第20話 同じ本を読んでも、見える景色は少し違う
その日の夜、わたしはいつもより少しだけ早く机に向かった。
宿題を終わらせるため、ではない。
いや、宿題も一応終わらせた。終わらせたけれど、普段より文字を読む速度が少し速かったし、数学の途中式はいつもより雑だったと思う。
理由は、鞄の中に入っている一冊の本だった。
図書室で借りた、淡い青の表紙の文庫本。
雨上がりの通学路に、女の子がふたり立っている。
片方は傘を持っていて、もう片方はその傘の外にいる。けれど、手だけが少し触れそうな距離にあって、表紙だけで「これは近づきそうで近づかない話なんだろうな」とわかるような、静かな絵だった。
わたしはそういう話が嫌いではない。
大きな事件が起きなくても、誰かの一言で心が揺れる話。派手な告白より、言いかけてやめた言葉のほうが強く残る話。
そういう物語を読むと、少しだけ安心する。
自分だけが、言葉にならないものを抱えているわけではないのだと思えるから。
ページを開く。
数行読んだところで、すぐに気づいてしまった。
これは、今読むと危ない本だ。
危ないと言っても、怖いとか、つらいとか、そういう意味ではない。登場人物の距離が少しずつ変わっていくたびに、どうしても現実の誰かを思い出してしまう。
名前を呼ばれること。
隣を歩くこと。
同じ傘に入ること。
同じ本を読むこと。
何もかも、最近のわたしに少しだけ近かった。
「……考えすぎ」
口に出してみる。
けれど、そう言えば言うほど、余計に考えているみたいだった。
わたしは一度本を閉じて、机の上に置いた。
スマホが小さく震えたのは、そのときだった。
画面を見ると、玲奈さんからのメッセージだった。
『本、読み始めた?』
心臓が、わかりやすく反応した。
別に変な内容ではない。図書室で本を借りたのだから、その話題が来るのは自然だ。感想を話そうという流れにもなっていた。
それなのに、夜に名前が表示されるだけで少し落ち着かなくなる。
わたしは少し迷ってから返信した。
『今、少し読んでる』
すぐに既読がつく。
それから、短い返事。
『わたしも』
たったそれだけなのに、机の向こうに玲奈さんがいるような気がした。
同じ時間に、別々の部屋で、別々のページをめくっている。
同じ本ではない。わたしが読んでいる本と、玲奈さんが借りた本は違う。でも、同じ図書室で借りた恋愛小説を、同じ夜に読んでいる。
それだけで、少し変な感じがした。
『どこまで読んだ?』
玲奈さんから続けて来る。
わたしはページ数を確認して、返した。
『まだ二十ページくらい』
『ましろ、読むの早そうなのに』
『考えながら読むと遅い』
『何考えてるの?』
そこで手が止まった。
正直に言えるわけがない。
この距離感、最近のわたしたちに少し似てるかも、なんて。
そんなことを言ったら、玲奈さんはきっと嬉しそうにする。嬉しそうにして、それから「どこが似てるの?」と聞いてくるに違いない。
わたしは少し考えてから、無難な返事を打った。
『主人公が面倒くさくて、少しわかるなって』
送ってから、これは無難なのだろうかと思った。
すぐに返信が来る。
『ましろ、自分で面倒くさいって思ってるの?』
『少し』
『そこもかわいい』
スマホを伏せた。
夜の部屋でひとり、何をしているのだろう。
でも、しばらくしてから画面を見ると、さらにメッセージが来ていた。
『ごめん、また言った』
その一文に、少しだけ笑ってしまった。
玲奈さんは近い。
言葉も、距離も、視線も。
でも最近は、近づいたあとにこちらの反応を見るようになってきた気がする。押してくるけれど、踏み込みすぎたと思えば少し引く。
最初からそうだったのかもしれない。
わたしが、気づけるようになっただけで。
『慣れてきた』
そう返してから、またすぐに後悔した。
これはどういう意味にも取れる。
玲奈さんの“かわいい”に慣れてきたのか。玲奈さんの距離に慣れてきたのか。玲奈さんそのものに慣れてきたのか。
すぐに返信が来た。
『それ、すごく嬉しい』
やっぱり拾われた。
わたしは机に額をつけたくなった。
でも、嫌ではなかった。
翌朝、玲奈さんは少し眠そうだった。
教室に入ると、いつものように斜め前の席から振り向いたけれど、その目元がほんの少しだけ柔らかい。普段の明るさはそのままなのに、朝の光の中で少しだけぼんやりして見える。
「おはよう、ましろ」
「おはよう。……寝不足?」
「ちょっと」
「本読んでた?」
「うん」
玲奈さんは小さく笑った。
「ましろとメッセージしたあと、続きが気になって」
「わたしのせいみたいに言わないで」
「少しだけましろのせい」
「理不尽」
「でも、楽しかったよ」
そう言われると、返事に困る。
