第23話 後輩の原稿は、まっすぐすぎて隠れない
朝比奈こはるが原稿を持ってきたのは、それから二日後の放課後だった。
その日は、朝から少し空が白かった。
雨が降るほどではないけれど、晴れとも言い切れない。窓の外には薄い雲が広がっていて、教室に差し込む光もいつもよりやわらかい。こういう日は、校内の声まで少し遠く聞こえる。
けれど、朝比奈さんの声だけは、廊下の向こうからでもはっきりわかった。
「小日向先輩!」
帰りのホームルームが終わって、わたしが鞄に教科書を入れていたときだった。
教室の入口から、ぱっと顔を出した朝比奈さんが、両手でクリアファイルを抱えて立っている。走ってきたのか、少し息が弾んでいた。
その姿を見た瞬間、約束を思い出す。
――今度、わたしの書いたもの、持ってきてもいいですか?
そう言っていた。
そして、わたしは。
――読みたい。
そう答えてしまっていた。
いや、しまっていた、という言い方はよくない。
読みたいと思ったのは本当だ。
ただ、実際に持ってこられると、こちらまで少し緊張する。
「朝比奈さん」
「持ってきました!」
声は明るい。
でも、クリアファイルを抱える手には少し力が入っている。
いつもの朝比奈さんなら、こちらが返事をする前に「読んでください!」と差し出してきそうなのに、今日は一歩手前で踏みとどまっていた。
たぶん、恥ずかしいのだ。
自分の書いたものを誰かに見せるのは、勇気がいる。
わたしは書く側ではないけれど、それくらいはわかる。
好きな本を誰かにすすめるだけでも少し怖い。まして、自分の中から出した言葉を読まれるなんて、きっともっと怖い。
「……本当に、わたしが読んでもいいの?」
そう聞くと、朝比奈さんは一瞬だけ目を伏せた。
それから、こくんと頷く。
「はい。小日向先輩に読んでほしいです」
いつもの勢いとは少し違う、静かな言い方だった。
そのせいで、わたしも自然と背筋を伸ばしていた。
「わかった」
そう言って受け取ろうとしたとき、斜め前の席から玲奈さんが振り向いた。
「こはるちゃんの書いたもの?」
「あ……一ノ瀬先輩」
朝比奈さんが少し緊張した顔になる。
玲奈さんはやわらかく笑った。
「ごめん、聞こえちゃった。わたしも読んでいい?」
朝比奈さんは、ぱちぱちと瞬きをした。
「一ノ瀬先輩も、ですか?」
「だめならいいよ。無理にとは言わない」
「だめじゃないです! でも……」
朝比奈さんはクリアファイルを胸に抱き直した。
「恥ずかしいです」
素直だった。
玲奈さんは、からかわなかった。
いつものように軽く笑うのではなく、少しだけ声を落として言った。
「そっか。じゃあ、ましろに先に読んでもらう?」
朝比奈さんが迷う。
わたしは、少し考えてから言った。
「今日は、わたしだけ読もうか」
玲奈さんがこちらを見る。
朝比奈さんも見る。
「その方が、朝比奈さんが緊張しないなら」
わたしが言うと、朝比奈さんの顔が少しだけほっとしたものになった。
「……はい。すみません」
「謝らなくていいよ」
「でも、一ノ瀬先輩に読んでもらうのが嫌なわけじゃなくて」
「うん、わかってる」
玲奈さんはすぐに頷いた。
「自分が書いたものって、見せる順番も大事だよね。たぶん」
「一ノ瀬先輩……」
「わたしは、こはるちゃんが読みたいって思ってくれたときでいいよ」
朝比奈さんの表情が、ぱっと明るくなる。
玲奈さんはこういうところがある。
距離が近くて、少し強引で、わたしをよく困らせるのに。
相手が本当にためらっているところでは、ちゃんと待つ。
