第26話 図書室の企画は、静かなのに少し騒がしい
図書室に入ると、空気の音が変わる。
廊下では、部活へ向かう生徒の足音や、誰かを呼ぶ声が混ざり合っていた。けれど扉をくぐった瞬間、それらが一枚薄い膜の向こう側へ遠ざかる。
紙の匂い。
本棚の影。
窓から入るやわらかい光。
わたしにとっては、教室よりずっと呼吸がしやすい場所だった。
けれど今日は、いつもより少しだけ違う。
隣に玲奈さんがいる。
そして前には、篠宮冬華先輩がいる。
静かな場所に、静かではない緊張がひとつ増えていた。
「こちらへ」
篠宮先輩はそう言って、図書室の奥の机へ向かった。
窓際に近い、四人掛けの机。
放課後の図書室には数人の生徒がいたけれど、みんなそれぞれ本を読んだり、課題をしたりしている。声はほとんど聞こえない。
わたしはその静けさに少し安心しながら、椅子を引いた。
玲奈さんは自然にわたしの隣へ座る。
篠宮先輩は向かい側。
たったそれだけの座り方なのに、なぜか配置を意識してしまう。
わたしの隣に玲奈さん。
向かいに篠宮先輩。
……考えすぎ。
ただ座っただけ。
そう思おうとしたけれど、玲奈さんが隣で少しだけ姿勢を正しているのがわかって、余計に意識してしまった。
「お二人とも、急にお願いしてしまってすみません」
篠宮先輩が、机の上に数枚の紙を並べた。
「読書週間の企画で、生徒がおすすめする本を紹介するカードを作ることになりました。図書委員が中心ですが、普段から図書室を利用している人にも書いていただきたくて」
「わたしは、そんなに利用してないですけど」
玲奈さんが少し控えめに言う。
篠宮先輩は静かに首を振った。
「一ノ瀬さんは、小日向さんが読んだ本を読んでみたと聞きました」
「え」
玲奈さんが固まる。
わたしも固まる。
なぜ知っているのだろう。
篠宮先輩は、表情をほとんど変えずに続けた。
「先日、貸出カウンターで見かけましたので。小日向さんと同じ棚を見ていらしたでしょう」
「あ……はい」
玲奈さんが少しだけ照れたように視線を落とす。
その反応を見て、わたしの方まで落ち着かなくなる。
篠宮先輩は気づいているのか、いないのか、淡々とした声で言った。
「本をたくさん読んでいる人の紹介も大切ですが、誰かに勧められて読んだ人の言葉も、企画には合っていると思います」
「誰かに勧められて……」
玲奈さんが小さく繰り返す。
それから、ほんの少しだけわたしを見る。
やめてほしい。
ここでそんな顔をされると、普通に座っていられない。
「小日向さんには、普段読まれている本から一冊。一ノ瀬さんには、最近読んだ本、あるいはこれから読んでみたい本で一冊。形式は短くて構いません」
篠宮先輩が紙をこちらへ滑らせる。
そこには、紹介カードの見本が印刷されていた。
タイトル、作者名、好きな一文、紹介コメント、誰に読んでほしいか。
簡単そうに見える。
けれど、書こうと思うと難しそうだった。
「好きな一文……」
わたしが呟くと、玲奈さんが隣で小さく笑った。
「ましろ、悩みそう」
「悩むよ。好きなところ、一つだけ選ぶの難しいし」
「ましろらしい」
「玲奈さんは、すぐ選べそう」
「そうかな。わたしも悩むと思う」
玲奈さんは見本の紙を見ながら、少し真面目な顔をした。
「誰に読んでほしいか、って難しいね」
「うん」
「自分が好きな本でも、誰にでも合うわけじゃないし」
「そう。だから紹介って難しい」
そう返してから、わたしは少し驚いた。
玲奈さんと本の話をするのが、前より自然になっている。
この前までは、玲奈さんが図書室にいるだけで少し不思議だった。わたしの好きな場所に、人気者の玲奈さんが入ってきたような気がして、落ち着かなかった。
でも今は、彼女が本を見て、悩んで、感想を言おうとしていることを、自然に受け止めている。
篠宮先輩が、わたしたちのやり取りを静かに見ていた。
「お二人は、感想を話すのに慣れているのですね」
「え」
