第25話 待ってしまった朝は、もう言い訳できない
朝の教室には、いつもより少し早く着いてしまった。
別に、何か理由があったわけではない。
家を出る時間が少しだけ早かった。信号にあまり引っかからなかった。駅から学校までの道も、なんとなく足が軽かった。
それだけ。
それだけのはずだった。
教室の扉を開けると、まだ人は少なかった。窓際では、早く来た男子が机に突っ伏して寝ている。前の方の席では、女子二人が小さな声で昨日のドラマの話をしていた。
玲奈さんは、まだ来ていなかった。
「……まあ、そうだよね」
小さく呟いて、自分の席へ向かう。
鞄を机の横にかけ、椅子を引いて座る。窓の外はよく晴れていた。昨日まで少し白かった空が、今日はきれいに青い。
机の中に教科書を入れ、筆箱を出し、今日の時間割を確認する。
やることは、いつも通り。
それなのに、視線が何度も教室の扉へ向かってしまう。
……何をしているんだろう、わたしは。
昨日、玲奈さんは言った。
――明日も、隣行っていい?
わたしは、答えた。
――いいよ。
ただそれだけだ。
いつものことだ。
玲奈さんが朝、わたしの席の近くに来る。名前を呼ぶ。少し話す。お昼も一緒に食べる。
最近では、ほとんど日課みたいになっている。
だから、今さら特別に待つようなことではない。
ない、はずなのに。
「ましろ、早いじゃん」
後ろから声がした。
振り向くと、みおが鞄を肩にかけたまま立っていた。まだ眠そうな顔をしているくせに、目だけはやけに鋭い。
「おはよう、みお」
「おはよ。で、何回見た?」
「何を?」
「扉」
いきなり核心を突かれた。
わたしは反射的に視線を逸らす。
「見てない」
「はい嘘」
「嘘じゃない」
「今、わたしが入ってくる前から三回くらい見てたでしょ」
「見てたとしても、誰かを待ってたわけじゃない」
「誰か、とは言ってないけど」
みおはにやりと笑う。
朝から本当に嫌な幼なじみだ。
「ましろ、最近わかりやすさに磨きがかかってるよ」
「磨きたくない」
「玲奈さん待ってた?」
「待ってない」
「じゃあ、玲奈さん来なくても平気?」
「……平気だけど」
「今の間」
「みお」
「はいはい、怒らない」
みおは笑いながら自分の席に鞄を置いた。
それから、少しだけ声を落とす。
「まあ、待つのも悪くないんじゃない?」
「何が」
「来るってわかってる人を待つのって、けっこう贅沢だよ」
からかうような声ではなかった。
だから、すぐには言い返せなかった。
来るってわかっている人を待つ。
たしかに、そうなのかもしれない。
玲奈さんは来る。
何か特別な事情がなければ、きっと来る。
そのことを、わたしはもう疑っていない。
最初は、どうして来るのかわからなかった。
次の日も来ると言われて、困った。
毎日来られて、落ち着かなかった。
でも今は、来ることを知っていて、待っている。
そう考えると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……別に、贅沢とかじゃないよ」
「そういうことにしとく」
「みお、その言い方多い」
「便利だから」
「それ、わたしのやつ」
「借りた」
みおが笑った、そのとき。
教室の扉が開いた。
わたしは、見ないようにしようと思った。
思ったのに、体が先に反応した。
顔を上げる。
入ってきたのは、玲奈さんだった。
朝の光の中で、少しだけ髪が揺れる。鞄を片手に持って、教室の中を見渡して、すぐにこちらを見つける。
目が合った。
玲奈さんが、少し驚いたような顔をした。
それから、嬉しそうに笑う。
「ましろ、おはよう」
いつもの言葉。
でも今日は、少しだけ違って聞こえた。
「……おはよう、玲奈さん」
わたしが返すと、玲奈さんは自分の席に鞄を置くより先に、こちらへ来た。
「今日、早いね」
「たまたま」
「そっか」
玲奈さんは机に手を置いて、少しだけ身をかがめる。
「待っててくれた?」
真っ直ぐ聞かれた。
逃げ場がない。
後ろでみおが息を殺している気配がした。たぶん、ものすごく楽しんでいる。
「……たまたま早く来ただけ」
「うん」
「待ってたわけじゃ」
「うん」
「……少しだけ」
最後だけ、声が小さくなった。
言ってから、後悔した。
でも、もう遅い。
玲奈さんは一瞬固まって、それから、昨日コンビニの前で見せたのと同じような、胸の中に何かを大事にしまうみたいな顔で笑った。
「そっか」
「今のは、忘れて」
「無理」
「言うと思った」
