第22話 朝の教室で、昨日の声を思い出す
朝、教室の扉の前で立ち止まった。
いつものことだ。
新学期が始まってから、わたしは二年二組の扉を開ける前に、必ず一度だけ息を整えるようになった。
最初は、玲奈さんに話しかけられる心の準備のためだった。
その次は、教室の視線に慣れるため。
その次は、朝から近すぎる距離感に驚かないため。
でも今日は、少し違う。
昨日の夜の声が、まだ耳に残っていた。
スマホ越しの、少し低くてやわらかい声。
――ましろ、おやすみ。
――明日も、隣行くね。
何度も聞いたはずの名前が、夜に聞くと違っていた。
教室で呼ばれる「ましろ」と、電話越しの「ましろ」は、同じなのに少しだけ違う。
声だけになると、言葉の輪郭が近くなる。
そう気づいてしまったから、今朝はいつもより扉が重かった。
「……普通にする」
誰にも聞こえないように呟く。
普通に挨拶して、普通に席に行って、普通に授業を受けて、普通にお昼を食べる。
昨日、少し長く電話しただけ。
同じ本の感想を話しただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう自分に言い聞かせて、扉を開けた。
朝の教室は、いつも通りだった。
窓から春の光が入っている。机の間を生徒たちが歩いていて、どこかの席では昨日のテレビの話をしている。別のところでは小テストがあるかどうかで騒いでいる。
全部、いつも通り。
なのに、その中でひとつだけ、いつも通りではないものがあった。
斜め前の席。
一ノ瀬玲奈さんが、こちらを見ていた。
目が合う。
昨日の通話の最後に聞いた声が、そのまま目の前の彼女に重なる。
「……おはよう」
玲奈さんが先に言った。
いつもなら、もっと明るく「ましろ、おはよう」と言うのに、今日は少しだけ声が小さい。
わたしも、少し遅れて返す。
「おはよう、玲奈さん」
「……普通に話せたね」
「うん」
「でも、ちょっと照れてる」
「照れてない」
「わたしも照れてるから大丈夫」
「大丈夫じゃないと思う」
言ってから、二人で少しだけ黙った。
変な沈黙ではなかった。
でも、どうしていいかわからない沈黙ではあった。
玲奈さんは机の上に置いていた文庫本にそっと触れた。昨日、図書室で借りた本だ。
「昨日、もう一回最後のところ読んだ」
「わたしも」
「一緒だ」
玲奈さんが小さく笑う。
その笑顔が、昨日の夜の声と似ていた。
教室にいるのに、ほんの一瞬だけ、部屋でスマホを握っていた夜に戻った気がした。
それが恥ずかしくて、わたしは鞄を机の横にかけるふりをして視線を逸らす。
「今日、返す?」
「どうしよう。もう少し持っててもいいかなって」
「わたしも」
「また一緒だ」
「……そうだね」
また沈黙。
今度は、少しだけ笑いそうになった。
昨日の夜、あれだけ話したのに、朝になるとたったこれだけの会話で言葉に困る。
電話は近い。
でも、顔を見て話すのもやっぱり近い。
近さの種類が違うだけで、どちらも心臓には悪い。
後ろの席から、椅子を引く音がした。
「おはよー。……あれ?」
振り向かなくてもわかる。
藤咲みおだ。
「なに、この空気」
「何でもない」
わたしが即答すると、みおは逆に楽しそうな顔をした。
「何でもないにしては、二人とも朝からぎこちなくない?」
「ぎこちなくない」
「玲奈さんまでちょっと静かだし」
玲奈さんは軽く笑った。
「藤咲さん、朝からよく見てるね」
「古参なので」
「それ、最近一日一回聞いてる気がする」
「日課だからね」
みおは鞄を机に置き、わたしの顔を覗き込む。
「で、昨日何かあった?」
「何も」
「即答が怪しい」
「本の感想を話しただけ」
「夜に?」
わたしは固まった。
玲奈さんも、ほんの少しだけ視線を逸らした。
みおの目が細くなる。
「ほほう」
「みお」
「いやいや、別に悪いとは言ってないじゃん。読書感想会でしょ? 健全健全」
「その言い方がもう健全じゃない」
「通話?」
「……」
「沈黙は肯定」
「みお」
名前を呼ぶと、みおは両手を軽く上げた。
「はいはい、これ以上は聞きませんよ。ましろが本気で机の下に潜りそうだから」
「潜らない」
「でも顔は赤い」
「赤くない」
「玲奈さんも赤い」
玲奈さんが、小さく咳払いをした。
「藤咲さん、観察力すごいね」
「ましろ限定で鍛えられたので」
「わたしを教材にしないで」
「大丈夫。ましろは反応がわかりやすいから、初心者向け」
「何の初心者?」
「恋愛観察」
「本当にやめて」
思わず声が大きくなりかけたところで、予鈴が鳴った。