わたしと玲奈さんの声が、少しだけ重なった。
篠宮先輩の表情は変わらない。
けれど、ほんの少しだけ目元がやわらかい。
「今の会話が、自然でしたので」
「自然……ですか」
「はい。相手が本をどう受け取るかを考えて話しているように見えました」
そう言われると、急に恥ずかしくなる。
感想を話す。
ただそれだけのことを、そんなふうに見られていたのかと思うと、頬が熱くなりそうだった。
玲奈さんは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「最近、ましろと本の話をするようになったので」
ましろと。
自然に名前を出された。
もう何度も呼ばれているのに、篠宮先輩の前でそう言われると、少しだけ違って聞こえる。
篠宮先輩は頷いた。
「良いことですね。本は、一人で読むものですが、読み終えたあと誰かと話すことで変わることもありますから」
「篠宮先輩も、そういうことありますか?」
玲奈さんが聞いた。
少し意外だった。
玲奈さんは篠宮先輩の前だと、どこか警戒しているようなところがあった。以前、「優しいから気をつけて」とも言っていた。
でも今の質問は、ちゃんと相手に興味を向けている声だった。
篠宮先輩は少し考えてから答える。
「あります。自分では気づかなかった場面を、誰かが大切に読んでいることがありますから」
「……それ、わかる気がします」
玲奈さんが言う。
わたしも頷いた。
同じ本を読んでも、見える景色は少し違う。
この前、玲奈さんと話したことだ。
思い出して、少しだけ胸があたたかくなる。
「小日向さんは、紹介したい本は決まっていますか」
篠宮先輩に聞かれて、わたしは少し迷った。
「候補はいくつかあります」
「どのような本ですか」
「静かな話が多いです。大きな事件が起きるというより、少しずつ人との距離が変わっていくような」
言ってから、しまったと思った。
最近、何を話しても“距離”という言葉に戻ってしまう。
玲奈さんが隣でこちらを見た気がした。
見ないでほしい。
わたしは視線を見本の紙に落とした。
「では、その変化をどう紹介するかが大事ですね」
篠宮先輩は、当たり前のように話を続けてくれた。
助かった。
「恋愛小説ですか」
「あ……はい。たぶん」
「たぶん?」
「恋愛、だと思うんですけど、はっきり告白して終わるというより、相手が少しだけ特別になっていく感じなので」
「なるほど」
篠宮先輩は頷く。
「それなら、恋愛という言葉を強く出しすぎず、“誰かが特別になっていく過程”として紹介すると読みやすいかもしれません」
「誰かが特別に……」
わたしは小さく繰り返した。
言葉としては、すごく普通だ。
でも今のわたしには、普通ではなかった。
玲奈さんが、隣で少しだけ静かになる。
たぶん、同じことを考えたのだと思う。
「一ノ瀬さんは、どうですか」
篠宮先輩が視線を移す。
玲奈さんは少し姿勢を正した。
「わたしは、この前借りた本にしようかなって思ってます」
「どのような本でしたか」
「女の子二人の話です。最初は片方が少し強引に近づいていくんですけど、途中から、相手に本当に嫌がられてないか気にするようになって……」
そこで玲奈さんは少し言葉を止めた。
わたしは何も言わなかった。
たぶん、それは玲奈さん自身のことでもある。
でも、篠宮先輩は急かさない。
玲奈さんは続けた。
「近づく方も、ただ平気なわけじゃないんだなって思える話でした」
声は静かだった。
いつもの明るい玲奈さんとは少し違う。
図書室の空気に合わせた、やわらかくて少し本音に近い声。
篠宮先輩は、しばらく玲奈さんを見ていた。
それから、穏やかに頷く。
「それは、良い紹介になりそうですね」
「そうですか?」
「はい。読む前から内容をすべて説明する必要はありません。自分がどこに心を留めたかが伝われば、十分だと思います」
玲奈さんは少しほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
