第17話 中庭ランチは、思ったより逃げ場がない
約束というものは、口にした瞬間よりも、翌日になってからのほうが重みを増すことがある。
昨日の昼休み。
朝比奈こはるが「小日向先輩とお昼を食べたいです」と目を輝かせ、玲奈さんが「じゃあ今度、みんなで食べる?」と言い、みおが「春だし」と勝手に背中を押した。
そしてわたしは、言ってしまったのだ。
――一回だけなら。
その一回が、今日になった。
「ましろ、今日のお昼、中庭だよね?」
朝、教室に入ってすぐ、玲奈さんが振り向いて言った。
彼女の声はいつもより少しだけ弾んでいる。
「……そう、だね」
「楽しみ?」
「緊張してる」
「ましろらしい」
「玲奈さんは楽しそうだね」
「うん。楽しみ」
即答だった。
そのまっすぐさに、少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。
わたしは鞄を机の横にかけながら、ため息をついた。
「そんなに楽しみにするようなことかな」
「するよ。ましろと外でお昼食べるの、初めてだし」
「みんなもいるけど」
「うん。それも含めて」
玲奈さんはそう言って笑う。
“みんな”という言葉を、昨日のわたしはたぶん少し怖がっていた。
玲奈さんとお昼を食べることには、いつの間にか慣れてきた。完全に平気になったわけではないけれど、弁当箱を開くときに隣に玲奈さんがいることを、もう不自然だとは思わなくなっている。
でも、そこにみおとこはるが加わる。
人数が増える。
会話が増える。
視線も、たぶん増える。
中庭なんて、他の生徒もいる場所だ。
目立たないわけがない。
「やっぱり教室じゃだめ?」
思わず小さく聞くと、玲奈さんは少し首を傾げた。
「だめじゃないけど、こはるちゃんが中庭って言ってたから」
「そうだけど」
「それに、たぶん教室だとこはるちゃん入りづらいと思うよ」
意外とちゃんと考えていた。
わたしが黙ると、玲奈さんは少しだけ声をやわらかくした。
「無理なら、やめてもいいよ」
「え?」
「ましろが本当に嫌なら、わたしから言う。今日はなしにしようって」
その言葉に、少し驚いた。
玲奈さんは強引だ。
近いし、誘い方も自然すぎて断る隙がない。いつの間にか予定が決まっていることも多い。
でも、こういうところでちゃんと止まってくれる。
本当に嫌かどうか、見ようとしてくれる。
それがわかるから、困る。
逃げ道をくれる人に、わたしは意外と逃げられない。
「……嫌ではないよ」
「ほんと?」
「うん。ただ、落ち着かないだけ」
「じゃあ、落ち着かないまま一緒に行こう」
「解決してない」
「でも、ひとりで落ち着かないよりよくない?」
玲奈さんは笑った。
少し考えてしまう。
確かに、ひとりで落ち着かないよりは、誰かと落ち着かない方がいいのかもしれない。
いや、それは本当にそうなのだろうか。
よくわからない。
でも、玲奈さんがそう言うと、少しだけそう思えてくる。
「……わかった」
「やった」
「そんなに喜ばないで」
「喜ぶよ」
玲奈さんが本当に嬉しそうにするから、わたしはそれ以上何も言えなくなった。
後ろの席から、みおの声が飛んでくる。
「朝から中庭ランチ会議?」
「みお、聞いてたの?」
「聞こえたの。あと、わたしも参加者なので」
みおは自分の席に鞄を置きながら、当然のように会話に入ってくる。
「ましろ、安心しな。逃げたくなったらわたしが回収するから」
「回収って何」
「持ち帰る」
「物みたいに言わないで」
「じゃあ保護?」
「もっとやだ」
玲奈さんが小さく笑う。
「藤咲さんがいると、ましろも安心だね」
「まあね。幼なじみですから」
「また出た」
「肩書きは何度使っても減らないので」
みおは得意そうに言う。
朝から調子がいい。
その軽さに少しだけ救われるのも事実だった。
昼休みになるまでの時間は、いつもより少し長く感じた。
授業中、黒板の文字を写していても、頭のどこかで中庭のことを考えている。お昼を食べるだけ。何も大げさなことではない。
けれど、わたしにとっては十分大きい。
友達と外で食べる。
しかも、玲奈さんと、みおと、こはると。
その組み合わせは、どう考えても静かではない。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
教室が一気に緩む。
鞄から弁当を取り出す手が、少しだけぎこちなくなった。
「ましろ」
斜め前から玲奈さんが振り向く。
「行こ」
「うん」
その短い言葉だけで、少し落ち着いた。
みおも弁当袋を片手に立ち上がる。
「じゃ、行きますか。小日向ましろ親睦昼食会」
「変な名前をつけないで」
「じゃあ、ましろを愛でる会?」
「もっとやめて」
「わたしはそれでもいいよ」
「玲奈さんまで乗らないで」
わたしが言うと、玲奈さんとみおが同時に笑った。
やっぱり、この二人は妙なところで気が合う。