みおは「助かったね」とでも言いたげに笑って、自分の席へ戻る。
玲奈さんも前を向いた。
けれど、その前に一度だけこちらを振り返った。
口だけが、小さく動く。
――あとで。
たったそれだけ。
なのに、その二文字で午前中の授業が少し落ち着かなくなるのだから、本当に困る。
午前の授業は、思っていたより頭に入らなかった。
先生の声は聞こえている。ノートも取っている。黒板の文字も写している。
でも、ふとした瞬間に、昨日の通話が戻ってくる。
玲奈さんが、感想を話したいと言ったこと。
主人公にわたしを重ねたこと。
わたしが、相手役の子を玲奈さんに少し似ていると言ってしまったこと。
それから――。
――ましろに話しかけるときも、けっこう考えてるよ。
玲奈さんがそんなことを考えていたなんて、知らなかった。
いつも自然で、明るくて、平気そうで。
わたしの反応に少し意地悪く笑う余裕がある人だと思っていた。
もちろん、それも玲奈さんだ。
でも、それだけではない。
近づきすぎたかもしれないと考える玲奈さんもいる。
嫌われていないか気にする玲奈さんもいる。
それを知ってしまうと、今までの言葉が少し違って聞こえる。
玲奈さんは、いつでも一方的に近づいていたわけではなかった。
わたしが逃げないか、ちゃんと見ていた。
だから、わたしは逃げなかったのかもしれない。
四時間目が終わり、昼休みのチャイムが鳴った。
教室の空気がふっと緩む。
鞄からお弁当を取り出す。
斜め前から、玲奈さんが椅子を少しずらす音がした。
「ましろ」
「うん」
「お昼、いい?」
「うん」
いつものやり取り。
でも、今日はそれだけで少し安心した。
玲奈さんは弁当箱を開ける前に、小さく言った。
「朝、ちょっとぎこちなかった?」
「うん」
「やっぱり」
「玲奈さんも」
「うん。自分でも思った」
素直だった。
その素直さに、わたしも少しだけ肩の力が抜ける。
「でも、嫌な感じじゃなかった」
わたしが言うと、玲奈さんは箸を取り出す手を止めた。
「ほんと?」
「うん。ただ、何を話せばいいかわからなかっただけ」
「わたしも」
「玲奈さんでも?」
「わたしでも」
玲奈さんは少し笑って、弁当箱のふたを開ける。
今日は小さなハンバーグと、彩りのいい野菜のおかずが入っていた。
「昨日、いろいろ話しすぎたかなって思った」
「わたしも少し思った」
「後悔した?」
その問いは、思ったより静かだった。
玲奈さんは、こちらをまっすぐ見ていない。
お弁当を見ている。
でも、それがかえって本気に聞こえた。
「してないよ」
すぐに答えた。
自分でも驚くくらい早かった。
玲奈さんが顔を上げる。
「してない」
もう一度言った。
今度は、自分にも言い聞かせるように。
「ちょっと恥ずかしいけど、後悔はしてない」
玲奈さんは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと肩の力を抜く。
「よかった」
「玲奈さんは?」
「してないよ」
「本当に?」
「うん。ちょっと照れたけど、後悔はしてない」
同じ言葉を返された。
それだけで、少しおかしくなる。
わたしが笑うと、玲奈さんも笑った。
「ましろ、今日やっと笑った」
「そんなに見てた?」
「見てた」
「堂々と言わないで」
「でも、笑ったから安心した」
またそうやって、逃げ道をなくす。
でも今日は、その言葉を少しだけちゃんと受け取れた。
お弁当を食べながら、昨日の本の話をまた少しした。
今度は感想というより、気に入った台詞の話だった。
「ましろが好きって言ってたところ、読み返したよ」
「どこ?」
「“隣にいる理由は、あとから見つけてもいい”ってところ」
「ああ」
「あそこ、ましろが好きそうだなって」
「たしかに好き」
「わたしも、読み返したら好きになった」
「どうして?」
玲奈さんは少し考える。
「最初から理由がないと隣にいちゃだめ、みたいに思うと苦しくなるけど、あとから見つけてもいいなら、少し楽だなって」
「……うん」
「わたし、ましろの隣にいたい理由、たぶんいっぱいあるけど」
心臓が跳ねる。
玲奈さんは続けた。
「でも、うまく説明できない理由もあるんだよね」
「うん」
「だから、あとから見つけてもいいって思うと、ちょっと安心する」
玲奈さんは、わたしを見た。
「ましろは?」
「わたしも……似てるかも」
「うん」
「玲奈さんと一緒にいるの、最初は理由がわからなかった」
「うん」
「なんでわたしなんだろうって思ってたし、どうして隣に来るんだろうって思ってた」
「うん」
