第15話 静かな帰り道は、もうひとりじゃない
雨は、思っていたより長引いた。
朝から降り続いたそれは、昼を過ぎても止む気配がなくて、放課後になっても校舎の窓を細かく叩き続けていた。
教室の中は、いつもより少しだけざわついている。
「うわ、まだ降ってるじゃん」
「傘持ってきてないんだけど」
「最悪、コンビニ寄るか」
そんな声があちこちから聞こえる中で、わたしは自分の机の中から折りたたみ傘を取り出した。
軽い音を立てて広げる。
少し小さめの、紺色の傘。
普段はあまり使わないけれど、こういう日に持ってきてよかったと思う。
「ましろ、傘ある?」
すぐ近くから声がした。
顔を上げると、一ノ瀬玲奈がこちらを見ている。
「あるよ。折りたたみだけど」
「よかった」
玲奈はほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、少しだけ違和感を覚える。
「玲奈さんは?」
「……忘れた」
間があった。
わかりやすい。
「ほんとに?」
「ほんとだよ?」
「なんで疑問形なの」
「ちょっとだけ自信ない」
「それは忘れてるね」
わたしがそう言うと、玲奈はくすっと笑った。
でも、そのあと少しだけ視線を逸らす。
……これはたぶん。
ほんとに忘れた可能性と、ちょっとだけ狙ってる可能性、両方ある。
どっちだろう。
考えたところで、答えは出ない。
「どうしようかな」
玲奈がぽつりと言った。
周りでは、友達同士で「一緒に帰ろ」とか「傘入れて」とか、そういう会話が飛び交っている。
自然な光景。
普通のこと。
でも、わたしにとってはあまり馴染みのない光景だった。
その中で、玲奈は少しだけこちらを見る。
ほんの一瞬。
でも、わかる。
言ってほしいのを待っている。
ずるい。
ほんとうに、ずるい。
「……一緒に入る?」
わたしが小さく言うと、玲奈はぱっと顔を明るくした。
「いいの?」
「いいよ。どうせ同じ方向だし」
「ありがとう、ましろ」
その言い方が、少しだけやわらかかった。
軽いノリの「やった」じゃなくて、ちゃんと受け取る感じの「ありがとう」。
それだけで、胸の奥が少しだけ静かになる。
教室を出ると、廊下は湿った空気に満ちていた。
昇降口に近づくほど、外の雨音がはっきり聞こえる。
ぱらぱら、というより、しとしと。
強くはないけれど、確実に濡れる雨。
靴を履き替えて、外に出る。
傘を開くと、小さな音と一緒に視界が少しだけ狭くなる。
「入って」
「うん」
玲奈が、少しだけ近づく。
距離が、近い。
普段も近いけど、これはまた違う近さだ。
肩が触れそうで、触れないくらい。
でも、歩けばすぐ触れる。
「ちょっと狭いね」
「小さいからね」
「じゃあ、もっと寄るね」
「寄らなくていい」
「濡れちゃうよ?」
「それは困るけど」
「じゃあ寄る」
理屈としては正しい。
でも納得はできない。
玲奈が一歩近づく。
ほんの少し。
それだけで、傘の中の空気が変わる。
雨の音が、外に遠ざかる。
その代わり、隣の気配がやけに近くなる。
「ましろ、静かだね」
「普通」
「さっきから何回目の普通?」
「便利だから」
「便利すぎる」
玲奈が小さく笑う。
その笑い声が、やけに近くで聞こえる。
傘の中は、思っていたより静かだった。
外の雨音と、足元の水たまりを踏む音。
それから、隣にいる人の気配。
それだけ。
「こういうの、あんまりない?」
玲奈が聞く。
「何が?」
「誰かと相合い傘」
「……ないかも」
「そっか」
「玲奈さんは?」
「あるけど」
「けど?」
「こんなに緊張するのは、あんまりない」
その言葉に、わたしは思わず足を止めそうになった。
「……緊張してるの?」
「してるよ」
「嘘」
「ほんと」
玲奈は笑っている。
でも、少しだけ声が低い。
「ましろ、近いとさ」
「うん」
「なんか、変に意識する」
やめてほしい。
そういうことを言うのは、本当にやめてほしい。
でも、言えない。
否定できないから。
「……わたしも」
小さく、言ってしまった。
玲奈がこちらを見る。
傘の影で、目が少しだけ見えにくい。
でも、ちゃんとこっちを見ているのがわかる。
「ほんと?」
「……ほんと」
「そっか」
玲奈はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ歩幅を合わせてくる。
その動きが、やさしい。
駅までの道は、普段より短く感じた。
会話が少ないからかもしれない。
それとも、考えることが多かったからかもしれない。
駅の入口が見えてきたところで、玲奈が足を止めた。
「ここまででいい?」
「うん」
傘を少し傾ける。
玲奈が外に出る。
雨の中に、戻る。
「ありがとう、ましろ」
「うん」
「明日も、降るかな」
「どうだろう」
「降ったら、また一緒に帰っていい?」
軽い調子だった。
でも、少しだけ慎重な聞き方でもあった。
わたしは少しだけ考えてから、答える。
「……傘、忘れなかったらね」
「忘れたら?」
「そのときは、仕方ない」
「じゃあ、忘れるかも」
「わざと?」
「どうだろう」
玲奈は楽しそうに笑う。
それから、小さく手を振った。
「また明日、ましろ」
「また明日」
玲奈が雨の中を走っていく。
その背中を見送りながら、わたしはしばらくその場に立っていた。
傘の中は、もうひとり分の空間に戻っている。
静かだ。
さっきより、ずっと。
なのに。
「……さっきの方が、落ち着かなかったのに」
小さく呟く。
落ち着かなかった。
でも、嫌じゃなかった。
むしろ、少しだけ――。
わたしは首を振った。
考えすぎ。
そうやって、いつも自分に言い聞かせる。
でも最近、その言い聞かせる回数が増えている気がする。
傘を少しだけ強く握って、駅の中へ入る。
雨音が遠ざかる。
でも、さっきの距離感は、しばらく消えそうになかった。




