第21話 夜の通話は、教室より少しだけ素直になる
その本を読み終えたのは、夜の十時を少し過ぎた頃だった。
普段なら、もう少し早く読み終わっていたと思う。
でも今日は、何度も同じページを行ったり来たりしてしまった。登場人物の言葉を読み返して、そのときの表情を想像して、それからなぜか現実の誰かの顔を思い浮かべてしまう。
淡い青の表紙の本。
雨上がりの通学路で、女の子がふたり並んでいる話。
派手な事件は起きなかった。
劇的な告白も、驚くような展開もなかった。
ただ、最初は少し離れていたふたりが、同じ道を歩き、同じ傘に入り、同じ景色を見て、少しずつ言葉を選ばなくなっていく。
気づいたら、相手がいない時間を寂しいと思うようになっている。
そういう話だった。
「……静かだったな」
読み終えたあと、わたしは本を閉じて、机の上に置いた。
胸の中に、まだ物語の余韻が残っている。
大きく揺さぶられたわけではない。泣いたわけでもない。けれど、読み終えたあとにすぐ別のことをする気になれない。
こういう本が、わたしは好きだ。
感情を大声で叫ばないのに、ページを閉じたあともずっと残る本。
誰かに説明しようとすると、言葉が少し足りなくなる本。
そして、今その“誰か”として真っ先に浮かんでしまうのが、少し悔しい。
スマホが震えた。
机の上で、小さく光る。
画面を見る前から、なんとなくわかった。
玲奈さんだ。
『読み終わった?』
たった一文。
それだけなのに、タイミングが良すぎて少し笑ってしまう。
わたしは返信を打った。
『今ちょうど読み終わったところ』
送ると、すぐに既読がついた。
『わたしも』
同じだった。
同じ夜に、別々の部屋で、同じくらいの時間に本を読み終える。
偶然だ。
ただの偶然。
でも、偶然だと片づけるには、少しだけ嬉しすぎた。
次のメッセージは、少し間が空いてから来た。
『感想、今言いたい』
わたしは画面を見つめる。
今。
明日じゃなくて。
教室でも、昼休みでも、帰り道でもなく、今。
少しだけ迷う。
夜にメッセージで長く感想を話すのは、きっと難しい。文字だけだと、言いたいことがうまく届かないかもしれない。
そう思ったところで、またメッセージが来た。
『少しだけ、通話してもいい?』
心臓が、わかりやすく跳ねた。
通話。
電話。
玲奈さんの声が、部屋に届く。
それは教室で話すより、帰り道で並んで歩くより、なぜかずっと近く感じた。
わたしはスマホを持ったまま、しばらく固まっていた。
断る理由はある。
もう夜だし。
明日学校で話せばいいし。
そもそも電話なんて、あまり得意じゃないし。
でも、画面の向こうで玲奈さんが返事を待っていると思うと、断る言葉が浮かばなかった。
『少しだけなら』
送信。
すぐに着信画面に変わった。
早い。
早すぎる。
わたしは深呼吸してから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『ましろ?』
玲奈さんの声だった。
当たり前なのに、少し驚く。
スマホ越しの声は、教室で聞くより少し低くて、やわらかかった。周りのざわめきがないからか、声だけが直接こちらに届く感じがする。
「うん。聞こえてる」
『よかった。声、近いね』
「それ、こっちの台詞なんだけど」
『ふふ。たしかに』
玲奈さんが笑う。
その笑い声が耳元で聞こえて、わたしは思わずスマホを少しだけ離した。
近い。
本当に近い。
『ごめんね、急に』
「ううん。大丈夫」
『ましろ、電話苦手?』
「……少し」
『じゃあ、もっとごめん』
「嫌ではないから」
言ってから、また自分で少し驚いた。
最近、こればかり言っている気がする。
嫌ではない。
嫌じゃない。
たぶん、今のわたしが玲奈さんに渡せる、いちばん素直な言葉。