教室を出て中庭へ向かう廊下を歩いていると、一年生の教室が近づくにつれて、落ち着きのない気配がした。
その正体は、すぐにわかった。
「小日向先輩!」
廊下の向こうから、こはるが手を振っている。
すでにお弁当袋を両手で持って、準備万端だった。
待っていたのが全身から伝わってくる。
「朝比奈さん、早いね」
「はい! 楽しみで、四時間目の最後の五分くらい時計ばかり見てました!」
「授業は聞こうね」
「聞いてました! 半分くらい!」
「半分なんだ」
こはるは少し恥ずかしそうに笑う。
その様子を見て、玲奈さんがやさしい顔になる。
「こはるちゃん、ほんとに楽しみにしてたんだね」
「はい! 小日向先輩とお昼を食べる日なので!」
「わたしたちもいるけどね」
みおが言うと、こはるは真剣な顔で頷いた。
「もちろんです! 一ノ瀬先輩と藤咲先輩も一緒で、すごく豪華です!」
「豪華」
「はい! 小日向先輩を中心に、すごい布陣です!」
「こはるちゃん、それ昨日も似たような話になったやつ」
みおが笑う。
わたしは小さく息を吐いた。
中心にしないでほしい。
でも、言ったところでこの人たちはあまり聞いてくれない。
中庭は、思っていたより人がいた。
校舎に囲まれた小さなスペースで、花壇には春の花が植えられている。ベンチがいくつかあり、昼休みにはそこでお弁当を食べる生徒も多い。
陽射しはやわらかく、風も穏やかだった。
雨上がりの名残で地面の端にまだ湿ったところがあったけれど、空気はすっかり春に戻っている。
「ここ、空いてる」
玲奈さんが、花壇の近くのベンチを見つけた。
四人で座るには少し狭いけれど、隣の低い段差も使えば何とかなりそうだ。
誰がどこに座るか。
それだけのことなのに、一瞬空気が止まった。
こはるがわたしの隣を見ている。
玲奈さんも、見ている。
みおは完全に面白がっている。
「……何」
「いや、ましろの隣、誰が座るのかなって」
みおが言った。
「普通に座ればいいでしょ」
「その普通が一番難しいんじゃない?」
「難しくしないで」
わたしがそう言うと、玲奈さんが少し笑った。
「じゃあ、ましろが決めて」
「えっ」
「その方が平和」
平和とは。
わたしに決めさせる時点で、平和から遠ざかっている気がする。
こはるはきらきらした目でこちらを見ている。
「小日向先輩、わたし、どこでも大丈夫です!」
どこでも大丈夫と言いながら、明らかに隣に座りたそうだ。
みおは肩をすくめる。
「わたしは幼なじみなので後方支援でも可」
「後方支援って何」
「見守る係」
「見守らなくていい」
玲奈さんは何も言わずに笑っている。
でも、それが一番ずるい。
わたしは少し考えてから、結局いちばん無難そうな形を選んだ。
「じゃあ、わたしと玲奈さんがベンチで、みおと朝比奈さんが段差で……」
「あ、自然に玲奈さん隣にした」
みおがすぐに突っ込む。
「違う。ベンチに二人しか座れないから」
「ふーん」
「本当にそうだから」
「はいはい」
みおは笑って段差に腰を下ろした。
こはるは少しだけ残念そうだったけれど、すぐに表情を戻してわたしの斜め前に座る。
「小日向先輩の顔が見えるので、ここもいいです!」
「真正面から見ないでね」
「努力します!」
「努力なんだ」
玲奈さんはわたしの隣に座った。
ベンチは思ったより狭くて、肩が触れそうになる。
昨日も、その前も、何度も思った。
近い。
でも今日は、わたしから選んだ位置でもある。
その事実に、少しだけ落ち着かなくなる。
「ましろ」
玲奈さんが小さく呼ぶ。
「何?」
「ありがとう」
「座る場所のこと?」
「うん」
「別に、深い意味はないから」
「そういうことにしとく」
「本当にない」
「うん。そういうことにしとく」
信じていない。
わかる。
でも強く否定すればするほど怪しくなる気がして、わたしはお弁当を開けることに集中した。
四人で食べる昼食は、思っていたより賑やかだった。
こはるは、わたしのお弁当を見るたびに「かわいいです」と言い、玲奈さんは「ましろの玉子焼きは甘いんだよ」となぜか知っている側の顔をする。
みおはそれを聞いて、にやっと笑った。
「へえ。もう玉子焼き情報まで共有済み」
「何その言い方」
「いや、親密度高いなって」
玲奈さんが少しだけ照れたように笑う。
「何回か交換したから」
「交換」
みおの目が細くなる。
「おかず交換って、青春だねえ」
「みお、その顔やめて」
「どの顔?」
「全部わかってる顔」
「わかるもん。幼なじみなので」
「便利に使いすぎ」
こはるが、ぱっと顔を上げた。
「小日向先輩、わたしもおかず交換したいです!」
「えっ」
「このミートボール、よかったら!」
差し出し方がまっすぐすぎる。
玲奈さんがすぐ横で、やわらかく笑った。
「こはるちゃん、ちゃんとましろが食べたいか聞いてからね」
「あっ、すみません! 小日向先輩、食べたいですか?」
