第18話 図書室では、声をひそめても距離が近い
次の日の昼休みは、いつもの場所に戻った。
教室の、わたしの席の近く。
斜め前の席から玲奈さんが椅子を少しだけずらして、いつものようにお弁当を広げる。昨日は中庭で四人だったから、教室で二人だけというのが、少し久しぶりのように感じた。
実際には、一日空いただけなのに。
「ましろ、今日ちょっと落ち着いてるね」
玲奈さんが卵サンドを手にしながら言った。
「昨日が落ち着かなかっただけ」
「中庭、そんなに緊張した?」
「したよ。人、多かったし」
「でも、楽しそうだった」
「みんなそれ言う」
「だって、楽しそうだったから」
玲奈さんは悪びれずに笑う。
わたしは箸で玉子焼きをつまみながら、小さく息を吐いた。
「……楽しくなかったわけじゃないよ」
「うん」
「ただ、慣れてないだけ」
「うん」
「だから、毎日は無理」
「じゃあ、たまにね」
玲奈さんがすぐにそう返すから、わたしは少しだけ拍子抜けした。
「もっと押してくるかと思った」
「押すときは押すけど、ましろが本当に疲れそうなときは押さないよ」
「……そういうところ、ちゃんと見てるよね」
「ましろのことは、見てるから」
箸が止まった。
玲奈さんは、それを自覚しているのかいないのか、平然とミニトマトを口に運んでいる。
最近わかってきた。
この人は、わたしを揺らす言葉を本当に自然に言う。
わざとじゃない時もある。たぶん、わざとの時もある。けれど、どちらにしても、言われたわたしのほうは簡単に平静を失う。
「……そういうの、ずるい」
「どれ?」
「今の」
「見てるって言っただけだよ?」
「それがずるい」
わたしがそう言うと、玲奈さんは少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「ましろ、最近ちゃんと言い返してくれるね」
「言い返さないと、玲奈さんのペースになるから」
「なってくれてもいいのに」
「よくない」
「えー」
軽い会話。
けれど、前よりずっと自然に言葉が返せている自分がいる。
そのことに気づくと、少し不思議だった。
最初は、玲奈さんに話しかけられるだけで息が詰まりそうだった。名前を呼ばれるのも、お弁当を一緒に食べるのも、全部が心臓に悪かった。
今も悪い。
でも、それだけではなくなっている。
「今日、図書室行くんだよね?」
玲奈さんが思い出したように言った。
「うん。昨日言ってた本、読み終わったから返す」
「こはるちゃん、待ってるかな」
「……待ってそう」
「待ってると思う」
「だよね」
わたしが言うと、玲奈さんは少しだけ楽しそうに目を細めた。
「わたしも行っていい?」
「え?」
「図書室」
「玲奈さんが?」
「うん」
「本、借りるの?」
「ましろが普段どんな本借りてるのか、見たい」
「目的が本じゃない」
「ちゃんと本も見るよ」
絶対、主目的はわたしだ。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
「別にいいけど、図書室では静かにしてね」
「わたし、そこまで騒がしくないよ」
「どうかな」
「ましろ、けっこう失礼」
「玲奈さんにだけだよ」
言ってから、あっと思った。
玲奈さんが一瞬だけ黙る。
それから、ゆっくり笑った。
「わたしにだけ?」
「……今のは、言葉の流れで」
「流れでも嬉しい」
「またそれ」
「何回でも言うよ。嬉しいから」
玲奈さんは本当に嬉しそうに言う。
わたしは返事に困って、ご飯を口に運んだ。
すると後ろから、みおの声が飛んできた。
「いいねえ、昼休みから放課後デートの相談?」
「デートじゃない」
「図書室デート」
「違う」
「本を返しに行くだけです」
「玲奈さんも行くんでしょ?」
みおは前のめりになる。
玲奈さんは平然と頷いた。
「うん。ましろのおすすめ、見たいから」
「ほら、デートじゃん」
「みお」
「はいはい。怒らない」