それを見ていると、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
「玲奈さん」
「ん?」
「……優しいね」
口にしてから、自分で固まった。
玲奈さんも固まった。
朝比奈さんは目を輝かせた。
「はい! 一ノ瀬先輩、優しいです!」
「あ、いや、今のは」
ごまかそうとしたけれど、遅かった。
玲奈さんは少しだけ頬を赤くして、口元に手を当てる。
「ましろ、急にそういうこと言う」
「忘れて」
「無理」
「また無理って言った」
「だって無理だから」
玲奈さんが少し照れたように笑う。
その顔を見て、わたしは視線を逸らした。
言わなければよかった、とは思わなかった。
でも、言ったあとで恥ずかしくなるのは、どうにかしてほしい。
後ろの席から、みおの声が飛んできた。
「今の、わたしも聞いた」
「みお」
「いやー、ましろが自然に褒めるようになったねえ。幼なじみとして成長を感じる」
「成長って言わないで」
「はいはい。で、こはるちゃんの原稿?」
みおは鞄を肩にかけながら近づいてくる。
朝比奈さんは、急に人が増えて少し慌てたようにクリアファイルを抱え直した。
「はい。でも今日は、小日向先輩だけに」
「あ、そっか。了解。無理に読ませてとは言わないよ」
意外とあっさり引いた。
みおは軽く笑って、朝比奈さんの肩越しにわたしを見る。
「ましろ、ちゃんと読んであげなよ」
「うん」
「あと、感想はやさしめに。でも嘘はなし」
「わかってる」
「ましろ、そういうの意外と真面目だから大丈夫か」
みおはひとりで納得して、ひらひらと手を振った。
「じゃ、わたし今日は委員会。玲奈さん、ましろが原稿読んでる間に邪魔しないように」
「しないよ」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「ほら怪しい」
「そこは本当に、って言うところじゃないの?」
わたしが言うと、玲奈さんは小さく笑った。
「本当に。今日は邪魔しない」
「今日は、なんだ」
「今日は」
みおは満足そうに笑って、教室を出ていった。
そのあと、わたしと朝比奈さんは図書室へ向かった。
玲奈さんは少し迷っていたけれど、最終的には「わたし、教室で本読んで待ってる」と言った。
「一緒に行かなくていいの?」
わたしが聞くと、玲奈さんは首を横に振った。
「今日は、こはるちゃんがましろに読んでほしい日でしょ」
「……うん」
「だから、行ってきて」
その言い方が、少しだけ大人だった。
いつもの距離感のおかしい玲奈さんではなく、ちゃんと一歩引いてくれる玲奈さん。
わたしは小さく頷いた。
「じゃあ、行ってくる」
「うん」
玲奈さんは笑った。
「待ってるね」
その一言に、少しだけ胸が鳴った。
待ってる。
ただの言葉なのに、最近のわたしには弱い。
図書室は、放課後のわりに人が少なかった。
窓際の席に座ると、外の白い空がよく見えた。雨は降っていない。けれど、空気だけが少し湿っているように見える。
朝比奈さんは向かいの席に座り、クリアファイルから数枚の紙を取り出した。
A4の紙が四枚。
きれいにホチキスで留められている。
タイトルは、手書きではなく印刷されていた。
『窓際の先輩』
その時点で、わたしは少し嫌な予感がした。
いや、嫌というより、恥ずかしい予感。
「あの、短いです。まだ全然うまくないんですけど」
「うん」
「誤字もあるかもしれなくて」
「うん」
「あと、その……」
朝比奈さんは言いかけて、視線をさまよわせた。
「ちょっとだけ、小日向先輩に似た人が出ます」
ちょっとだけ?
