第9話 必要にされることは、こんなにも静かに判断を鈍らせる
取られる気がした。
榊原澪がそう言った時、佐伯直人はしばらく言葉を失っていた。
夕方の廊下は静かだった。窓の外では、日が傾きかけた光が校舎の壁を淡く染めている。吹き抜ける風はぬるく、どこか中途半端な季節の匂いがした。そんな何でもない放課後の一角で、彼女だけが、何でもなくない言葉を置いていった。
必要にしてます。
好き、よりもずっと重い。
しかもその重さを、まるで隠す気がない。
「……帰る」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
澪は直人の顔を数秒見つめて、それから小さく頷く。
「はい」
それ以上追いかけてこないのが、逆にずるいと思った。
もしここで、もっと畳みかけるように何か言われていたら、たぶん直人は拒絶の形くらいは作れた。けれど彼女はそうしない。言うべきことだけ言って、あとはこちらに考えさせる余白を残す。
その余白の中で、直人は勝手に揺れる。
帰り道は、二人ともほとんど喋らなかった。
いつものように並んで歩いていても、今日は沈黙の質が違う。気まずいというより、互いに相手の言葉が胸の中に残ったまま、下手に触れられない感じだった。
駅前の信号で立ち止まった時、澪が不意に言った。
「困らせましたか」
直人は青に変わりかけた信号を見ながら答える。
「……かなり」
「そうですか」
「でも」
そこまで言って、自分でも驚いた。
でも、の先が自然に出てこようとしていたからだ。
「でも、何ですか」
澪は追い打ちをかけるような声では聞いてこなかった。ただ、続きを待つだけの静かな声だった。
直人は一度だけ息を吸う。
「嫌ではない」
言った瞬間、自分で自分の顔が熱くなるのが分かった。
何を言っているんだと思う。
でも嘘ではなかった。
澪はそれを聞いて、ほんの少しだけ目を見開いた。それから、たぶん教室では絶対に見せないような、柔らかくて脆い笑い方をした。
「……それだけで、今日は十分です」
その返しが、ひどく静かに効いた。
必要にしてます、なんて言ってくる女が、こちらのたった一言で“今日は十分”と満たされたように笑う。その落差が、直人には危険なくらい心地よかった。
改札前で別れ、電車に乗っても、しばらく耳の奥でその言葉が響いていた。
嫌ではない。
あれは、ほとんど肯定だった。
家に帰ると、母はまだ仕事から戻っていなかった。制服を脱ぎ、手を洗い、冷蔵庫の飲み物を取り出してから、直人はそのままテーブルに突っ伏した。
「……やばいな」
本日二度目の独り言だった。
普通じゃないと分かっている相手に対して、もう“嫌ではない”と口にしてしまった。自分で線を引くどころか、むしろ内側に招き入れている。
必要にされることは、こんなにも静かに判断を鈍らせるのかと、直人は妙に冷静な頭の片隅で思った。
誰かにここまで欲しがられること。
気にされること。
優先されること。
自分が少しでも揺れたら、相手がちゃんと喜ぶこと。
そういう経験が少ない人間ほど、そこから抜けにくいのかもしれない。
翌朝、直人は少しだけ早く教室へ入った。
澪と顔を合わせる前に、少しでも気持ちを整えたかったのだと思う。だがその意図は、半分も意味をなさなかった。
教室にはまだ数人しかいなかった。その中に、ひよりがいた。
「珍しいじゃん、早いの」
席に鞄を置きながら、ひよりがそう言う。
「まあ」
「眠れなかった顔してる」
「そんな分かりやすいか」
「うん」
ひよりは少しだけ迷うような顔をしてから、直人の机のそばまで来た。
「昨日、あのあと何か言われた?」
直人は即答できなかった。
言われた。
かなり決定的なことを。
でもそれを、そのままひよりに話すのは違う気がした。
「……少し」
「少しって顔じゃないんだけど」
「お前、最近ほんとよく見てるな」
半分冗談のつもりで言うと、ひよりは苦く笑った。
「見てるよ。だって気になるし」