その表情を見て、わたしも少しだけ嬉しくなる。
玲奈さんが誰かに自分の感想を受け止めてもらっている。
それが、こんなに自然に嬉しいことだとは思わなかった。
ただ、同時に少しだけ落ち着かない。
篠宮先輩は、やっぱり優しい。
玲奈さんが言っていたように。
優しいから、気をつけて。
その意味は、まだよくわからない。
でも、篠宮先輩の優しさは、静かに相手の内側へ届くタイプのものだと思った。
玲奈さんとは違う。
こはるとも、みおとも違う。
言葉の温度が低いのに、ちゃんとあたたかい。
それは少し、不思議だった。
「では、今日は下書きだけでも構いません。こちらの用紙に、思いつくまま書いてみてください」
篠宮先輩が用紙とペンを置いた。
わたしと玲奈さんは、それぞれ紙に向かう。
図書室が静かになる。
窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変えていた。
好きな一文。
紹介コメント。
誰に読んでほしいか。
わたしはしばらくペンを持ったまま悩んだ。
好きな一文は、いくつもある。
でも、紹介カードに載せるなら、短くて、その本の空気が伝わるものがいい。
思い浮かんだのは、あの文だった。
――隣にいる理由は、あとから見つけてもいい。
書き写そうとして、手が止まる。
これを書くのは、少し恥ずかしい。
玲奈さんと話した言葉だから。
それでも、やっぱりこの一文が一番残っている。
わたしはゆっくり書いた。
その横で、玲奈さんもペンを動かしている。
どんな一文を選んでいるのだろう。
気になったけれど、覗くのは我慢した。
少しして、玲奈さんが小さく息を吐いた。
「難しい」
「難しいね」
「ましろ、書けた?」
「好きな一文だけ」
「見てもいい?」
「……じゃあ、玲奈さんのも見せてくれるなら」
「いいよ」
思ったよりあっさり返ってきた。
二人で紙を少しだけ寄せ合う。
わたしの紙を見た玲奈さんが、静かに笑った。
「やっぱりそこなんだ」
「うん」
玲奈さんの紙を見る。
そこには、こう書かれていた。
――近づきたいと思うたび、相手が逃げないか少し怖くなる。
胸の奥が、小さく鳴った。
玲奈さんらしい、と思った。
この前の通話で聞いた話と重なる。
「玲奈さんは、そこなんだ」
「うん」
「……玲奈さんらしい」
言うと、玲奈さんは少しだけ照れたように笑った。
「ましろにそう言われると、なんか恥ずかしい」
「わたしも、自分の見られるの恥ずかしい」
「でも、見せてくれた」
「玲奈さんも見せてくれたから」
「じゃあ、おそろいだ」
「何が」
「恥ずかしいけど見せたところ」
そんなことを言うから、返事に困る。
篠宮先輩が向かい側で、静かに見守っていた。
その視線に気づいて、わたしは慌てて背筋を伸ばす。
「あ、すみません」
「いえ。とてもよい下書きだと思います」
篠宮先輩は、わたしたちの紙をそれぞれ見た。
「お二人の選んだ一文は、違いますが、同じ方向を向いているように感じます」
「同じ方向……ですか」
玲奈さんが聞き返す。
「はい。隣にいることと、近づくこと。どちらも、人との距離についての言葉ですから」
それは、あまりにもその通りだった。
わたしは何も言えなくなる。
玲奈さんも黙っている。
篠宮先輩は、特にからかうわけでもなく、ただ淡々と続けた。
「紹介カードとして並べたら、面白いかもしれませんね」
「並べる?」
「同じ棚に、関連する本として」
並べる。
わたしと玲奈さんの紹介カードが。
同じ棚に。
ただの企画だ。
それだけなのに、妙にくすぐったい。
玲奈さんが、少しだけこちらを見る。
「ましろと並ぶんだ」
「カードがね」
「うん。カードが」
玲奈さんはそう言って笑った。
絶対に、カードだけの話ではない言い方だった。
わたしは何も言わず、紹介コメントを書くふりをして視線を落とした。
その後、篠宮先輩に書き方の説明を受けながら、下書きを少しずつ進めた。