タイトルの時点で、だいぶ似ている気がする。
でも、それを言うのはやめた。
「わかった」
「読んで、嫌だったらすぐ言ってください」
「嫌だったら、ちゃんと言う」
「はい」
朝比奈さんはぎゅっと両手を膝の上で握った。
わたしは原稿に目を落とす。
最初の一文は、こうだった。
――図書室の窓際には、いつも静かな先輩がいる。
完全にわたしでは。
そう思ったけれど、黙って読み進めた。
物語は、一年生の女の子が図書室で見かける先輩に憧れる話だった。
その先輩は、特別目立つわけではない。誰かと大きな声で笑うわけでもない。ただ、窓際の席で本を読んでいる。けれど主人公は、その先輩の本をめくる指先や、ページから顔を上げるときの横顔に少しずつ惹かれていく。
文章は、ところどころぎこちなかった。
比喩が少し大きすぎるところもある。気持ちを説明しすぎている部分もある。会話はまだ硬い。
でも、嘘がなかった。
たぶん朝比奈さんは、本当にそう見えていたのだ。
図書室の窓際で本を読んでいる誰かを、こんなふうに。
読みながら、何度か顔が熱くなった。
これはほとんどわたしではないか、と思うところもあった。けれど同時に、原稿の中の先輩は、わたしよりずっときれいで、やさしくて、静かな光みたいな人だった。
わたしは、そんなふうには見えていない。
少なくとも、自分ではそう思う。
最後の場面で、主人公は先輩に声をかける。
ほんの一言。
「その本、わたしも好きです」
先輩は少し驚いて、それから小さく笑う。
物語はそこで終わっていた。
読み終えて、わたしはしばらく紙から目を離せなかった。
朝比奈さんが、向かいで息を殺しているのがわかる。
感想を言わなきゃ。
でも、簡単に「よかった」とだけ言うのは違う気がした。
それは優しいけれど、ちゃんと読んだことにはならない。
わたしは原稿をそっと机に置いた。
「朝比奈さん」
「はい」
「面白かった」
朝比奈さんの肩から、少し力が抜けた。
でも、まだ緊張している。
わたしは続けた。
「文章は、少し説明が多いところもあると思う」
「はい」
「気持ちを全部書きすぎると、読む人が想像するところが少なくなるかも」
「……はい」
「でも、見ているところがすごくいいと思った」
朝比奈さんが顔を上げる。
「見ているところ、ですか?」
「うん。ページをめくる手とか、顔を上げるタイミングとか、そういう細かいところ。ちゃんと見ていないと書けないと思う」
言いながら、自分でも少し恥ずかしくなった。
それはつまり、朝比奈さんがわたしを見ていたことを認めるみたいだったから。
でも、そこが一番よかったのは本当だ。
「あと、最後の終わり方が好き」
「本当ですか?」
「うん。大きな事件で終わらないのがいいと思う。一言声をかけただけで、その子にとってはすごく大きいことだったんだなってわかるから」
朝比奈さんの目が、少しずつ潤んでいく。
泣くほどのことを言ったつもりはなかったので、わたしは少し慌てた。
「あ、でも、えっと、直した方がいいところもあると思うから」
「違うんです」
朝比奈さんは首を振った。
「ちゃんと読んでもらえたのが、嬉しくて」
その言葉に、胸が少し詰まった。
ちゃんと読む。
たぶん、それだけのことが朝比奈さんには大事だったのだ。
「読んだよ」
わたしは言った。
「ちゃんと」
朝比奈さんは、こくんと頷いた。
図書室の静けさの中で、その頷きはとても小さかったけれど、確かなものに見えた。
「小日向先輩」
「うん」
「わたし、この話、直してみます」
「うん」
「それで、いつか、一ノ瀬先輩にも、藤咲先輩にも読んでもらいます」
「いいと思う」
「でも最初は、小日向先輩に読んでもらえてよかったです」
わたしは返事に困った。
そういうまっすぐな言葉は、やっぱり慣れない。
でも、以前ほど逃げたいとは思わなかった。
「……ありがとう」
そう言うと、朝比奈さんはまた嬉しそうに笑った。
図書室を出ると、廊下の窓から見える空は少しだけ明るくなっていた。
教室へ戻る途中、朝比奈さんは何度も原稿の端を見つめていた。たぶん、わたしが言ったことを頭の中で反芻しているのだと思う。
「小日向先輩」
「何?」
「感想って、怖いけど、嬉しいですね」
「うん」
「好きな人に読んでもらうのって、すごく怖いです」
さらっと言った。
わたしは一瞬、足を止めそうになる。
好きな人。
たぶん、朝比奈さんの言う“好き”は、尊敬や憧れに近いのだと思う。
でも、その言葉はやっぱり少し強かった。
「……朝比奈さんは、言葉がまっすぐだね」
「よく言われます」
「それ、たぶん長所だと思う」