直人は視線を逸らす。
その“気になる”は、澪のそれとはまったく質が違う。もっと普通で、もっと健全で、だからこそ少し痛い。
「佐伯」
ひよりが珍しく真面目な声で呼ぶ。
「私は別に、榊原さんに勝ちたいとか、そういうこと言いたいわけじゃない」
「……うん」
「でも、佐伯が“必要にされる”方にばっかり引っ張られて、自分が何を欲しいか分からなくなってるなら、それはやっぱり違うと思う」
その言葉は、かなり鋭かった。
直人が欲しいもの。
そんなふうに考えたことが、あまりなかったからだ。
誰かの期待に応えることとか、迷惑をかけないこととか、役に立つこととか。そういうものは考えてきた。でも自分から何を望むかとなると、途端に曖昧になる。
澪がそこにつけ込んでいるのだとしたら、たしかに危ない。
危ないはずなのに。
「……分かってる」
それでも、直人の返事は弱かった。
ひよりはそんな直人を見て、少しだけ寂しそうに笑う。
「分かってる顔じゃないんだよなあ」
そこへ、教室の扉が開いた。
澪だった。
朝の光を背にして入ってきた彼女は、一瞬だけ教室全体を見て、すぐにひよりと直人が近い位置にいることに気づいたらしい。表情は変わらない。ただ、目の奥だけが一瞬静かに細くなる。
「おはようございます」
クラスメイトたちへの挨拶を兼ねた声。
そのあとで、もう少し小さく、でもはっきりと直人に向けて。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
ひよりはわざとらしく肩をすくめた。
「おはよう、榊原さん」
「おはようございます、柊さん」
穏やかで、感じのいい返し。
何も問題はない。
ないはずなのに、昨日までより少しだけ空気が張っている。
朝のホームルームまでの短い時間、直人は妙に落ち着かなかった。
ひよりの言葉も刺さっている。
澪の視線も分かる。
その両方を意識している自分が、一番どうしようもない。
二時間目の休み時間、直人がトイレから戻ると、自分の机の上に小さな付箋が置かれていた。
『昼休み、少しだけ話せますか』
綺麗な字。
澪だった。
見上げると、前の席の彼女は振り返らずにノートを見ている。まるで何もしていないみたいに。
昼休み、指定されたのは特別棟へ続く渡り廊下の手前だった。旧校舎ほどではないが、人通りは少ない。わざわざそこで二人きりになる理由を作るあたりが、やはり抜け目ない。
「何」
直人が聞くと、澪は少しだけ目を伏せた。
「朝、柊さんと何を話していたのかなと思って」
「それ聞くのか」
「聞きます」
即答だった。
「私、そういうのちゃんと知っておきたいので」
その言い方に、直人は少しだけ笑ってしまう。
「ほんとに怖いよな、お前」
「知ってます」
「褒めてない」
「分かってます」
言葉の応酬だけ聞けば軽い。
でもその実、かなりぎりぎりのことを話している。
「別に大したことじゃない」
直人は壁にもたれながら言う。
「昨日のこと、少し聞かれただけ」
「必要にしてます、の話ですか」
思わず顔を上げた。
「何でそこまで分かるんだよ」
「佐伯くんの顔」
今度は澪がそう言う番だった。
「昨日、帰り際にかなり動揺していたので。それくらいの言葉しか心当たりがありません」
そこまで分析してくるのか、と呆れる。だが同時に、自分の揺れを正確に拾われていることが、嫌じゃない。
嫌じゃないのがまずい。
「……で、何が聞きたい」
「柊さん、何て言ってましたか」
「お前のこと、変だって」
「それは知ってます」
「普通じゃないって」
「それも知ってます」
「俺が必要にされる方に引っ張られてるって」
そこまで言うと、澪は一瞬だけ黙った。
さすがにそこは引っかかったらしい。
けれど彼女はすぐに小さく息を吐く。
「そうですね」
「否定しないんだ」
「事実なので」
直人は思わず苦笑した。
「お前、本当に一回も逃げないな」
「逃げても意味がないですから」