怒ってはいない。
でも、この幼なじみは本当にすぐそういう方向に持っていく。
玲奈さんまで少し楽しそうなのが、さらによくない。
「みおは行かないの?」
わたしが聞くと、みおは肩をすくめた。
「今日は委員会。残念ながら、図書室デートの監視はできません」
「監視しなくていい」
「でも、こはるちゃんいるんでしょ? 玲奈さん、がんばって」
「がんばるって何を?」
玲奈さんが笑顔で聞き返す。
みおも笑顔で返す。
「さあ?」
この二人、やっぱり変なところで相性が悪いのか、良いのか、わからない。
放課後。
帰りのホームルームが終わると、教室は一気に人の流れができた。
部活へ向かう子、友達と帰る子、教室に残って話す子。いつものざわめきの中で、わたしは鞄に読み終わった本を入れた。
玲奈さんは斜め前の席で、友達に何か声をかけられていた。
「玲奈、今日カフェ寄らない?」
「あー、ごめん。今日は用事ある」
「用事?」
「図書室」
「玲奈が図書室?」
「たまには行くよ」
その友達の視線が、ちらりとわたしに向いた。
たぶん、何か察された。
わたしはそっと目を逸らす。
玲奈さんは自然な顔でこちらへ来る。
「行こ、ましろ」
「うん」
並んで教室を出る。
廊下は放課後らしく騒がしかったけれど、図書室のある棟へ向かうにつれて少しずつ音が遠くなる。
「玲奈さんって、図書室あまり来ない?」
「たまには来るよ。でも、ましろほどではないかな」
「わたしも毎日じゃないけど」
「でも似合う」
「またそれ」
「本棚の前にいるましろ、落ち着いてていいなって思う」
「見たことあるの?」
「あるよ」
何気ない言い方だった。
わたしは足を少しだけ止めかける。
「いつ?」
「一年のとき。たぶん何回か」
「……そんな前から?」
「うん」
玲奈さんは前を向いたまま言った。
「図書室の窓際で本読んでる子がいて、静かで、でも退屈そうじゃなくて。なんか、自分の場所をちゃんと持ってる感じがした」
思っていたより具体的だった。
それは、ただの「見かけた」ではない気がした。
わたしが黙っていると、玲奈さんがこちらを見る。
「ごめん。ちょっと怖かった?」
「怖いというか……驚いた」
「だよね」
「でも、嫌ではない」
言ってから、自分でも少し驚いた。
最近、こういう言葉を前より言えるようになっている。
嫌ではない。
嬉しい、とまではまだ言えない。
でも、拒みたくはない。
玲奈さんは、ゆっくり笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、今日ちゃんと見せて。ましろの好きな場所」
「図書室はわたしのものじゃないけど」
「でも、ましろがいると、そう見える」
その言葉に返事をする前に、図書室の扉が見えた。
入口の前で、誰かが立っている。
小柄な後ろ姿。
両手で本を抱えて、落ち着かなさそうに左右を見ている。
わかりやすすぎる。
「小日向先輩!」
こちらに気づいた瞬間、朝比奈こはるがぱっと顔を明るくした。
そのあと、玲奈さんにも気づいて少しだけ姿勢を正す。
「一ノ瀬先輩も!」
「こんにちは、こはるちゃん」
「こんにちは! 今日は一緒なんですね!」
「うん。ましろのおすすめの本、見せてもらおうと思って」
こはるの目が輝いた。
「小日向先輩のおすすめ……! わたしも知りたいです!」
「二人して期待されても困るんだけど」
図書室の前だから、自然と声が小さくなる。
けれど、こはるのテンションは声量を下げても伝わってきた。目がきらきらしているし、身体が少し前のめりになっている。
図書室に入ると、空気が変わった。
紙の匂い。
棚が並ぶ静けさ。
窓から入る淡い光。
教室とも中庭とも違う、少しだけ時間の流れがゆっくりになる場所。
わたしはカウンターで本を返却してから、新しく借りる本を探しに棚へ向かった。
当然のように、玲奈さんが隣に並ぶ。
少し遅れて、こはるが反対側に来る。