「だって、無理だから」
玲奈さんは本当に嬉しそうだった。
その顔を見ると、恥ずかしいのに、言わなければよかったとは思えない。
後ろから、みおが小さく拍手した。
「いやー、朝からいいもの見た」
「みお」
「はいはい。わたしは空気になります」
「しゃべる空気は空気じゃない」
「じゃあ観葉植物」
「もっと違う」
玲奈さんが笑った。
その笑い声を聞いて、教室の朝がいつもの形に戻っていく。
でも、わたしの中では少しだけ何かが変わっていた。
待っていたことを、認めてしまった。
ほんの少しだけ。
それだけなのに、もう昨日までと同じ言い訳はできない気がした。
午前中の授業は、いつもより落ち着いて受けられた。
不思議だった。
朝にあれだけ恥ずかしいことを言ってしまったのだから、もっとそわそわするかと思っていた。
でも、実際には逆だった。
玲奈さんが斜め前にいる。
時々こちらを振り向く。
目が合うと、小さく笑う。
それがもう、落ち着かないだけのものではなくなっている。
もちろん心臓には悪い。
けれど、どこか安心もする。
待っていた人が来たからかもしれない。
昼休みになると、玲奈さんはいつものように椅子を少しずらした。
「今日も一緒でいい?」
「うん」
「返事、早い」
「……だめ?」
「だめじゃない。嬉しい」
玲奈さんはお弁当箱を開けながら、少しだけ照れたように笑う。
今日のお弁当には、きれいなオムレツと小さなコロッケが入っていた。
わたしの方は、いつもの玉子焼きと唐揚げ、それからほうれん草のおひたし。
「ましろのお弁当、見てると安心する」
「玲奈さん、それ前も言ってた」
「何回見ても思うから」
「そんなに変わらないよ」
「変わらないところがいいんだと思う」
その言葉に、少しだけ手が止まった。
変わらないところ。
自分では、最近ずいぶん変わってしまった気がしている。
朝、誰かを待つこと。
お昼を一緒に食べるのが当たり前になること。
帰り道を楽しみにすること。
電話をしても後悔しないこと。
それは、以前のわたしから見たらかなり大きな変化だ。
けれど玲奈さんは、変わらないところがいいと言う。
「……変わってないかな」
思わず口にすると、玲奈さんは箸を止めた。
「ましろ?」
「いや、最近、ちょっと変わった気がして」
「どこが?」
「いろいろ。朝とか、お昼とか、帰り道とか」
「わたしのせい?」
玲奈さんの声が、少しだけ慎重になった。
わたしは首を横に振る。
「せい、じゃないよ」
「うん」
「たぶん、玲奈さんのおかげ……でもある」
また言ってしまった。
今日は、なんだか言葉が少し前に出すぎる。
昨日の帰り道から、たぶんまだ続いているのだと思う。
待っていたとか、楽しみにしていたとか、そういう言葉を一度出してしまうと、その次の言葉も少しだけ出やすくなる。
玲奈さんは黙っていた。
わたしは恥ずかしくなって、慌てて付け足す。
「もちろん、みおとか朝比奈さんもいるし、篠宮先輩も……」
「うん」
「だから、玲奈さんだけって意味じゃなくて」
「うん」
「でも」
わたしはお弁当箱に視線を落とした。
「最初に隣に来たのは、玲奈さんだから」
それだけ言って、口を閉じた。
玲奈さんは、しばらく何も言わなかった。
教室の中は賑やかだ。
他の席では、笑い声もしている。
でも、わたしたちの机の周りだけ、少しだけ静かになった。
やがて玲奈さんが、小さく息を吐く。
「ましろ、今日ずるい」
「……ごめん」
「謝らないで。嬉しいから困ってるだけ」
「困ってるの?」
「うん。すごく」
玲奈さんは口元を手で隠した。
照れている。
たぶん、本当に。
いつもわたしを照れさせてくる人が、今日は何度も照れている。
それが少しだけおかしくて、でも直視するのは恥ずかしかった。
後ろから、みおがひょいと顔を出す。
「お二人さん、今の空気、教室で出すには濃いよ」
「みお!」
「ごめんごめん。でも、ましろが攻めてるの珍しすぎて」
「攻めてない」
「いや、今のは攻めてた。玲奈さん、完全に受けてた」
「変な言い方しないで」
玲奈さんはまだ少し頬を赤くしたまま、苦笑した。
「藤咲さん、見てたんだ」
「見えてたんです」
「それなら仕方ないね」
「仕方なくない」
わたしだけが反論している。
みおは楽しそうに笑いながら、自分の席へ戻っていった。
まったく、幼なじみというのは、どうしてああも一番見られたくないところを見てくるのだろう。
昼休みの終わり頃、教室の入口に見覚えのある姿が現れた。
篠宮冬華先輩だった。