玲奈さんは、少しだけ黙った。
『そっか』
「うん」
『それ、聞けてよかった』
電話越しの声は、いつもより逃げ場がない。
教室なら、ノートを見るふりができる。帰り道なら、前を向いて歩ける。
でも電話では、声だけが残る。
表情が見えないぶん、言葉の温度がそのまま届く。
「それで、本の感想」
『うん。話したい』
「どこから?」
『最後』
玲奈さんはすぐに答えた。
『最後の、二人が別々の傘を持ってるのに、結局並んで歩くところ』
「あそこ、よかったね」
『うん。あれ、ずるい』
「ずるい?」
『だって、もう相合い傘じゃないんだよ。ひとつの傘に入らなくても、隣を歩けるようになってるってことでしょ』
思わず、本の表紙を見た。
雨上がりの通学路。
触れそうで触れない手。
「……玲奈さん、そういうところ見るんだ」
『ましろは違った?』
「わたしは、最後の会話が好きだった」
『どの台詞?』
「“もう無理に言葉を探さなくても、隣にいる理由はある気がした”ってところ」
『ああ……そこ、ましろ好きそう』
「わかる?」
『わかる。ましろは、言い切らない言葉が好きそう』
「……そうかも」
自分でも思う。
はっきりした言葉より、言いかけてやめた言葉。
答えより、迷っている途中。
誰かの中にまだ名前がついていない感情。
そういうものに、つい目がいく。
『わたしはさ』
玲奈さんの声が、少し静かになる。
『あの相手役の子、思ったより怖がりなんだなって思った』
「明るい方の子?」
『うん。最初は強引で、どんどん近づいていくのに、途中から相手に嫌われてないか気にしてるでしょ』
「うん」
『あそこ、ちょっとわかるなって』
玲奈さんが、自分と重ねている。
すぐにわかった。
でも、茶化すことはできなかった。
わたしも同じように、主人公に自分を重ねていたから。
「玲奈さんも、気にするの?」
『するよ』
「……あんまり、そう見えない」
『見せてないだけかも』
その声は、少し笑っていた。
でも、全部が冗談には聞こえなかった。
『ましろに話しかけるときも、けっこう考えてるよ』
「そうなの?」
『うん。近づきすぎたかな、とか。困ってるかな、とか。でも、ましろが嫌じゃないって言ってくれると、ちょっと安心する』
胸の奥が、静かに熱くなる。
わたしは机の上の本に指先を置いた。
紙の表紙は少し冷たかった。
「……困ることはあるよ」
『うん』
「でも、嫌じゃないことの方が多い」
言ったあと、部屋の中が急に静かになった気がした。
自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。
スマホの向こうで、玲奈さんが息を飲んだような気配がした。
『ましろ』
「何?」
『今の、すごく嬉しい』
「……そう」
『うん。たぶん今日、寝る前に何回か思い出す』
「思い出さなくていい」
『無理』
「玲奈さん、すぐ無理って言う」
『だって、本当に無理だから』
玲奈さんが笑った。
少しだけ照れたような笑い方だった。
顔は見えない。
でも、きっと今、頬を赤くしている。
そう想像してしまって、わたしまで落ち着かなくなる。
「玲奈さんは」
『うん?』
「玲奈さんは、わたしが困ってるかどうか、けっこう見てくれてるよね」
『うん』
「でも、わたしも……その、見てるから」
言葉にしながら、何を言っているんだろうと思った。
でも、途中でやめる方が恥ずかしかった。
「玲奈さんが、無理して明るくしてるときとか、ちょっと寂しそうなときとか、最近は……前より、わかる気がする」
電話の向こうが、静かになった。
長い沈黙ではない。
でも、確かに玲奈さんは言葉を探していた。
『それは、困ったな』
「え?」
『ましろにそういうの、見られるの』
「嫌?」
『嫌じゃない』
