ行くと、篠宮先輩はすでに窓際の机で作業をしていた。
今日は図書委員の生徒も何人かいて、静かながらも少しだけ慌ただしい。色画用紙、ペン、シール、掲示用の台紙が机の上に並んでいる。
玲奈さんと一緒に近づくと、篠宮先輩が顔を上げた。
「来てくださったのですね」
「はい。清書しようと思って」
「ありがとうございます」
篠宮先輩は、わたしたちにカード用の厚紙を渡してくれた。
淡いクリーム色のカード。
そこに清書するらしい。
「色付きのペンもあります。飾りは自由ですが、読みやすさを優先してください」
篠宮先輩らしい説明だった。
わたしはカードを受け取り、少し迷ってから黒のペンを選んだ。
玲奈さんは茶色のペンを選ぶ。
「ましろ、黒なんだ」
「読みやすいから」
「ましろらしい」
「玲奈さんは茶色?」
「うん。やわらかく見えるかなって」
「玲奈さんらしい」
わたしがそう言うと、玲奈さんは少しだけ嬉しそうにした。
「今の、なんか嬉しい」
「そう?」
「うん。わたしらしいって、ましろに言われたから」
またそうやって、普通の言葉を特別そうに受け取る。
でも、今日は少しだけわかった。
誰かに「あなたらしい」と言われるのは、悪くない。
自分では気づかない自分を、相手が見つけてくれるような気がするから。
清書は、思っていたより緊張した。
間違えたら書き直せばいい。
そう思っていても、カードに直接書くとなると手が少し固くなる。
一文字ずつ、ゆっくり書く。
好きな一文。
紹介コメント。
誰に読んでほしいか。
最後の欄で、わたしは少し迷った。
誰に読んでほしいか。
下書きでは、まだ空欄にしていた。
玲奈さんのカードをちらっと見ると、彼女もそこを悩んでいるようだった。
「ましろ、そこ悩んでる?」
「うん」
「わたしも」
「玲奈さんは、誰に読んでほしい?」
「……近づきたい人がいるけど、怖い人」
玲奈さんは少し照れたように言った。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
「ましろは?」
「わたしは……」
考える。
この本を誰に読んでほしいか。
答えは、思ったよりすぐそこにあった。
「理由がないと一緒にいちゃいけない、って思ってしまう人」
玲奈さんがこちらを見る。
わたしはカードを見つめたまま続けた。
「隣にいることに、ちゃんとした名前をつけないと不安になる人に、読んでほしいかも」
玲奈さんは何も言わなかった。
でも、黙って聞いてくれていた。
「それ、すごくいいと思う」
少しして、玲奈さんが言った。
「書きなよ」
「うん」
わたしは頷いて、ゆっくり書いた。
文字が少しだけ震えた。
でも、書き直したいとは思わなかった。
清書を終えると、篠宮先輩が確認してくれた。
「とても良いですね」
短い感想だった。
でも、篠宮先輩が言うと不思議と信じられる。
「ありがとうございます」
「一ノ瀬さんのカードも、読み手に届きやすいと思います」
「本当ですか?」
「はい。迷いを書いているところが、かえって誠実です」
玲奈さんは、少し照れたように笑った。
「ありがとうございます」
篠宮先輩は二枚のカードを手に取り、掲示用の台紙の前に立った。
「この二枚は、やはり隣に並べてもよろしいですか」
改めて聞かれると、急に恥ずかしい。
玲奈さんがわたしを見る。
わたしも玲奈さんを見る。
「……いい?」
玲奈さんが小さく聞いた。
「うん」
わたしは頷いた。
「いいよ」
篠宮先輩は、二枚のカードを同じ台紙の上に並べた。
左にわたしのカード。
右に玲奈さんのカード。
たったそれだけ。
でも、隣に並んだ瞬間、胸の奥がふわっと落ち着かなくなった。
「並んだね」
玲奈さんが小さく言う。
「カードがね」
「うん。カードが」
また、その言い方。
今度はわたしも少しだけ笑ってしまった。
篠宮先輩は何も言わずに、カードの角を丁寧に留めてくれている。
その静かな手つきを見ながら、わたしは思った。
紹介カードは、ただの紙だ。
本のことを書いただけ。
なのに、隣に並ぶと少し照れる。
たぶんそれは、そこに自分の言葉があるから。
それから、その隣に、玲奈さんの言葉があるから。
放課後の図書室は、今日も静かだった。
でも、その静けさの中で、わたしの心だけが少し騒がしかった。