昨日の夜、スマホの画面越しに少しだけ言葉を交わしたことが、朝になっても残っている。
学校で話すのとは違う。
教室のざわめきも、周囲の視線もない状態で、文字だけが届く。
それは思っていたより近かった。
玲奈さんは頬杖をつきながら、こちらを見上げる。
「ましろはどこまで読んだ?」
「半分くらい」
「早い」
「玲奈さんは?」
「三分の二くらい」
「玲奈さんの方が早いじゃない」
「ましろに感想言いたくて」
「まだ読み終わってからでいいのに」
「途中の感想も言いたい」
子どもみたいな言い方だった。
でも、玲奈さんがそう言うと、少し可愛いと思ってしまう。
思ってしまったあとで、慌てて目を逸らした。
「今日の昼、少し話す?」
わたしがそう言うと、玲奈さんはぱっと顔を明るくした。
「いいの?」
「少しだけ。ネタバレなしで」
「うん。ネタバレしない」
「玲奈さん、勢いで言いそう」
「そこは気をつける」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
玲奈さんが笑う。
その笑い声を聞いていたら、後ろからみおの声が飛んできた。
「朝から読書感想会?」
「みお、おはよう」
「おはよ。いやー、昨日の夜から続いてる感じ?」
「なんでわかるの」
「玲奈さんの顔が、夜に何か楽しいことありましたって顔してる」
玲奈さんが少しだけ固まった。
わたしも固まった。
みおはそれを見て、にやりとする。
「当たり?」
「みお、そういうの本当にやめて」
「はいはい。メッセージくらいするよね。高校生だし」
「軽く流すなら最初から言わないで」
「だって、ましろがわかりやすいから」
「わたし?」
「うん。朝からちょっと照れてる」
「照れてない」
「出た」
みおは満足そうに頷いた。
玲奈さんが小さく笑う。
「藤咲さんには、すぐばれるね」
「古参なので」
「またそれ」
「一日一回は言っておかないと」
朝から騒がしい。
でも、前よりその騒がしさに身構えなくなっている自分がいた。
昼休み。
今日は教室で、いつものように二人でお弁当を食べた。
みおは友達に呼ばれて少し離れた席へ行っている。こはるは一年生の教室にいるはずだ。だから、久しぶりにと言うほどではないけれど、玲奈さんと二人の時間になった。
玲奈さんはお弁当箱を開けるなり、少しだけ声をひそめた。
「感想、言っていい?」
「お昼より本が先なんだ」
「だって言いたくて」
「じゃあ、ネタバレなしで」
「うん」
玲奈さんは少し考えてから言った。
「あの主人公、ましろに似てる」
「……それ、昨日わたしも自分で面倒くさいって言ったやつ?」
「違う違う」
「本当に?」
「本当。面倒くさいところも少し似てるけど」
「やっぱり」
玲奈さんは慌てて手を振った。
「でも、そこがいいの。すぐに答えを出さないところとか、相手の言葉をちゃんと考えちゃうところとか」
箸が止まった。
玲奈さんは、まっすぐこちらを見ている。
「あの子、相手から近づかれると戸惑うけど、嫌じゃないときはちゃんと逃げないでしょ」
「……うん」
「そこが、ましろっぽい」
うまく返せなかった。
物語の感想なのに、わたしの話をされているみたいだった。
「玲奈さんは、そういう主人公好き?」
聞いてから、少しだけ後悔した。
でももう遅い。
玲奈さんは、驚くほど自然に答えた。
「好き」
「……本の話?」
「本の話」
そこで一拍置いて、玲奈さんは少しだけ笑う。
「でも、ましろの話でもある」
「そういうことを言う」
「うん。言った」
「開き直らないで」
「だって、本当に思ったから」
玲奈さんは卵焼きをひとつ口に入れてから、今度は少し照れたように視線を落とした。
「わたし、自分が読んだ本の感想を誰かに言うの、あまり得意じゃなかったんだよね」
「そうなの?」
「うん。何か、うまく言わなきゃって思うから」
「玲奈さんでも?」
「でも、って何」
「何でもうまく話せそうだから」
玲奈さんは少し目を丸くして、それから苦笑した。
「ましろにはそう見える?」
「うん」
「そっか。わたし、けっこう適当にしゃべってるよ」
「適当には見えない」
「じゃあ、かっこつけるのが上手いのかも」
その言い方は、いつもの玲奈さんより少しだけ弱かった。
人気者で、明るくて、誰にでも自然に話しかけられる人。
わたしは、玲奈さんのことをそういう人だと思っていた。
でも、たぶんそれだけではない。
誰とでも話せるからといって、何でも話せるわけではない。
そのことに、今さら気づく。
「……今の感想、わかりやすかったよ」
わたしが言うと、玲奈さんは顔を上げた。
「本当?」
「うん。玲奈さんがどこを見て読んでるのか、少しわかった」
「そっか」
「わたしは逆に、相手役の子が気になった」
「え、どこが?」