朝比奈さんがこちらを見る。
「本当ですか?」
「うん。でも、ときどき相手がびっくりするから、少しだけ順番を考えるともっといいかも」
「順番」
「うん。急に強い言葉が来ると、受け止める方も慌てるから」
それは、朝比奈さんだけの話ではない。
玲奈さんにも、そして最近のわたし自身にも言えることだった。
言葉には順番がある。
けれど、順番を待ちすぎると、言えなくなる言葉もある。
難しい。
朝比奈さんは真剣に頷いた。
「勉強になります」
「そんな大げさなことは言ってないよ」
「でも、小日向先輩の言葉なので」
「またそういう」
「すみません。順番を考えます」
「今のは、まあ大丈夫」
朝比奈さんは少し笑った。
教室へ戻ると、玲奈さんは本当に自分の席で本を読んで待っていた。
顔を上げた瞬間、こちらに目を向ける。
「おかえり」
その言葉が、自然に届いた。
「ただいま」
わたしも、自然に返していた。
言ってから少しだけ恥ずかしくなる。
学校なのに。
教室なのに。
でも玲奈さんは、それを聞いて静かに笑っただけだった。
「どうだった?」
玲奈さんが聞く。
朝比奈さんが少し緊張した顔になる。
わたしは原稿のことを勝手に話しすぎないように、言葉を選んだ。
「ちゃんと、朝比奈さんの言葉だった」
玲奈さんは少しだけ目を細めた。
「そっか」
「うん。いいところ、たくさんあった」
朝比奈さんが隣で小さく息を呑む。
玲奈さんは彼女を見て、やさしく笑った。
「いつか、わたしにも読ませてね」
「はい」
朝比奈さんは、今度はしっかり頷いた。
「直したら、読んでください」
「うん。楽しみにしてる」
そのやり取りを見ていて、わたしは少し安心した。
玲奈さんは、わたしと朝比奈さんの時間をちゃんと待ってくれた。
そして、朝比奈さんも、自分の言葉を少しずつ誰かに渡そうとしている。
みんな、少しずつ距離の取り方を覚えていくのかもしれない。
わたしも含めて。
「ましろ」
玲奈さんが小さく呼ぶ。
「何?」
「今日、帰れる?」
「うん」
すぐに答えた。
玲奈さんは、少しだけ嬉しそうに笑う。
朝比奈さんが、わたしたちを見てから、にこっと笑った。
「今日は、わたし先に帰ります」
「え?」
「小日向先輩と一ノ瀬先輩の時間も、大事だと思うので」
言われた瞬間、わたしは固まった。
玲奈さんも固まった。
朝比奈さんは、少し誇らしげだった。
「順番、考えました!」
それは、順番を考えた結果なのだろうか。
正直わからない。
でも、朝比奈さんなりに一生懸命考えたのは伝わった。
玲奈さんが先に笑った。
「こはるちゃん、ありがとう」
「はい!」
「でも、ましろが困ってる」
「あっ」
朝比奈さんは慌ててわたしを見る。
「すみません!」
「……大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
「順番、難しいです」
「うん。難しいね」
三人で少し笑った。
そのあと、朝比奈さんは本当に先に帰っていった。
原稿を大事そうに抱えて。
その背中を見送りながら、玲奈さんが隣に並ぶ。
「こはるちゃん、いい子だね」
「うん」
「ましろ、ちゃんと読んだんだね」
「うん」
「ましろらしい」
「そうかな」
「うん。ましろは、ちゃんと読んで、ちゃんと考えて、ちゃんと言葉を返す人だから」
その言い方が、少しくすぐったかった。
「そんなに立派じゃないよ」
「わたしには、そう見える」
玲奈さんは、まっすぐ言った。
朝比奈さんの原稿の中の“窓際の先輩”みたいに。
誰かの目に映る自分は、自分で思っているよりずっと違う形をしているのかもしれない。
きれいすぎたり、優しすぎたり、逆に弱く見えていたり。
でも、その全部が嘘というわけでもないのだろう。
人に見られるのは、まだ少し怖い。
でも、見られることで初めて知る自分もある。
そんなことを思いながら、わたしは玲奈さんと並んで教室を出た。
廊下には、放課後の光が薄く伸びている。
玲奈さんが隣で言った。
「ねえ、ましろ」
「何?」
「いつか、こはるちゃんの話、わたしも読んだらさ」
「うん」
「一緒に感想言おうね」
「……うん」
「そのときは、ましろが先に言って。わたし、たぶんましろの感想も聞きたいから」
「本の感想より?」
「うん。たぶん」
「玲奈さんらしい」
「そう?」
「うん」
わたしは少しだけ笑った。
玲奈さんも笑った。
外に出ると、白かった空の隙間から少しだけ夕日が見えていた。
朝比奈さんの原稿は、まっすぐすぎて隠れない話だった。
でも、まっすぐだから届くものもある。
そのことを、わたしは今日、少しだけ知った。




