第19話 三人で帰る道は、思ったよりにぎやかで
図書室で借りた本は、鞄の中でいつもより少し重く感じた。
重い本ではない。文庫本が一冊。表紙は淡い青で、雨上がりの通学路に女の子がふたり立っている。ページ数だって、特別多いわけではなかった。
なのに、その一冊が鞄の中にあるだけで、なんとなく意識してしまう。
理由は、たぶんはっきりしている。
その本を選んだ場所に、玲奈さんがいたから。
それから、朝比奈さんも。
「小日向先輩、図書室っていい匂いがしますね」
校門へ向かう途中、朝比奈こはるが振り返って言った。
放課後の校舎は、昼休みとは違う音がする。部活へ向かう生徒の足音、遠くから聞こえる掛け声、どこかの教室に残っている誰かの笑い声。
その中で、朝比奈さんの声はよく通った。
本人は小さめに話しているつもりなのだろうけど、感情がそのまま声に乗っているから、どうしても明るく聞こえる。
「紙の匂い?」
「はい。あと、静かな感じの匂いです」
「静かな感じの匂い」
「ありますよね?」
「……ある、かも」
少し考えてから答えると、朝比奈さんはぱっと笑った。
「ですよね! 小日向先輩ならわかってくれると思いました!」
そんなに大きく喜ばれるような返事ではなかったと思う。
けれど朝比奈さんは、こちらの一言を本当に嬉しそうに受け取る。
それがくすぐったくて、少し困る。
隣を歩いていた玲奈さんが、小さく笑った。
「こはるちゃん、ましろのこと信頼してるね」
「はい!」
即答だった。
迷いがない。
「小日向先輩は、わたしが変なことを言っても、ちゃんと一回考えてくれるので」
「……変なことって自覚はあるんだ」
「あります! でも、思ったことを言わないと忘れちゃうので」
「忘れちゃうんだ」
「はい。だから言います」
強い。
ものすごく強い。
玲奈さんはそれを聞いて、楽しそうに目を細めた。
「ましろ、こはるちゃんに懐かれてる」
「懐かれてるって言い方」
「違う?」
「……違わない気もするけど」
「小日向先輩に懐いてます!」
朝比奈さんが自分で言った。
あまりにもまっすぐだったので、わたしは返事に詰まる。
普通、自分で言うものなのだろうか。
いや、朝比奈さんなら言う。
そういう子だ。
「朝比奈さんは、もう少し警戒心を持ったほうがいいと思う」
「警戒心ですか?」
「うん。知らない先輩にすぐ懐かないほうがいいというか」
「でも、小日向先輩は知らない先輩じゃありません」
「いや、知り合ってまだ数日だよ」
「図書室では前から見てました!」
「それはそれでどうなんだろう……」
わたしが小さく言うと、玲奈さんが隣で肩を震わせた。
「玲奈さん、笑ってる?」
「ううん。ましろが困ってるの、かわいいなって」
「笑ってるより悪い」
「ごめん」
謝りながら、全然悪いと思っていない顔だった。
放課後の校門を出る。
雨上がりの名残はもうほとんど消えていて、歩道の端に少しだけ水の跡が残っているくらいだった。空は薄い青で、雲がゆっくり流れている。
三人で並んで歩くには、歩道は少し狭い。
自然と、朝比奈さんが一歩前を歩き、わたしと玲奈さんがその後ろを並んで歩く形になった。
その位置が少し落ち着く。
けれど、朝比奈さんは何度も振り返るので、結局会話は三人で続いた。
「一ノ瀬先輩は、普段どんな本を読むんですか?」
「わたし? 雑誌とか、話題になってる小説を少し読むくらいかな」
「今日借りていた本、恋愛小説ですよね」
「うん。ましろが読んだことあるって言ってたから」
玲奈さんがあまりにも自然に言うから、わたしは少しだけ目を逸らした。
朝比奈さんは、きらきらした顔でこちらを見る。
「小日向先輩が読んだ本を一ノ瀬先輩が読む……素敵です」
「そんな大げさなことじゃないよ」
「大げさじゃないです! 同じ本を読むって、同じ景色を見るみたいじゃないですか?」
また、すごい表現が出てきた。
でも、少しだけわかる気もした。
同じ本を読んでも、感じ方は人によって違う。けれど、同じページをめくって、同じ言葉を目で追う時間がある。それはたしかに、同じ景色を少しだけ共有することに似ているのかもしれない。
玲奈さんがわたしの方を見る。
「ましろもそう思う?」
「……少しだけ」
「そっか」
玲奈さんは短く答えただけだった。
でも、その声が嬉しそうだったので、わたしはまた少し落ち着かなくなる。