わたしがよく使う言葉を、玲奈さんが使った。
それだけで、少しおかしくなる。
『でも、ちょっと恥ずかしい』
「わかる」
『ましろも?』
「うん。見られるのは恥ずかしい」
『でも、見たい』
「それ、ずるい」
『うん。自分でも思う』
ふたりで小さく笑った。
通話の中の沈黙は、思っていたほど怖くなかった。
教室の沈黙とは違う。
帰り道の沈黙とも違う。
相手が何をしているのか見えないのに、確かにそこにいるとわかる静けさ。
玲奈さんが、ふと小さく言った。
『ましろ、眠くない?』
「少し」
『ごめん、長くなった』
「まだ、少しなら大丈夫」
『じゃあ、あと少しだけ』
「うん」
『本の話じゃなくてもいい?』
心臓がまた少しだけ跳ねた。
「……うん」
『今日、帰り道でさ。ましろが“読み終わったら、また感想話そう”って言ってくれたの、嬉しかった』
「それ、昼にも言ってなかった?」
『言ったけど、まだ嬉しいから』
「嬉しさ長いね」
『長いよ。ましろ関係だと、けっこう長持ちする』
「またそういうことを」
『ごめん。でも本当』
玲奈さんは少し間を置いた。
『ましろから次の約束みたいなこと言ってくれるの、珍しいから』
それは、たぶん本当だった。
わたしはいつも受け身だ。
玲奈さんが来て、誘って、わたしは困りながら頷く。
朝比奈さんがまっすぐ来て、みおが背中を押して、わたしはようやく少し返す。
自分から何かを言うことは、あまりなかった。
でも最近、それだけでは足りない瞬間がある。
言われるのを待つだけだと、こぼれてしまうものがある気がする。
「……わたしも、話したかったから」
小さく言った。
今夜は、顔が見えなくてよかったと思った。
たぶん、かなり赤くなっている。
玲奈さんの返事は、なかなか来なかった。
「玲奈さん?」
『ごめん』
「どうしたの?」
『今、ちょっと声出すと変になりそうだった』
「変?」
『嬉しすぎて』
わたしはスマホを握ったまま、何も言えなくなった。
電話は危ない。
教室より、帰り道より、ずっと危ない。
相手の顔が見えないぶん、言葉がまっすぐ届いてしまう。
『ましろ』
「うん」
『明日、普通に話せるかな』
「何それ」
『今日いろいろ話しすぎて、顔見たらちょっと照れそう』
「……それは、わたしもかも」
『ほんと?』
「少し」
『じゃあ、朝ちょっとだけ照れてるましろ見られる?』
「見ないで」
『見ちゃうと思う』
「玲奈さん」
『ごめん。でも楽しみ』
いつもの玲奈さんだった。
それに安心して、少し笑ってしまう。
そろそろ寝よう、という話になった。
通話を切る前、玲奈さんが静かに言った。
『ましろ、おやすみ』
「……おやすみ、玲奈さん」
『明日も、隣行くね』
最初の頃にも、似たようなことを言われた気がする。
あのときは、どうして人気者がわたしなんかに、と思った。
今もまだ、少し思う。
でも、それだけではなくなった。
「うん」
短く返す。
それだけで、スマホの向こうの玲奈さんが笑った気がした。
通話が切れる。
部屋が静かになる。
机の上には、読み終えた本。
スマホの画面には、玲奈さんとの通話履歴。
わたしはしばらく、その両方を見つめていた。
同じ本を読んだだけ。
感想を話しただけ。
少しだけ電話しただけ。
それなのに、胸の奥はまだ落ち着かない。
でも、嫌ではない。
困るくらい近くて、落ち着かなくて、どう受け止めればいいのかわからない。
それでも、明日の朝を少しだけ待っている自分がいる。
わたしは本をそっと閉じ直して、机の端に置いた。
明日、図書室で返すには、まだ少し早い。
もう一度、読み返したいページがある。
たぶん玲奈さんも、同じようにどこかを読み返している気がした。
そう思うと、ひとりの部屋なのに、少しだけひとりではないみたいだった。