……両側。
逃げ場がない。
「ましろ、どの棚よく見るの?」
「こっち。現代小説とか、恋愛ものとか」
「恋愛もの」
玲奈さんが少しだけ楽しそうに言う。
こはるも小声で反応する。
「小日向先輩、恋愛小説読むんですね」
「読むよ。そんなに意外?」
「意外ではないです! すごく似合います!」
「本のジャンルが似合うって、よくわからないけど」
「繊細な恋を読んで、静かに感情を動かしてそうです」
「朝比奈さん、ときどき表現が大きいね」
「思ったことを言ってます!」
「それが大きい」
こはるは少し照れたように笑う。
玲奈さんは棚の背表紙を見ながら、ふと一冊を手に取った。
表紙には、放課後の教室で向かい合う女の子二人が描かれている。
玲奈さんがこちらを見る。
「これ、読んだことある?」
「……ある」
「どんな話?」
「静かな話」
「また便利な言葉」
「でも本当に静かな話なんだよ。大きい事件はあまり起きなくて、少しずつ距離が近づく感じ」
「へえ」
玲奈さんは表紙を見つめる。
「少しずつ距離が近づく話、好きなんだ」
「……まあ」
「今のわたしたちみたい?」
図書室でなければ、変な声が出ていたと思う。
こはるが隣で小さく息を飲む。
わたしは本棚の前で固まった。
「玲奈さん」
「声、小さくしてるよ?」
「そういう問題じゃない」
「違う?」
「……違う、と思う」
「思うなんだ」
玲奈さんは小さく笑う。
その笑い声も、図書室の空気に合わせて静かだった。
静かだから余計に近く感じる。
こはるが、遠慮がちに手を挙げた。
「あの……わたしは、少しずつ距離が近づく話、素敵だと思います」
「朝比奈さんまで」
「でも、一気に近づくのも好きです!」
「それは朝比奈さんっぽい」
思わず言うと、こはるは嬉しそうに笑った。
「小日向先輩にわたしっぽいって言われました」
「褒めたかはわからないよ」
「褒め言葉として受け取ります!」
強い。
この子は本当に強い。
玲奈さんが少しだけ肩を震わせて笑っている。
「こはるちゃん、ましろを困らせるの上手だね」
「一ノ瀬先輩ほどではないです!」
「そうかな」
「はい。一ノ瀬先輩は小日向先輩を照れさせるのが上手です」
こはるの直球が、図書室の静けさの中で飛んできた。
わたしは本当に本棚に額をつけたくなった。
「朝比奈さん、声」
「あっ、すみません!」
こはるは慌てて口元を押さえる。
その仕草が素直すぎて、少しだけ笑ってしまった。
玲奈さんがすぐに気づく。
「ましろ、笑った」
「……ちょっとだけ」
「今日は認めるんだ」
「図書室だから、言い合うと迷惑になる」
「じゃあ、図書室では素直なんだ」
「そういうことにしないで」
でも玲奈さんは楽しそうだった。
しばらく三人で棚を見ていると、わたしは一冊の本を抜き取った。
淡い青の表紙。
雨の帰り道を描いたイラスト。
あらすじを読んで、少し気になっていた本だ。
「あ、それ借りるんですか?」
こはるが小声で聞いてくる。
「うん。前から気になってたから」
「どんな話ですか?」
「幼なじみ同士が、少しずつ変わっていく話、かな」
「幼なじみ」
玲奈さんが反応した。
その声に、わたしは少しだけ顔を上げる。
「何?」
「藤咲さんみたいだなって」
「みおは、あんなに静かな幼なじみじゃないと思う」
「確かに」
玲奈さんが小さく笑う。
でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ別の感情が見えた気がした。
羨ましい、と以前言っていた顔。
わたしは本を胸に抱えたまま、少し迷ってから言った。
「みおはみおだよ」
「うん」
「玲奈さんは玲奈さん」
玲奈さんの目が、少しだけ大きくなる。
こはるが隣で黙った。
図書室の静かな空気の中で、自分の言葉だけが妙にはっきり響いた気がした。
「比べなくていいと思う」
そこまで言って、わたしは視線を逸らした。
恥ずかしい。
何を言っているんだろう。