「じゃあ、読み終わったら感想を話しましょう!」
朝比奈さんが言った。
「え、朝比奈さんも?」
「はい! わたしの本は違いますけど、恋愛小説なので!」
「それぞれの感想会?」
「はい! 図書室感想会です!」
知らないうちに新しい会が発足しそうになっている。
わたしは思わず玲奈さんを見た。
玲奈さんは笑っていた。
「いいんじゃない? 楽しそう」
「玲奈さんまで」
「ましろ、嫌?」
「嫌ではないけど」
「じゃあ決まりだね」
「その流れ、最近よく見る」
わたしが言うと、玲奈さんは悪戯っぽく笑った。
「ましろが“嫌ではない”って言うときは、だいたい本当に嫌ではないから」
「そうなのかな」
「そうだよ。嫌なときは、もっと眉が下がる」
「見すぎ」
「見ちゃうんだもん」
何度目かわからない言葉。
でも、今日はそれを聞いても、以前ほど逃げたくはならなかった。
ただ、少し恥ずかしい。
それから少し、嬉しい。
その二つが混ざって、どう反応したらいいかわからなくなる。
駅へ向かう通りに出ると、人が少し増えた。
同じ学校の生徒だけでなく、買い物帰りの人や、自転車で通り過ぎる人もいる。朝比奈さんは歩道の端を歩きながら、抱えていた本を大事そうに胸元に寄せた。
「朝比奈さん、部活は入ってるの?」
何気なく聞くと、朝比奈さんはぱっとこちらを見た。
「文芸部に入ろうか迷ってます」
「文芸部?」
「はい。でも、まだ見学だけで」
「本、好きなんだ」
「読むのは好きです。あと、文章を書くのもちょっとだけ好きです」
「そうなんだ」
意外ではなかった。
言葉がまっすぐで、表現が少し大きくて、思ったことをすぐ口にする朝比奈さんは、たしかに何かを書くのに向いていそうな気がした。
「どんなもの書くの?」
「えっと……短いお話とか、日記みたいなものとか」
朝比奈さんは少しだけ照れたように視線を落とす。
さっきまであんなにまっすぐだったのに、自分の書くものの話になると少し恥ずかしいらしい。
それがなんだか意外で、少し可愛かった。
「今度、読ませて」
言ってから、わたしは自分で驚いた。
朝比奈さんも驚いた顔をした。
玲奈さんも、隣で少しだけ目を丸くしている。
「……あ、嫌だったらいいんだけど」
「嫌じゃないです!」
朝比奈さんはぶんぶんと首を横に振った。
「すごく嬉しいです! でも、恥ずかしいです!」
「うん。無理には」
「いえ、読みます! じゃなくて、読んでもらいます! でも少し直してから!」
慌てすぎて、言葉が渋滞している。
その様子に、わたしは少し笑ってしまった。
玲奈さんが小さく言う。
「ましろ、自分から誘った」
「……たまには」
「いいと思う」
「何が?」
「そういうましろも」
その言葉が、やけに近く聞こえた。
歩道には人の声も車の音もあるのに、玲奈さんの声だけがすっと届く。
わたしは返事に迷って、結局「ありがとう」と小さく言った。
玲奈さんはそれだけで嬉しそうに笑う。
駅が近づいてきたところで、朝比奈さんが立ち止まった。
「あ、わたし、こっちです」
指差したのは、駅前の大きな通りとは反対方向の道だった。
「家、そっちなんだ」
「はい。今日は途中まで一緒に帰れて嬉しかったです」
朝比奈さんはぺこりと頭を下げる。
それから、わたしを見上げた。
「小日向先輩」
「何?」
「また、一緒に帰ってもいいですか?」
まっすぐな問いだった。
いつものように勢いだけで押してくるのではなく、ちゃんとこちらの返事を待っている。
だから、わたしもちゃんと考えた。
少し前のわたしなら、曖昧に笑ってごまかしたと思う。
でも、今は。
「……たまになら」
そう答えた。
朝比奈さんは一瞬止まって、それから本当に嬉しそうに笑った。
「はい! たまにで大丈夫です! たまにを大事にします!」
「大げさ」
「大げさじゃないです」
朝比奈さんは本を抱え直して、玲奈さんにも頭を下げた。
「一ノ瀬先輩も、ありがとうございました」
「ううん。またね、こはるちゃん」
「はい!」
朝比奈さんは数歩進んでから、もう一度振り返って手を振った。
わたしも小さく振り返す。
彼女の姿が角を曲がって見えなくなるまで、なんとなく見送ってしまった。
隣で、玲奈さんが静かに言う。
「ましろ、こはるちゃんに優しい」
「そうかな」
「うん」
「玲奈さん、それ何回か言ってる」
「何回も思うから」
玲奈さんは笑っていた。
でも、少しだけ声が静かだった。