「今も、全部わかったわけじゃないけど」
わたしは玉子焼きを箸でつまんだまま、少しだけ迷う。
でも、昨日の通話で少し話しすぎたせいか、今日は言葉を引っ込める方が難しかった。
「最近は、理由が後から増えてる気がする」
言った。
言ってしまった。
玲奈さんが、動きを止める。
わたしは慌てて付け足した。
「その、玲奈さんがちゃんと見てくれてるとか、本の話ができるとか、お昼が前より楽しいとか、そういう……」
「ましろ」
「何」
「それ、全部すごく嬉しい」
「……そう」
「うん。ちょっと、どうしようってくらい」
玲奈さんは本当に困ったように笑った。
わたしは顔が熱くなって、玉子焼きを口に入れる。
味がいつもより甘く感じた。
たぶん気のせいだ。
昼休みが終わる少し前、教室の入口に朝比奈さんが顔を出した。
今日も元気だ。
「小日向先輩!」
わたしが顔を上げると、朝比奈さんは両手で文庫本を抱えていた。
「昨日借りた本、少し読みました!」
「早いね」
「はい! でも、まだ途中です! 感想を言いたいけど、ネタバレしたら困るので、我慢してます!」
「えらい」
そう言うと、朝比奈さんの顔が一瞬で明るくなった。
「今、えらいって言われました」
「言ったけど」
「嬉しいです」
玲奈さんが隣で小さく笑う。
「こはるちゃん、本当にましろの一言で元気になるね」
「はい! 小日向先輩の言葉は効きます!」
「薬みたいに言わないで」
「じゃあ、お守りです!」
「それも大げさ」
朝比奈さんは楽しそうに笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「あの、小日向先輩」
「何?」
「今度、わたしの書いたもの、持ってきてもいいですか?」
昨日の帰り道で話したことだ。
わたしは少し驚いたけれど、すぐに頷いた。
「うん。無理しなくていいけど、読みたい」
「はい!」
朝比奈さんは嬉しそうに頷く。
その横で、玲奈さんが穏やかに笑っていた。
以前なら、少しだけ寂しそうに見えたかもしれない。
でも今日は違った。
玲奈さんは、朝比奈さんのことを見て、ちゃんと優しく笑っている。
わたしはその横顔を見て、少し安心した。
そして同時に、その笑顔を見ている自分にも気づいた。
玲奈さんがわたしを見ているように、わたしも玲奈さんを見ている。
そのことが、もう前ほど怖くなかった。
放課後。
帰りの準備をしていると、みおが後ろから声をかけてきた。
「ましろ、今日ちょっと表情やわらかい」
「そう?」
「うん。朝はどうなるかと思ったけど」
「朝?」
「玲奈さんと二人で、昨日何かありました顔してたから」
「みお」
「はいはい、もう言わない」
みおは笑いながら、鞄を肩にかける。
それから、少しだけ声を落とした。
「でも、よかったんじゃない?」
「何が」
「ちゃんと話せたっぽい顔してるから」
その言い方が、いつものからかいではなかった。
わたしは少しだけ黙ってから、頷いた。
「……うん」
「ならよし」
みおはそれ以上聞かず、ひらひらと手を振って先に教室を出ていった。
その背中を見送っていると、玲奈さんが隣に来る。
「帰ろっか」
「うん」
並んで教室を出る。
朝のぎこちなさは、もうほとんど残っていなかった。
でも、昨日の通話がなかったことになったわけでもない。
むしろ、教室で話して、昼にお弁当を食べて、少しずついつもの距離に戻っていく中で、昨日の夜がちゃんと今日の中に混ざっていく感じがした。
昇降口で靴を履き替えると、外は穏やかに晴れていた。
玲奈さんが隣で言う。
「ましろ」
「何?」
「昨日、電話してよかった」
「……うん」
「また、してもいい?」
足元で、靴のかかとが小さく鳴った。
わたしは少しだけ考える。
電話は近い。
近すぎる。
でも、昨日の夜を後悔していない。
それなら、答えはたぶん決まっている。
「……たまになら」
玲奈さんが笑った。
「うん。たまに」
「毎日は無理だからね」
「わかってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
「じゃあ、本当に」
玲奈さんはそう言って、いつものようにわたしの隣を歩き出す。
理由は、まだ全部見つからない。
でも、隣にいることを嫌じゃないと思う理由は、少しずつ増えている。
たぶん、それでいい。
隣にいる理由は、あとから見つけてもいい。
昨日読んだ本の言葉を思い出しながら、わたしは玲奈さんの少し隣を歩いた。
肩は触れない。
でも、触れそうな距離。
今のわたしには、それくらいがちょうどよかった。