でも、言わないといけない気がした。
玲奈さんが、みおの話になると少しだけ静かになるから。
わたしの昔を知っている人と、今近づいてきている人は、同じ場所に立たなくていい。
それぞれ違う。
わたしにとって。
「……ましろ」
「今のは、深い意味じゃなくて」
「うん」
「その、普通に」
「普通、便利だね」
「便利だから」
玲奈さんは何か言いかけて、やめた。
代わりに、すごくやわらかい声で言った。
「ありがとう」
その一言で、わたしの耳が熱くなる。
こはるが両手で本を抱えながら、小さく呟いた。
「小日向先輩、そういうところ、本当に素敵です」
「朝比奈さんまで……」
「すみません。でも、言いたくて」
「……ありがとう」
お礼を言うと、こはるは信じられないくらい嬉しそうな顔をした。
そういう顔をされると、こちらも困る。
結局、わたしはその青い表紙の本を借りることにした。
玲奈さんも、一冊選んだ。
さっきの女の子二人の表紙の本だった。
「それにするの?」
「うん。ましろが読んだことあるなら、読んでみたい」
「感想、期待しないでね」
「感想、ましろと話したい」
「……なら、少しだけ」
「やった」
こはるも一冊借りた。
タイトルを見ると、少し甘そうな学園恋愛小説だった。
「朝比奈さんも恋愛もの?」
「はい! 勉強します!」
「何の?」
「距離の詰め方です!」
「参考にしなくていいと思う」
玲奈さんが隣で吹き出しそうになっている。
わたしはため息をついたけれど、少しだけ笑ってしまった。
図書室を出る頃、廊下には夕方の光が差し込んでいた。
こはるは本を大事そうに抱えて、何度もこちらを見上げてくる。
「小日向先輩、また図書室で会えますか?」
「たぶん」
「たぶんでも嬉しいです」
「朝比奈さんは、何でも嬉しそうだね」
「小日向先輩が関係してると、だいたい嬉しいです」
即答だった。
本当にまっすぐだ。
玲奈さんが小さく咳払いをする。
「こはるちゃん、帰りは?」
「今日は部活ないので、このまま帰ります!」
「方向は?」
「駅の方です!」
同じ方向だった。
玲奈さんが、ほんの一瞬だけこちらを見る。
その視線が言っている。
どうする?
わたしは少しだけ考えて、言った。
「じゃあ、途中まで一緒に行く?」
こはるの顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
玲奈さんは少しだけ目を伏せたあと、笑った。
「じゃあ三人で帰ろっか」
その声は明るかった。
でも、少しだけ何かを譲ったようにも聞こえた。
昇降口へ向かう途中、こはるは図書室で借りた本の話を楽しそうにしていた。
玲奈さんはそれに相槌を打っている。
わたしはその真ん中、少しだけ後ろを歩いた。
こはるのまっすぐな声。
玲奈さんのやわらかい返事。
二人とも、違う。
近づき方も、言葉の選び方も、わたしを見る目も。
でも、その違いに振り回されるばかりではなくなっている自分がいた。
昇降口で靴を履き替えると、夕方の空気が少し冷たかった。
校門へ向かう道で、こはるが先を歩きながら振り返る。
「小日向先輩、今日すごく楽しかったです!」
「本を借りただけだよ」
「はい。でも、楽しかったです!」
その言葉が素直すぎて、わたしは少しだけ笑った。
「そっか」
隣で玲奈さんが、わたしを見ている。
「ましろ」
「何?」
「図書室のましろ、やっぱりいいね」
「……またそれ」
「今日、見せてもらえてよかった」
そう言われると、何も返せなくなる。
こはるが前で手を振っている。
玲奈さんが隣で笑っている。
わたしの手には、新しく借りた本がある。
静かな図書室で選んだ、少しだけ今のわたしに似ている気がする本。
距離は、急に変わるものではない。
少しずつ、知らないうちに近づいていく。
声をひそめても、近いものは近い。
図書室を出たあとも、その距離はまだ、わたしの中に残っていた。




