第24話 待っていた時間は、思ったより長かったらしい
朝比奈さんが先に帰ったあと、廊下は少しだけ静かになった。
いや、実際にはそんなことはない。
放課後の校舎には、いつも通りいろいろな音がある。部活へ急ぐ足音。誰かを呼ぶ声。窓の外から聞こえてくる運動部の掛け声。どこかの教室では、まだ帰らずに残っている生徒たちが笑っている。
でも、朝比奈さんが去ったあとの空気は、さっきまでより少しだけ落ち着いていた。
たぶん、あの子が持っているまっすぐな明るさが、それだけ強かったのだと思う。
玲奈さんと並んで昇降口へ向かいながら、わたしは鞄の紐を握り直した。
中には、図書室で借りた本が入っている。
それから、朝比奈さんの原稿を読んだときの感触が、まだ指先に残っている気がした。
紙の端。
印刷された文字。
少し大きすぎる比喩。
けれど、まっすぐな視線。
――図書室の窓際には、いつも静かな先輩がいる。
あれが本当にわたしを見て書かれたものなのだとしたら、朝比奈さんの中のわたしは、ずいぶんきれいな人だ。
自分では、そんなふうには思えない。
教室で目立つのが苦手で、急に褒められると固まって、近づかれると困って、でもはっきり断ることもできない。
静かというより、ただ臆病なだけ。
なのに、誰かの目には違うふうに映る。
そのことが、恥ずかしくて、少しだけ不思議だった。
「ましろ」
隣から声がした。
顔を上げると、玲奈さんがこちらを見ていた。
「考え事してる」
「……してた」
「今日は認めるの早いね」
「隠しても、玲奈さんにはすぐばれるから」
そう言うと、玲奈さんはほんの少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「そういう言い方、ずるい」
「玲奈さんによく言われるから、返してみた」
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
玲奈さんの言葉を、わたしが覚えている。
そんなのは当たり前のようで、でも自分で口にすると妙に落ち着かない。
玲奈さんは、嬉しそうだった。
いつものように明るく笑うのではなく、胸の中に何かをそっとしまうみたいな笑い方だった。
「そっか。覚えてるんだ」
「……全部じゃないけど」
「うん。でも嬉しい」
昇降口で靴を履き替える。
外に出ると、夕方の空気は少しだけ湿っていた。昼間は曇っていた空が、今は西の方だけ薄く晴れていて、校舎の影が長く伸びている。
校門へ向かう道を、二人で歩く。
朝比奈さんがいたときより、会話は減った。
けれど、その沈黙は嫌ではなかった。
最近、少しずつわかってきた。
沈黙にも種類がある。
気まずい沈黙。
言葉が見つからない沈黙。
何かを待っている沈黙。
そして、隣にいることを確認するだけでいい沈黙。
玲奈さんとの沈黙は、少し前まで二番目だった。何を話せばいいかわからなくて、間を埋めなきゃと思う沈黙。
でも今は、少しだけ違う。
無理に話さなくても、隣にいる。
それだけで成立しているような気がした。
「ましろ」
「うん?」
「こはるちゃんの原稿、どんな感じだった?」
聞き方が、慎重だった。
読みたいという好奇心はあるのだと思う。
でも、朝比奈さんがまだ自分には見せないと決めたものを、無理に聞き出すつもりはない。
その距離の取り方が、玲奈さんらしくて、らしくない気もした。
「内容を細かく言うのは、朝比奈さんに悪いから言わないけど」
「うん」
「まっすぐだった」
「こはるちゃんらしいね」
「うん。すごく」
わたしは歩きながら、言葉を探す。
「文章はまだ少しぎこちないところもあった。でも、見ている場所がよかった。ちゃんと、その人が何を大事に見ているのかが出てる感じ」
「それ、すごくいい感想だね」
「そうかな」
「うん。ましろにそう言ってもらえたら、わたしならすごく嬉しい」
玲奈さんの声が、少しだけやわらかくなる。
わたしは視線を足元に落とした。
校門までの道には、細かい砂利が少し混じっている。靴の裏で小さく音がした。
「でも、難しかった」
「感想?」
「うん。よかった、だけだと足りない気がして。でも、直した方がいいところを言いすぎても傷つけるかもしれないし」
「ましろ、ちゃんと考えるもんね」
「考えすぎるだけだよ」
「そこがいいんだと思う」
すぐに返ってきた。
わたしは返事に困る。
玲奈さんは、こういうとき迷わない。
少なくとも、そう見える。
でも昨日の通話で、玲奈さんも見えないところで考えていると知った。
だから今は、その迷わなさも、もしかしたらたくさん考えたあとに出てきたものなのかもしれないと思う。
「玲奈さんは」
「うん?」
「誰かに感想言うの、得意そう」
「そう見える?」
「うん。言葉が出てくるの早いから」