「……じゃあ、一つだけ」
「はい!」
こはるは本当に嬉しそうにミートボールを分けてくれた。
食べると、少し甘めの味がした。
「おいしい」
そう言った瞬間、こはるの顔がぱっと輝く。
「本当ですか!」
「うん」
「よかった……!」
反応が素直すぎて、見ているこちらまで少し笑ってしまう。
すると玲奈さんが隣でぽつりと言った。
「ましろ、こはるちゃんにはけっこう優しい」
「そんなことない」
「優しいよ」
「玲奈さんにも優しくしてると思うけど」
口に出してから、自分で驚いた。
玲奈さんも驚いた。
みおが「お」と言い、こはるが「素敵です!」と謎の感想を述べる。
わたしは一気に顔が熱くなった。
「今のは、流れで」
「流れでも嬉しい」
玲奈さんは小さく笑った。
その笑顔がすごくやわらかくて、わたしはミートボールを飲み込むタイミングを少し間違えた。
「ましろ、大丈夫?」
「大丈夫」
玲奈さんが水筒を差し出そうとする。
それより先に、こはるも自分のお茶を差し出す。
さらにみおが「はい、深呼吸」と言う。
「みんな一斉に世話を焼かないで」
「だって、ましろだし」
みおが当たり前のように言う。
玲奈さんも頷く。
「ましろだからね」
こはるまで、きらきらした目で言う。
「小日向先輩ですから!」
「理由になってない」
三人とも笑った。
わたしも、少しだけ笑ってしまった。
中庭の風が、花壇の花を揺らす。
昼休みのざわめき。遠くの教室から聞こえる声。誰かの笑い声。
その中で、わたしはお弁当を食べている。
ひとりではなく。
玲奈さんが隣にいて、みおがいて、こはるがいて。
思ったよりうるさい。
思ったより落ち着かない。
でも、思ったより悪くない。
「ましろ、何笑ってるの?」
玲奈さんが聞く。
「笑ってない」
「笑ってたよ」
「少しだけ」
「認めた」
「……今日は、少しだけなら」
そう言うと、玲奈さんは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
みおが小さく口笛を吹く真似をする。
「ましろが素直期に入った」
「何その時期」
「貴重な期間」
「勝手に決めないで」
こはるが勢いよく頷く。
「小日向先輩の素直期、かわいいです!」
「朝比奈さんまで乗らないで」
「すみません、でもかわいいです!」
「謝ってからもう一回言わないで」
また笑いが起きた。
こんなふうに囲まれるのは、慣れない。
でも、嫌ではない。
そのことを、認めるのが少し怖かった。
昼休みの終わりが近づく頃、こはるが名残惜しそうにお弁当箱を片づけた。
「また、みんなで食べたいです」
「一回だけって言ったはずなんだけど」
「はい。一回目でした」
「その言い方、やっぱり気になる」
玲奈さんが笑う。
「でも、たまにならいいかもね」
みおも頷く。
「いいんじゃない? 中庭ランチ会。ましろも楽しそうだったし」
「だからその言い方」
「違う?」
みおの問いに、わたしはすぐには答えられなかった。
否定しようと思えばできた。
楽しくない、と言えばいい。
でも、それは嘘だった。
「……たまになら」
小さく言った。
こはるが本当に嬉しそうに笑う。
玲奈さんも、隣で静かに笑った。
みおは何も言わずに、ただ満足そうにお茶を飲んでいる。
たぶん、また全部わかっている顔をしている。
昼休みが終わり、校舎へ戻る途中、玲奈さんがわたしの横に並んだ。
「楽しかったね」
「うん」
「またやろうね」
「たまになら」
「うん。たまに」
玲奈さんはそこで少しだけ間を置いてから、声を落とした。
「でも、いつものお昼も好きだよ」
「……教室の?」
「うん。ましろと二人で食べるやつ」
足が止まりそうになった。
でも止まらない。
こはるとみおは少し前を歩いている。
玲奈さんは、わたしだけに聞こえる声で続けた。
「みんなでいるのも楽しいけど、ましろと二人の時間も、ちゃんと好き」
「……そういうことを、普通に言う」
「普通じゃない?」
「普通じゃないと思う」
「じゃあ、ましろにだけ」
ずるい。
また、逃げ場のない言葉。
でも今日は、完全には逃げなかった。
「……わたしも」
声が小さくなる。
玲奈さんがこちらを見る。
「うん?」
「いつものお昼も、嫌じゃない」
精いっぱいだった。
好き、と同じ言葉はまだ返せない。
でも、今のわたしに言えるいちばん近い言葉だった。
玲奈さんは、少しだけ驚いた顔をして。
それから、春の日差しみたいに笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、明日はいつものお昼ね」
「……うん」
校舎の影に入る。
中庭の明るさが後ろに遠ざかっていく。
それでも、胸の中にはまだ少しだけ、春の光が残っていた。
逃げ場がないと思っていた中庭ランチは、たしかに逃げ場がなかった。
けれど、逃げなくてもいい場所なのかもしれないと、少しだけ思った。




