第16話 雨上がりの教室で、名前だけが近くなる
雨の翌朝は、少しだけ世界が洗われたみたいに見える。
校門の前のアスファルトには、まだところどころ水たまりが残っていて、登校してくる生徒たちの靴音がいつもより湿っていた。植え込みの葉には小さな水滴がついていて、朝の光を受けるたびにきらきら光る。
こういう日は、少しだけ好きだ。
空気が冷たくて、音がやわらかくて、昨日のざわめきまでどこか遠くへ流れていったような気がするから。
……昨日のことまで、流れていってくれたらよかったのに。
駅までの相合い傘。
肩が触れそうな距離。
玲奈さんの声。
――こんなに緊張するのは、あんまりない。
思い出した瞬間、頬が熱くなりそうになって、わたしは慌てて昇降口へ入った。
考えすぎ。
何度目かわからない言葉を心の中で繰り返す。
靴を履き替え、二年二組の教室へ向かう。廊下にはまだ雨の匂いが残っていて、窓から入ってくる風も少し冷たい。
教室の前で、一度だけ深呼吸した。
最近、これをしないと扉を開けられない。
理由は、もうわかっている。
中に入れば、きっと彼女がいるから。
そして今日も、扉を開けた瞬間、わたしの予想は外れなかった。
「ましろ、おはよう」
窓際から三列目の斜め前。
席替えで近くなったその場所から、一ノ瀬玲奈が振り向いていた。
昨日の雨が嘘みたいに、彼女は明るく笑っている。髪は少しだけゆるく結ばれていて、朝の光が横顔にかかっていた。
ただそれだけなのに、昨日の傘の中の距離を思い出してしまう。
「……おはよう、玲奈さん」
いつも通りに返したつもりだった。
けれど玲奈さんは、わたしの顔を見るなり、少しだけ首を傾げた。
「今日、ちょっと声小さい?」
「普通」
「便利な普通だ」
「便利だから」
「昨日のこと、気にしてる?」
危うく鞄を落としそうになった。
「な、何を」
「相合い傘」
直球だった。
朝の教室で、そんな単語をさらっと出さないでほしい。
幸い、周りはそれぞれ友達と話していて、こちらの会話を聞いている様子はない。けれど、だからといって安心できるわけではない。
わたしは席に鞄を置きながら、できるだけ落ち着いた声を出そうとした。
「別に、気にしてない」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、わたしだけか」
そう言って、玲奈さんは少し笑った。
笑い方が、いつもの明るいものより少しだけ弱い。
そのせいで、胸の奥が小さく揺れる。
「……玲奈さんも、気にしてるの?」
「してるよ」
「なんでそんなに素直なの」
「ましろには、あんまり嘘つきたくないから」
また、そういうことを言う。
朝の教室で。
まだ一時間目も始まっていないのに。
わたしは返す言葉を探して、結局見つからず、机の上に教科書を置いた。
玲奈さんは少しだけこちらを見つめて、それからいつもの調子に戻るように笑った。
「今日のお昼も一緒ね」
「……うん」
「あ、今すぐ返事した」
「返事くらいするよ」
「前はちょっと間があったのに」
「そんなところまで覚えてなくていい」
「覚えちゃうんだもん」
その言い方は軽い。
でも、昨日からのわたしには少し強すぎる。
ちょうどそのとき、後ろの席から椅子を引く音がした。
「朝から甘い空気出してるねえ」
振り向かなくてもわかる。
藤咲みおだ。
「出してない」
「出てるよ。湿度高め」
「雨上がりだからでしょ」
「ましろがうまいこと言った」
「言ってない」
みおはけらけら笑いながら、わたしの後ろ斜めの席に鞄を置いた。
そして、玲奈さんとわたしを交互に見て、にやりとする。
「昨日、一緒に帰ったんだって?」
「なんで知ってるの」
「見たから」
「見たの?」
「昇降口で。小さい傘にふたりで入ってた。なかなか絵になってたよ」
やめて。
本当にやめて。
わたしは思わず机に額をぶつけそうになった。
玲奈さんは、少しだけ照れたように視線を逸らしている。
その反応を見て、みおの目がさらに楽しそうになる。
「おやおや、玲奈さんも照れるんだ」
「照れてないよ」
「ましろと同じこと言ってる」
「同じじゃない」
わたしと玲奈さんの声が重なった。
みおは満足そうに頷いた。
「ほら、息ぴったり」
「みお」
「はいはい、朝から怒らない」
怒っているわけじゃない。
ただ、からかわれる材料が多すぎる。
それに、みおは変に勘がいい。こちらが隠しておきたいところを、わざと軽く触ってくる。
でも、軽く触れるだけで、無理に暴こうとはしない。
そこがみおらしい。
「でもさ」
みおは鞄から教科書を取り出しながら、ふいに普通の声で言った。
「昨日、ましろちょっと楽しそうだったよ」
わたしは言葉に詰まった。
玲奈さんも黙る。
みおは、こちらを見ずに続けた。
「まあ、見間違いかもしれないけど」
「……見間違いだよ」
「じゃあそういうことにしとく」
みおはそれ以上言わなかった。
その引き際が、かえって胸に残る。
楽しそうだった。
わたしが?