「早いだけだよ」
玲奈さんは少し笑った。
「ちゃんとした感想って、難しいよ。好きなものほど、うまく言えない」
「わかる」
「ましろのことも、そう」
足が止まりかけた。
でも、ぎりぎり止まらなかった。
「……今、何の話?」
「感想」
「わたしは本じゃないけど」
「うん。でも、ましろのことを誰かに説明しようとしたら、たぶん難しいと思って」
「説明しなくていいよ」
「したいときもあるよ」
玲奈さんは前を見たまま言った。
「ましろって、静かだけど、ただ静かなだけじゃないし。優しいけど、何でも許すわけじゃないし。困りやすいけど、ちゃんと逃げずに考えるし」
「……そんなに見なくていい」
「見ちゃうんだもん」
「便利に使ってる」
「でも本当」
いつもの言葉。
けれど、今日は少しだけ響き方が違った。
わたしは何か言おうとして、結局黙った。
代わりに、校門を出て少し歩いたところで聞いた。
「玲奈さんは、どう見られたい?」
「え?」
玲奈さんがこちらを見る。
意外だったのか、少しだけ目を丸くしていた。
「どうって?」
「みんなから、人気者とか明るいとか言われるでしょ」
「うん。まあ、よく言われる」
「でも、それだけじゃないなら……玲奈さんは、どう見られたいのかなって」
言いながら、自分でもずいぶん踏み込んだ質問をしていると思った。
けれど、聞きたかった。
玲奈さんはいつも、わたしを見ていると言う。
じゃあ、玲奈さん自身はどうなのだろう。
誰かにどう見られていると、安心するのだろう。
玲奈さんはしばらく黙って歩いた。
駅へ向かう道には、同じ学校の生徒が何人かいる。けれど、少し距離があるから会話は聞こえないはずだった。
「……難しいね」
やがて、玲奈さんが言った。
「ごめん。聞き方、変だったかも」
「ううん。そうじゃなくて、あんまり考えたことなかった」
「そうなの?」
「うん。どう見られたいかより、どう見せたらうまくいくか、みたいなことの方が多かったかも」
その言葉は、少し意外だった。
玲奈さんは、人に見られることに慣れている。
でもそれは、見られることが平気という意味ではないのかもしれない。
「明るくしてたら、だいたいの場はうまくいくし。笑ってたら、相手も話しやすそうにしてくれるし。誰かと誰かの間に入るのも、わたしが笑ってる方が楽だったりするから」
「……玲奈さん、そういうこと考えてるんだ」
「少しだけね」
「少しじゃない気がする」
玲奈さんは小さく笑った。
「ましろは、そういうところすぐ拾うね」
「玲奈さんが言ったから」
「うん。でも、拾ってくれるんだなって」
玲奈さんは少しだけ歩く速度を落とした。
わたしも自然に合わせる。
「ましろには」
「うん」
「無理に明るく見られなくてもいいかなって、最近少し思う」
胸の奥が、静かに熱くなる。
その言葉は、玲奈さんにとってたぶん軽くない。
いつものようにさらっと言っているようで、言うまでに少し迷ったのがわかった。
「……うん」
わたしは頷いた。
それから、言葉を探す。
「わたしも、玲奈さんが静かでも困らないよ」
「本当?」
「うん。少しびっくりはするかもしれないけど」
「そこは正直なんだ」
「だって、いつも明るいから」
「そっか」
「でも、静かな玲奈さんも、嫌じゃない」
言った瞬間、玲奈さんがこちらを見た。
何かを言おうとして、言わずに口を閉じる。
それから、少しだけ照れたように笑った。
「それ、嬉しいな」
「……そう」
「うん。かなり」
まただ。
自分で言った言葉なのに、玲奈さんに受け取られると急に恥ずかしくなる。
わたしは誤魔化すように前を向いた。
駅前の通りに近づくにつれて、人の数が増える。自転車が横を通り過ぎ、信号の音が遠くから聞こえる。
そんな普通の夕方の中で、玲奈さんがふいに言った。
「今日、少し寄り道しない?」
「寄り道?」
「そこのコンビニ。飲み物だけ買いたい」
「いいけど」
「本当?」
「うん。急いでないし」
「やった」
玲奈さんが笑う。
それは、いつもの明るい笑顔だった。
でも、少し前に聞いた静かな言葉のあとだと、その笑顔も少し違って見えた。
コンビニの前には、小さなベンチがあった。
玲奈さんは温かいミルクティーを買い、わたしは紙パックのりんごジュースを買った。春とはいえ、夕方の風はまだ少し冷たい。
ベンチに並んで座る。
学校の帰りに、誰かとコンビニで飲み物を買って座る。
たったそれだけのことなのに、妙に放課後らしかった。
「ましろ、りんごジュース好きなの?」
「たまに飲みたくなる」
「かわいい」
「飲み物にまで言わないで」
「だって、ましろっぽい」
「わたしっぽいって何」
「派手じゃないけど、ちゃんと甘い」
「それ、りんごジュースの感想?」
「ましろの感想も少し」