澪はそう言ってから、ほんの少しだけ近づいた。
「でも、一つだけ違います」
「何が」
「引っ張ってるだけじゃないです」
澪の声は静かだった。
「佐伯くんも、来てくれてると思ってます」
その言葉に、直人はまた息を止めた。
来てくれてる。
それは自分の意思を認める言い方だった。
必要にされるから引き寄せられているだけじゃない。
自分でも彼女の方へ歩いているのだと、そう言われている。
否定しづらい。
いや、もうできない。
土曜の約束を受けたのも自分だ。
昨日、“嫌ではない”と答えたのも自分だ。
「……それ言われると、何も言えない」
正直にそう言うと、澪は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、言わない方がよかったですか」
「いや」
直人はすぐに首を振る。
「それも違う」
自分でも何を求めているのか分からない。
でも、彼女にだけは曖昧な嘘を返したくないと思ってしまう。
「俺さ」
気づけば、そんなふうに話し始めていた。
「たぶん、誰かに必要だって思われるの、思ってたよりずっと弱いんだよ」
澪は何も言わない。
ただ静かに続きを待つ。
「だから、お前の言い方とか、やり方とか、ずるいって分かってるのに、切れない」
「……はい」
「むしろ、少し嬉しい」
そこまで言った瞬間、直人は自分の口を塞ぎたくなった。
言いすぎた。
でも、もう遅い。
澪は目を見開いたまま、数秒動かなかった。
それから、ゆっくりと、息をするみたいに微笑む。
「それ、言ってもらえると思ってませんでした」
「俺も言うつもりなかった」
「嬉しいです」
あまりにも真っすぐで、直人はもう視線を逸らすしかない。
「でも」
澪が続ける。
「それなら、少しだけ安心しました」
「何が」
「私だけが無理に引っ張ってるわけじゃないって分かったので」
その言い方はずるい。
自分の弱さを吐き出したはずなのに、それすら彼女にとっては希望になる。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
二人とも、すぐには動かなかった。
やがて澪が小さく言う。
「今日は、放課後空いてますか」
「……また急だな」
「急です」
あっさり認める。
「でも、一緒に帰りたいです」
もう、回りくどい理由すらつけなくなってきている。
直人は小さく笑った。
「空いてるよ」
「よかった」
その一言で、澪の表情がまた少しだけ柔らかくなる。
放課後、二人が教室を出るところを、ひよりは自分の席から見ていた。
何も言わなかった。
ただ、少しだけ苦い顔をして、それでも最後には小さく息をついただけだった。
その視線に直人は気づいていた。
気づいていて、止まれなかった。
帰り道、澪は珍しく学校の話ではなく、どうでもいい話をした。
近所のパン屋の話。
この前見た映画の話。
数学教師の板書が雑すぎる話。
そういう普通の会話をしていると、彼女がこんなにも重い人間だということを忘れそうになる。
忘れそうになるのに、不意にこちらを見る目だけはやっぱり深い。
駅前の交差点で立ち止まった時、澪がふと聞いた。
「もし」
「何」
「私が、もう少しだけ普通だったら」
信号待ちの雑踏の中で、その声だけが妙にはっきり聞こえた。
「佐伯くんは、もっと安心してくれますか」
直人は数秒、何も言えなかった。
もし、もう少しだけ普通だったら。
その仮定には意味がない。
澪は普通ではないし、そこに強く惹かれ始めているのも事実だからだ。
「……分からない」
結局、正直に答える。
「でも、今のお前だからこうなってる気はする」
澪は目を瞬かせた。
少しだけ驚いたように、そして少しだけ救われたように見えた。
「それ、期待していい言葉ですか」
「都合よく解釈するなよ」
「します」
即答だった。
直人はもう笑うしかない。
たぶん本当に、引き返せなくなり始めている。
嬉しいと思った時点で、たぶんもう遅かったのだ。