駅へ向かう道を、今度は二人で歩く。
さっきまで前を歩く朝比奈さんが何度も振り返っていたから、急に道が静かになった気がした。
「朝比奈さん、いい子だね」
「うん。いい子」
玲奈さんはすぐに頷いた。
けれど、そのあと少しだけ間を置く。
「だから、ちょっと困る」
「困る?」
「うん」
玲奈さんは鞄の持ち手を軽く握り直した。
「まっすぐで、かわいくて、ましろに一生懸命で」
「……うん」
「そういう子に、ましろがちゃんと優しくするのを見ると」
玲奈さんはそこで言葉を止めた。
続きを探しているようだった。
わたしは急かさずに待った。
夕方の風が、歩道脇の街路樹を揺らす。
「ちょっとだけ、寂しくなる」
胸の奥が、静かに跳ねた。
玲奈さんは、こちらを見ていなかった。
前を向いたまま、少し困ったように笑っている。
「変だよね。みんなで仲良くできるの、いいことなのに」
「……変じゃないと思う」
わたしはそう言っていた。
玲奈さんがこちらを見る。
「本当?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「断言できるほど、わたしも詳しくないから」
玲奈さんが少し笑った。
それで、わたしも少しだけ息がしやすくなる。
「でも、寂しいって思うのは、変じゃないと思う」
「そっか」
「わたしも、たぶん思うから」
「ましろも?」
玲奈さんの声が、少しだけ上がった。
自分で言ってしまってから、引き返せないことに気づく。
でも、ここでごまかしたら、たぶん玲奈さんのさっきの言葉までなかったことにしてしまう。
それは嫌だった。
「……玲奈さんが、他の子とすごく楽しそうにしてたら、少し落ち着かないと思う」
声が小さくなる。
けれど、ちゃんと届いたらしい。
玲奈さんが黙った。
わたしは続ける。
「それがどういう気持ちなのかは、まだよくわからないけど」
「うん」
「でも、変じゃないと思う」
言い終える頃には、顔が熱くなっていた。
玲奈さんはしばらく黙っていた。
長い沈黙ではない。
でも、わたしにはずいぶん長く感じた。
やがて、玲奈さんが小さく息を吐く。
「ましろって、時々すごいこと言うよね」
「……今のは、すごいことじゃない」
「すごいよ」
「どこが」
「わたしが聞きたかったことを、ちゃんと言ってくれるところ」
そんなつもりはなかった。
ただ、言わないといけない気がしただけ。
玲奈さんが、寂しいと言ったから。
その寂しさを、ひとりにしたくなかったから。
「玲奈さん」
「うん」
「二人の時間がなくなるわけじゃないよ」
言ってしまった。
今日いちばん、言ってしまったと思った。
玲奈さんの足が止まる。
わたしも少し遅れて止まった。
駅前の通りの端。人が行き交う夕方の道。
その中で、玲奈さんはわたしを見ている。
「……今の、もう一回言って」
「言わない」
「ましろ」
「言わない」
「お願い」
「無理」
玲奈さんは少しだけ唇を尖らせた。
でも、目は笑っていた。
「じゃあ、覚えておく」
「忘れて」
「無理」
「玲奈さん、最近そればっかり」
「ましろが忘れられないこと言うから」
「言ってない」
「言った」
玲奈さんはそう言って、また歩き出す。
わたしも隣に並んだ。
さっきより、ほんの少しだけ近い。
肩は触れない。
でも、触れそうではある。
それくらいの距離。
「じゃあ明日のお昼は、二人?」
玲奈さんが聞いた。
「いつもの席で?」
「うん」
「……うん」
「やった」
「そんなに?」
「そんなに」
玲奈さんは素直に笑う。
わたしはその顔を見て、胸の奥が少しあたたかくなるのを感じた。
たぶん、わたしはまだ何もわかっていない。
玲奈さんへの気持ちも、朝比奈さんに向ける優しさも、みおに対する安心も。
全部に、ちゃんとした名前をつけられない。
でも、名前がなくても、そこにあることはわかる。
三人で帰る道は、思ったよりにぎやかだった。
そして二人に戻った道は、思ったより静かで、少しだけ特別だった。
鞄の中で、図書室で借りた本が揺れる。
同じ本を読んで、同じ景色を見る。
もし本当にそんなことができるなら、わたしは少しだけ知りたいと思った。
玲奈さんが、わたしの見ている景色をどう見るのか。
そして、わたしが玲奈さんの見ている景色を、どんなふうに受け取るのか。
その感想を話す時間が、今から少しだけ待ち遠しい。