「だからわたしは本でも飲み物でもない」
玲奈さんが笑う。
その笑い声が、少しだけ外の風に混じった。
ミルクティーのふたを開ける音がする。
玲奈さんは一口飲んで、小さく息を吐いた。
「待ってる時間ってさ」
「うん?」
「けっこう長いね」
何の話か、すぐにはわからなかった。
玲奈さんは缶を両手で包みながら続ける。
「今日、ましろがこはるちゃんの原稿読みに行ってる間、教室で本読んでたんだけど」
「うん」
「ページ、あまり進まなかった」
「そうなの?」
「うん。気になって」
「朝比奈さんの原稿が?」
「それもあるけど」
玲奈さんは少しだけ視線を落とす。
「ましろが、どんな顔で戻ってくるかなって」
胸が、小さく跳ねた。
「……そんなの、気にしなくても」
「気になるよ」
「どうして」
「ましろが誰かの言葉を大事に読んでるところ、想像できたから」
玲奈さんはミルクティーの缶を見つめたまま言った。
「それが、ちょっといいなって思ったし、ちょっと寂しいなって思った」
前にも似たようなことを言っていた。
朝比奈さんに優しくするわたしを見て、寂しくなる、と。
今日の玲奈さんは、それを隠さなかった。
「……待っててくれて、ありがとう」
わたしが言うと、玲奈さんは顔を上げた。
「そこにお礼言うの?」
「うん」
「ましろらしい」
「そうかな」
「うん」
玲奈さんは少し笑って、缶を両手で持ち直した。
「でも、お礼言われるなら待っててよかった」
「現金」
「ましろにお礼言われるの、嬉しいから」
「……またそういう」
「今日くらい言わせて」
そう言われると、返せなかった。
玲奈さんは、少しだけ静かだった。
いつもなら冗談にして流すところも、今日は流さずに置いている。
わたしも、それを無理に軽くしようとは思わなかった。
ベンチの前を、買い物袋を持った人が通り過ぎる。
遠くで信号が変わる音がした。
「玲奈さん」
「うん」
「わたし、玲奈さんが待っててくれるの、嫌じゃないよ」
口にしてから、少し言い方が足りない気がした。
だから続けた。
「でも、待たせっぱなしにしたいわけじゃない」
玲奈さんは黙って聞いている。
「朝比奈さんの原稿をちゃんと読みたいと思ったのも本当だし、みおと話すと安心するのも本当。でも、玲奈さんと帰るのを少し楽しみにしてたのも本当だから」
言い終えたあと、わたしはりんごジュースのパックを両手で握った。
これは、かなり言った。
かなり、言ってしまった。
玲奈さんの方を見られない。
しばらく沈黙があった。
それから、玲奈さんが小さく息を吐いた。
「ましろ」
「……うん」
「それ、今日いちばん嬉しい」
「毎回いちばんを更新しないで」
「更新されたから」
「……そう」
玲奈さんは少し笑った。
でも、その声は本当に嬉しそうだった。
わたしはりんごジュースを少し飲む。
甘い。
玲奈さんの言った通り、派手ではないけれどちゃんと甘い味がした。
「玲奈さん」
「何?」
「ミルクティー、甘い?」
「甘いよ。飲む?」
「え」
差し出されて、わたしは固まった。
玲奈さんも、一秒遅れて気づいたように「あ」と言った。
「ごめん、今の自然に」
「自然に回し飲み提案しないで」
「だよね。ごめん」
玲奈さんは少し照れたように缶を引っ込める。
その様子がおかしくて、わたしは少しだけ笑った。
「今、笑った」
「うん。笑った」
「認めた」
「だって、玲奈さんが珍しく慌ててたから」
「ましろ、最近ちょっと意地悪」
「玲奈さんほどじゃない」
「そうかな」
「そうだよ」
二人で笑う。
夕方のベンチで、コンビニの飲み物を持って。
何でもない時間だった。
でも、たぶんこういう時間が、後から理由になるのだと思う。
隣にいる理由。
待っていた理由。
帰り道を楽しみにしていた理由。
最初から全部わかっていなくてもいい。
あとから少しずつ増えていけばいい。
飲み終えたあと、ゴミを捨てて駅へ向かった。
玲奈さんはいつものように隣を歩いている。
肩は触れない。
けれど、少しだけ近い。
駅前で別れる直前、玲奈さんが言った。
「ましろ」
「うん」
「今日は、待っててよかった」
「……うん」
「明日も、隣行っていい?」
最初の頃にも聞いたような言葉。
でも、今はもう、返事に困る理由が少し変わっている。
どうしてわたしなんかに、ではなく。
こんなに嬉しそうにされると、どう返したらいいかわからないから。
「いいよ」
それだけ言うと、玲奈さんは本当に嬉しそうに笑った。
「また明日」
「また明日」
玲奈さんが駅の方へ歩いていく。
わたしは少しだけその背中を見送ってから、自分の帰る方向へ歩き出した。
待っていた時間は、思ったより長かったらしい。
でも、待っていてくれた人がいると思うと、帰り道の夕方が少しだけ明るく見えた。