相合い傘で、あんなに落ち着かなかったのに。
でも、もし誰かから見て楽しそうに見えたのなら、それはたぶん――。
考えかけたところで、チャイムが鳴った。
助かったような、助からなかったような気持ちで、わたしは前を向いた。
午前中の授業は、いつもより少しだけ長く感じた。
理由は単純だ。
斜め前の玲奈さんが、時々こちらを見るから。
いや、見ているというほどではない。ほんの少し振り向く。ノートを取る手を止める。先生が黒板に向かっている隙に、ちらっとこちらへ視線を投げる。
それだけ。
それだけなのに、目が合うたびに昨日の雨音が戻ってくる。
傘の中の狭さ。
近い声。
緊張している、と言った玲奈さん。
わたしも、と答えてしまった自分。
あれは、流れで言っただけ。
そう思うのに、なかったことにはできなかった。
昼休みになると、玲奈さんはいつも通りお弁当を持ってこちらへ来た。
ただ、今日は席が近いので、わざわざ椅子を反転させる必要もない。彼女は自分の椅子を少しだけずらし、わたしの机との間に自然な昼食の距離を作る。
自然な距離。
……のはずなのに、わたしには少し近く感じる。
「今日のお弁当、何?」
「普通」
「出た」
「便利だから」
「そろそろ普通禁止にしようかな」
「誰の権限で?」
「ましろのお昼友達権限」
「そんな権限ない」
「ないかあ」
玲奈さんは残念そうに言ってから、自分のお弁当箱を開けた。
今日はサンドイッチだった。
きれいに切られた卵サンドとハムレタスサンド。小さな容器に入ったフルーツもついている。
「玲奈さんのお弁当、いつもきれいだね」
言ってから、少しだけ驚いた。
自然に口から出ていた。
玲奈さんも驚いたように目を瞬かせる。
「ましろから褒めてくれた」
「褒めたというか、事実だから」
「事実でも嬉しい」
「……前もそんなこと言ってた」
「何回でも言うよ。嬉しいから」
玲奈さんは卵サンドをひとつ持ち上げる。
「食べる?」
「いいの?」
「うん」
「じゃあ、少しだけ」
最近、おかず交換が当たり前になってきている。
それにも気づいている。
けれど不思議と、最初ほど慌てなくなった。
玲奈さんはサンドイッチを小さな紙ナプキンに乗せて渡してくれる。昨日みたいに距離を詰めすぎたりはしない。
わたしが受け取ると、彼女は少しだけ笑った。
「今日はあーんじゃないよ」
「最初からしなくていい」
「最初からってことは、いつかならいい?」
「よくない」
「即答」
「即答案件だから」
玲奈さんが笑う。
その笑い声を聞いて、わたしも少しだけ笑った。
すると玲奈さんが、またすぐ気づく。
「今、笑った」
「笑ってない」
「笑ったよ」
「気のせい」
「ましろ、最近その言い訳も早くなった」
「慣れたから」
「わたしに?」
言葉が止まった。
玲奈さんが、こちらを見ている。
からかうような目ではない。
少しだけ期待しているような目。
わたしはサンドイッチに視線を落とし、小さく答えた。
「……少し」
たった二文字。
それでも玲奈さんには十分だったらしい。
彼女は一瞬だけ黙って、それからすごく静かに笑った。
「そっか」
「うん」
「嬉しい」
「……大げさ」
「大げさじゃないよ」
玲奈さんはそう言って、自分のサンドイッチを口に運んだ。
その横顔が少しだけ赤く見えたのは、たぶん教室に差し込む昼の光のせいだ。
そういうことにしておく。
昼休みの終わり頃、教室の入口から元気な声が飛んできた。
「小日向先輩!」
予想通りだった。
朝比奈こはるが、廊下からこちらを覗いている。
今日は昼休みに来る予定ではなかったはずだけれど、彼女に予定という概念がどのくらいあるのかは、まだよくわからない。
「朝比奈さん」
「はい! 今日、図書室行きますか?」
「今日は行かないかな」
「そうですか……」
目に見えて落ち込む。
犬みたいだ。
そう思ってしまって、少しだけ罪悪感を覚える。
「でも、明日は行くと思う」
「本当ですか!」
「うん。昨日借りた本、もう少しで読み終わるから」
「じゃあ、明日お会いできますね!」
「会えるかはわからないけど」
「わたしが行くので会えます!」
強い。
相変わらず強い。
玲奈さんがにこりと笑う。
「こはるちゃん、ましろの予定を確定させるの上手だね」
「一ノ瀬先輩ほどではないです!」
「え?」
「だって、一ノ瀬先輩は毎日小日向先輩とお昼食べてます!」
こはるの言葉が、教室の空気にぽんと落ちた。
わたしは固まる。
玲奈さんも一瞬だけ固まる。
近くにいたみおが、後ろで肩を震わせている。笑っている。絶対笑っている。
「こはるちゃん、それは」