「明るくて、近くて、主人公を振り回すけど、ちゃんと見てるところ」
言った瞬間、玲奈さんが黙った。
自分でも、かなり踏み込んだことを言った気がした。
でも、本当にそう思ったのだ。
その本の相手役の子は、ただ強引なだけではなかった。主人公の迷いや怖がり方を見ていて、踏み込みすぎたときにはちゃんと立ち止まる。
そこが、少しだけ玲奈さんに似ていた。
「それ、わたしに似てるってこと?」
玲奈さんが小さく聞く。
わたしはお弁当箱に視線を落とした。
「……少し」
「そっか」
玲奈さんは、それだけ言って黙った。
やばい。
何か変な空気にしてしまったかもしれない。
そう思って顔を上げると、玲奈さんは頬を赤くしていた。
明らかに照れている。
「玲奈さん?」
「今の、かなり嬉しかった」
「……そう」
「うん。どうしよう、すごく嬉しい」
「そこまで?」
「そこまで」
玲奈さんは両手でお弁当箱を持ったまま、少しだけ顔をそらした。
普段、人を照れさせる側の玲奈さんが照れている。
そのことに、わたしまで落ち着かなくなる。
「ましろ、たまに急に近づいてくるよね」
「近づいてない」
「言葉が」
「……それは、玲奈さんの方が多いと思う」
「わたしはいつも近づいてるから」
「自覚あるんだ」
「あるよ」
玲奈さんは小さく笑った。
「でも、ましろから近づいてくれると、びっくりする」
「……じゃあ、控える」
「控えないで」
「どっち」
「びっくりするけど、嬉しいから」
また逃げ場をなくされる。
けれど、今日のわたしは少しだけ言い返せた。
「玲奈さんも、そういうの多いよ」
「そういうの?」
「びっくりするけど、嫌じゃないこと」
玲奈さんが、静かにわたしを見る。
その目があまりにまっすぐで、わたしは耐えられずに玉子焼きを口に入れた。
味はよくわからなかった。
昼休みの終わり頃、みおが戻ってきた。
「お、読書感想会終わった?」
「一応」
わたしが答えると、みおはわたしと玲奈さんの顔を交互に見た。
「何か、二人ともいつもより静かじゃない?」
「本の話してたから」
「本の話って、そんな顔になる?」
「どんな顔」
「言わない。今言うと、ましろが逃げるから」
「気になるんだけど」
「気にしときな」
みおは笑って、自分の席に戻っていった。
相変わらず、全部わかっているような顔をしている。
でも今日は、少しだけありがたかった。
これ以上からかわれたら、本当に逃げたくなっていたかもしれないから。
放課後、図書室に本を返しに行く必要はなかった。
まだ読み終わっていないし、玲奈さんも同じだったからだ。
それでも、帰り道の話題は自然と本の続きになった。
「今日、帰ったら続き読む?」
玲奈さんが聞く。
「読むと思う」
「わたしも」
「眠くならない程度にね」
「昨日よりは早く寝る」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
「ましろも禁止にする?」
「玲奈さんは信用できないから」
「ひどい」
そんな会話をしながら、駅まで歩く。
昨日より少しだけ自然に、肩が触れそうな距離で。
途中、信号待ちで足を止めたとき、玲奈さんがぽつりと言った。
「同じ本の感想って、同じじゃなくていいんだね」
「うん」
「ましろが違うところ見てるの、面白かった」
「玲奈さんも、わたしと違うところ見てた」
「それ、嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ。むしろ、聞けてよかった」
わたしがそう言うと、玲奈さんは少しだけ嬉しそうに笑った。
「わたしも」
信号が青に変わる。
歩き出す。
同じ道を歩いていても、見ている景色は少し違う。
同じ本を読んでも、残る言葉は少し違う。
でも、その違いを話せることが、思っていたより楽しかった。
わたしはまだ、玲奈さんの全部を知らない。
玲奈さんも、わたしの全部を知っているわけじゃない。
でも、同じ本を読んで、違う感想を持って、それを少しずつ交換していく。
それは、おかず交換より少しだけ深くて、相合い傘より少しだけ静かな距離の縮め方のように思えた。
「玲奈さん」
「何?」
「読み終わったら、また感想話そう」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
でも撤回はしなかった。
玲奈さんは、春の夕方の光の中で笑った。
「うん。絶対」
「絶対ってほどじゃないけど」
「わたしには絶対」
「……そっか」
駅が近づく。
人の声が増えていく。
けれど、今日の帰り道は、どこか図書室の続きみたいに静かだった。
声をひそめなくてもいいのに、二人の間だけ少し静かで。
その静けさが、嫌ではなかった。