文章量は短い。
でも、短いから難しい。
好きな本を紹介するには、言いすぎてもいけないし、足りなくても伝わらない。
わたしが悩んでいると、玲奈さんが横から小さく言った。
「ましろの言葉なら、少しくらい静かでも伝わると思う」
「そうかな」
「うん。ましろの文章、たぶん静かだけど、ちゃんと残ると思う」
「読んだことないのに」
「でも、ましろの話し方でわかる」
その言葉に、少しだけ手が止まる。
玲奈さんは続けた。
「急がないで言葉を選ぶ感じ。わたし、好きだよ」
図書室でなければ、変な声が出ていたかもしれない。
篠宮先輩がいる前で。
しかも、すぐ隣で。
玲奈さんはそれをわかって言っているのだろうか。
たぶん、半分くらいはわかっている。
「……ありがとう」
小さく返す。
玲奈さんは嬉しそうに笑った。
篠宮先輩は、書類を整えながら少しだけ目を伏せていた。
見ていないふりをしてくれているのかもしれない。
それが逆に恥ずかしかった。
ひと通り下書きが終わる頃には、窓の外の光はかなり薄くなっていた。
篠宮先輩が用紙を確認する。
「十分です。清書は来週でも構いません。もしよければ、また放課後に図書室へ来てください」
「はい」
「一ノ瀬さんも、ありがとうございます」
「いえ。思ってたより楽しかったです」
玲奈さんがそう言うと、篠宮先輩はほんの少しだけ笑った。
「それならよかったです」
帰る準備をしていると、篠宮先輩がわたしに声をかけた。
「小日向さん」
「はい」
「あなたの紹介文は、きっと誰かの手に取るきっかけになると思います」
急にそんなことを言われて、わたしは少し固まった。
「……ありがとうございます」
「本当にそう思います。言葉を大切にしているのが伝わりますから」
玲奈さんが隣で静かにしている。
たぶん、聞いている。
わたしは少し恥ずかしくなって、用紙をファイルにしまった。
「まだ、下書きですけど」
「はい。だから完成が楽しみです」
篠宮先輩はそう言って、穏やかに頷いた。
図書室を出ると、廊下はもう放課後の終わりに近い空気になっていた。
生徒の数も減っていて、部活の声だけが遠くから響いている。
玲奈さんと並んで歩く。
しばらく、二人とも話さなかった。
やがて玲奈さんが、ぽつりと言う。
「冬華先輩、やっぱり優しいね」
「うん」
「優しいから、気をつけてって言ったの、覚えてる?」
「覚えてる」
「今日、ちょっと意味わかったかも」
「どういう意味?」
玲奈さんは少し考えた。
「ちゃんと見て、ちゃんと褒める人って、強いなって」
その言葉に、納得してしまった。
篠宮先輩は、静かに相手を見ている。
そして、必要なところに言葉を置く。
それは確かに、強い。
「玲奈さんも強いよ」
わたしが言うと、玲奈さんは驚いたようにこちらを見た。
「わたし?」
「うん」
「どこが?」
「近いところ」
「それ、強いっていうのかな」
「たぶん」
「褒めてる?」
「一応」
「一応なんだ」
玲奈さんが笑う。
わたしも少しだけ笑った。
「でも、玲奈さんの近さで変わったこともあるから」
言ってから、また少し恥ずかしくなる。
けれど、もう完全には隠さなかった。
玲奈さんは静かに聞いている。
「図書室に一緒に来るとか、本の感想を話すとか、紹介カードを書くとか。たぶん、前のわたしだけだったら、しなかったと思う」
「そっか」
「うん」
「ましろ」
「何?」
「今日、隣で聞けてよかった」
玲奈さんはやわらかく笑った。
「待つのもいいけど、やっぱり隣もいいね」
「……うん」
わたしは頷いた。
廊下の窓から、薄い夕方の光が差し込んでいる。
その光の中を、玲奈さんと並んで歩く。
図書室の企画は、静かなのに少し騒がしかった。
篠宮先輩の言葉。
玲奈さんの選んだ一文。
わたしの選んだ一文。
全部が、心の中で小さく音を立てている。
隣にいる理由は、あとから見つけてもいい。
今日また、その理由が一つ増えた気がした。