玲奈さんが言いかけると、こはるは真剣な顔で続けた。
「すごいです。わたしもいつか、小日向先輩とお昼を食べたいです」
「えっ」
「だめですか?」
こはるの視線がまっすぐわたしに向く。
こういう目に弱い。
ほんとうに弱い。
「だめじゃ、ないけど……」
「やった!」
「でも、クラス違うし」
「中庭とかあります!」
「中庭」
また新しい場所が出てきた。
玲奈さんが、やわらかい笑顔のまま言う。
「じゃあ今度、みんなで食べる?」
意外だった。
てっきり、少し嫌がるかと思った。
こはるもぱっと顔を明るくする。
「いいんですか!」
「うん。ましろが嫌じゃなければ」
玲奈さんの視線がこちらへ向く。
みおも後ろから身を乗り出してきた。
「いいじゃん、ピクニックみたいで」
「みおまで」
「わたしも参加で」
「まだ何も決めてない」
「決めよう。春だし」
話が早い。
この人たちは、わたしの予定を作るのが上手すぎる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
少し前のわたしなら、きっと人が増える昼食なんて避けたかったと思う。騒がしいし、気を使うし、目立つ。
でも今は。
玲奈さんがいて、みおがいて、こはるがいて。
その中にいる自分を想像して、少しだけ困って、少しだけ笑ってしまいそうになった。
「……一回だけなら」
小さく言う。
こはるが飛び跳ねそうな勢いで喜ぶ。
「やった! 約束です!」
「一回だけだからね」
「はい! 一回目ですね!」
「言い方」
玲奈さんが小さく笑った。
みおは「はい決定」と勝手に締めた。
わたしはため息をついたけれど、本気で嫌ではなかった。
放課後、雨上がりの空は薄い青に戻っていた。
昨日の雨で校庭は少しぬかるんでいて、部活の生徒たちが慎重に走っている。窓から入る風はまだ少し冷たい。
帰りのホームルームが終わり、わたしは鞄をまとめた。
玲奈さんが斜め前から振り向く。
「今日、一緒に帰れる?」
「うん」
自然に答えた。
自然すぎて、自分で少し驚いた。
玲奈さんも気づいたらしい。
目が合うと、彼女は嬉しそうに笑った。
「今の、すごく自然だった」
「……言わなくていい」
「言いたかったから」
「そういうところ」
「嫌?」
「嫌じゃないけど、落ち着かない」
「じゃあ、落ち着かないままでいいよ」
「よくない」
「わたしは好きだけど」
また、“好き”。
けれど今日は、少しだけ受け止められた。
全部を理解したわけじゃない。
玲奈さんの言う“好き”がどこまでの意味なのかも、わからない。
でも、その言葉で逃げ出したいとは思わなかった。
昇降口まで並んで歩く。
昨日と違って、傘はいらない。
空は晴れている。
だから、ふたりの間には傘の分の理由がない。
それでも玲奈さんは、わたしの隣を歩く。
昨日より少しだけ空いた距離で。
でも、ちゃんと隣に。
「ねえ、ましろ」
「何?」
「昨日さ、傘に入れてくれてありがとう」
「朝も言ってたよ」
「ちゃんと言いたかった」
「……うん」
「あと、今日も一緒に帰ってくれてありがとう」
「それは、まだ帰ってる途中だけど」
「じゃあ先払い」
「何それ」
玲奈さんは笑う。
わたしも少しだけ笑う。
雨上がりの道に、水たまりが残っている。
玲奈さんはそれを避けながら歩く。わたしもその歩幅に合わせる。
昨日は、傘が狭かったから近かった。
今日は、狭くない。
それでも歩幅が合う。
そのことに気づいて、少しだけ胸の奥があたたかくなった。
「ましろ」
「うん?」
「今度は、傘なしでも近くを歩いていい?」
足が止まりかけた。
でも、止まらなかった。
わたしは前を向いたまま、少しだけ考える。
雨上がりの風が、制服の袖を揺らした。
「……近すぎなければ」
「どのくらい?」
「肩が触れないくらい」
「触れそうなのは?」
「ぎりぎり許す」
「じゃあ、これくらい?」
玲奈さんが、ほんの少しだけ近づいた。
肩は触れない。
でも、触れそうではある。
わたしは何も言わなかった。
玲奈さんも、何も言わなかった。
ただ、ふたりで並んで歩く。
雨上がりの道を。
ひとりで歩くより少し落ち着かなくて、でもひとりより少しだけ明るい道を。
たぶん、こういう小さなことが積み重なっていくのだと思う。
名前を呼ばれること。
お昼を一緒に食べること。
傘に入ること。
隣を歩く距離を、少しだけ許すこと。
わたしの平穏は、今日も少しずつ形を変えている。
それはまだ、恋と呼ぶには早すぎる。
友達と言い切るにも、少しだけ近すぎる。
だから今は、名前のない距離のまま。
その距離を、もう少しだけ歩いてみようと思った。