彼女が教室へ入ってくると、近くの生徒が少しだけ静かになる。別に威圧感があるわけではない。けれど、空気を整えるような存在感がある。
篠宮先輩は担任に用があったらしく、教卓の方へ向かった。
書類を渡して、短く話す。
それで終わりだと思った。
けれど、帰り際に篠宮先輩の視線がこちらへ向いた。
正確には、わたしへ。
そして少しだけ近づいてくる。
「小日向さん」
「はい」
思わず背筋が伸びた。
玲奈さんも、隣で静かになる。
「少し、お時間よろしいですか」
「今ですか?」
「昼休みの終わりまでで構いません。図書委員の件で」
「図書委員?」
わたしは図書委員ではない。
首を傾げると、篠宮先輩は小さく頷いた。
「来月、読書週間の企画があります。図書委員だけでは手が足りないので、本をよく借りる生徒におすすめ本紹介カードの作成をお願いしているんです」
「あ……」
たしかに、図書室にはよく行く。
借りる数も少なくはないと思う。
「強制ではありません。もし負担でなければ、一枚だけでも書いていただけると助かります」
篠宮先輩の言い方は丁寧だった。
断っても責められる感じはない。
でも、少し興味があった。
おすすめ本紹介カード。
誰かに本を紹介する。
それは少し恥ずかしいけれど、嫌ではない。
朝比奈さんの原稿に感想を返したことを、少し思い出した。
言葉を選んで、誰かに渡すこと。
「……わたしでよければ」
そう答えると、篠宮先輩はほんの少し表情をやわらげた。
「ありがとうございます」
玲奈さんが隣で黙っている。
気になって横目で見ると、彼女は笑っていた。
笑っているけれど、少しだけ考えている顔だった。
篠宮先輩は続ける。
「詳細は放課後、図書室で説明します。ご都合はいかがですか」
「今日ですか?」
「難しければ、明日でも構いません」
今日の放課後。
わたしは一瞬、玲奈さんのことを考えた。
今日は一緒に帰る約束を、はっきりしたわけではない。
でも、朝からずっと、なんとなく一緒に帰るつもりでいた。
玲奈さんも、たぶんそうだったと思う。
だから迷った。
すると、玲奈さんが先に口を開いた。
「ましろ、行ってきなよ」
「え?」
「本の紹介カード、ましろに向いてると思う」
その声は、やわらかかった。
昨日、朝比奈さんの原稿を読みに行くときと同じように、一歩引いてくれる声。
「でも」
「わたし、待ってるから」
まただ。
待ってる。
その言葉に、胸が少しだけ鳴る。
篠宮先輩の視線が、玲奈さんに移った。
「一ノ瀬さんも、よければご参加されますか」
「わたしもですか?」
「はい。読書週間の企画なので、興味があれば」
少しだけ空気が変わった。
玲奈さんは一瞬、わたしを見る。
わたしも見る。
篠宮先輩は静かに待っている。
「……じゃあ、わたしも行ってみようかな」
玲奈さんが言った。
その声は明るかったけれど、ほんの少しだけ緊張しているようにも聞こえた。
篠宮先輩は頷く。
「では、放課後に図書室で」
それだけ言って、彼女は教室を出ていった。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
玲奈さんは自分の席に戻る前に、わたしを見た。
「ましろ」
「うん」
「一緒に行ってもいい?」
「……うん」
「よかった」
玲奈さんは少し笑った。
「待つのもいいけど、今日は隣で聞きたい」
その言葉に、朝から積み重なっていた何かが、また少しだけ胸の奥で揺れた。
待ってくれるのも嬉しい。
一緒に来てくれるのも嬉しい。
そんなふうに思ってしまう自分に、もう言い訳はできそうになかった。
放課後。
図書室へ向かう廊下を、玲奈さんと並んで歩いた。
少し前を、篠宮先輩が歩いている。
黒髪が揺れるたび、静かな空気がそこだけ流れているように見える。
玲奈さんは、いつもより少し静かだった。
「緊張してる?」
小さく聞くと、玲奈さんは苦笑した。
「少し」
「篠宮先輩が?」
「うん。あと、ましろの好きな場所にちゃんと入る感じがして」
「図書室はわたしの場所じゃないよ」
「でも、ましろがいると、そう見えるから」
前にも聞いた言葉だった。
わたしは少しだけ笑う。
「じゃあ、今日は一緒に入る?」
「うん」
玲奈さんも笑った。
図書室の扉の前で、篠宮先輩が振り返る。
「こちらです」
扉が開く。
紙の匂いと、静かな空気。
わたしの好きな場所。
そこへ、今日は玲奈さんと一緒に入る。
そのことが、思っていたより少しだけ嬉しかった。




