第8話 嬉しいと思った時点で、たぶんもう引き返せない
スマホの画面は、しばらく光ったままだった。
『今日はありがとうございました。楽しかったです』
『次はもう少し長く一緒にいたいです』
たった二通。
長文でもないし、過激なことも書いていない。
なのに、佐伯直人の心臓はやけにうるさかった。
普通なら、ここで少し引くのかもしれない。
休日に図書館へ行って、帰ってすぐに「楽しかった」と送ってくる。しかも次はもっと長く一緒にいたい、と言う。その熱量は明らかに、ただの同級生の範囲を越え始めている。
分かっている。
分かっているのに、直人の指はその画面を閉じようとしなかった。
むしろ、何と返すべきか本気で考えている。
それが一番まずい。
ソファの背にもたれたまま、直人は何度か文字を打っては消した。
『こちらこそありがとう』
『勉強助かった』
『また必要なら誘って』
どれも違う気がした。
澪の言葉に対して無難すぎるし、距離を取っている感じが出すぎる。かといって、同じ温度で返すほどの覚悟もない。
結局、直人が送ったのはこうだった。
『こっちも助かった。今日はちゃんと勉強できた』
『また時間合えば』
送信した瞬間、少しだけ後悔した。
曖昧だ。
曖昧なのに、拒絶ではない。
むしろ十分に次を含ませている。
既読はすぐについた。
『はい。合わせます』
『次はもっと静かな席、取りますね』
直人は思わず目を閉じた。
「……何だよ、それ」
独り言が、誰もいないリビングに落ちる。
合わせます。
次はもっと静かな席を取る。
その返しには、もう最初から次回が決定事項みたいな響きがあった。しかも、今日の時間をちゃんと検証して、次はもっと自分にとって都合のいい形に整えようとしている。
そこまでしてくるのか、と呆れる。
でも同時に、自分との時間をそこまで真剣に扱われることが、やっぱり少し嬉しい。
直人はスマホを胸の上に置いたまま、しばらく天井を見ていた。
この感じを何と呼べばいいのか分からない。
恋、というにはまだ整理がついていない。
警戒、というには心地よさが勝ちすぎている。
依存、というにはまだ早いのかもしれない。
けれど確かなのは、榊原澪がいま、自分の日常のかなり深いところに入り込んでいることだった。
その夜は、やはり寝つきが悪かった。
図書館の静かな空気。
隣の席の近さ。
カフェオレの缶の冷たさ。
パン屋の前で柔らかく笑った顔。
そして最後のメッセージ。
思い出すなと言われても無理だった。
日曜は、一日中どこか落ち着かなかった。
母は昼過ぎに起きてきて、直人がキッチンで簡単に昼食を作っていると少し驚いた顔をした。
「珍しいね、ちゃんと作ってるの」
「冷凍のうどん茹でただけだけど」
「それでも偉い」
母は眠そうに笑って、冷蔵庫から麦茶を取り出した。仕事で疲れているのだろう、髪は少し乱れていて、目元にもいつもより疲労が見える。けれど責める気にはならない。こういう姿は見慣れている。
「昨日、どっか行ってた?」
不意にそう聞かれて、直人の手が少し止まった。
「……図書館」
「へえ。珍しい。友達と?」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
友達。
その表現が正しいのか、いまはまだ分からない。
「まあ、同級生と」
「ふうん」
母はそれ以上踏み込まず、ただ少しだけ安堵したように「いいじゃない」と言った。
「たまには誰かと出かけなよ。直人、家にいすぎるんだから」
その言葉に、直人は曖昧に笑った。
家にいすぎる。
そうかもしれない。
だが外に出る理由が大してなかったのだ。誘う相手も、誘われることも、別にゼロではないが多くもない。ひよりのように気軽に話せる相手はいても、休日まで一緒に過ごそうとする関係はこれまでなかった。
そう考えると、やっぱり澪は異質だ。
月曜日の朝、教室へ向かう足取りは自分でも分かるくらい微妙だった。
会いたいのか。
会いたくないのか。
どちらでもある気がして、どちらでもない気もした。
教室の扉を開ける。
いつものざわめき、いつもの席、いつもの窓際。
その中に榊原澪がいることを、直人はもう予測してしまっていた。
目が合う。
澪はわずかに目元を緩めた。
「おはよう、佐伯くん」
直人は一拍遅れて返す。
「……おはよう」
そのたった一言で、土曜日の続きが再開したような気がした。
教室という公共の空間にいるはずなのに、二人の間にだけ昨日までの時間が繋がっている。そんな感覚がある。
席に着くと、ひよりがすぐにこちらを見た。
「佐伯、おはよ」
「おはよう」
「なんか今日、寝不足っぽい」
「そう見える?」
「見える。分かりやすすぎ」
ひよりはそう言ってから、何気ないふうを装って聞いた。
「週末、どうだった?」
「どうって」
「図書館」
直人は思わず顔を上げた。
「……何で知ってる」
「知らないわけないじゃん」
ひよりは半分呆れたように笑う。
「土曜の昼、駅前で乃愛ちゃんと会ったの。そしたら“佐伯先輩、今日は榊原先輩と図書館らしいです”って」
「乃愛が?」
「うん。たぶん悪気なく」
その瞬間、直人は小さく息を呑んだ。
乃愛が知っている。
ということは、澪が伝えたのか、それともどこかで話の流れがあったのか。どちらにせよ、自分との休日の予定がもう他人に知られているという事実に、妙なざわつきを覚える。
「で、どうだったの」
ひよりはさりげなく問いを重ねる。
「普通に勉強しただけ」
「ほんとに?」
「……勉強はちゃんとした」
「そこ聞いてないんだけど」
直人が返事に詰まると、ひよりは小さくため息をついた。
「まあ、いいや。でもさ」
少しだけ声を落とす。
「佐伯、ちょっと顔変わったよ」
「は?」
「なんていうか、分かりやすくなってる」
それだけ言って、ひよりは自分の席に戻っていった。
直人はその背中を見送りながら、無意識に前方へ目をやった。澪は別の女子と話していたが、まるでタイミングを見計らったようにこちらを振り向く。
目が合った瞬間、澪はほんのわずかに首を傾げた。
何かあったんですか、とでも聞くように。
怖いくらいよく見ている。
一時間目は数学だった。
教師が板書を続ける音、ノートをめくる音、時折誰かが咳払いをする音。月曜の教室はどこかまだ眠くて、空気が重い。
その授業中、直人のスマホが制服のポケットで一度だけ震えた。
もちろん授業中なので見るわけにはいかない。
だが、心当たりが一つしかなくて、逆に集中が乱れる。
休み時間になるとすぐスマホを取り出した。
『今日の五限、英語の小テストあります』
『範囲、金曜に言ってました』
澪からだった。
「……は?」
思わず声が漏れる。
教室でそんなことをメッセージする必要があるのか。しかも数メートル前の席に本人がいるのに。
前方を見ると、澪は振り返りもしない。まるで何も送っていないみたいに、隣の子の質問に答えている。
直人は慌てて鞄の中の英語ノートを確認した。たしかに範囲が端の方に書いてあった。完全に忘れていた。
小テストがあること自体は助かる。
でも、こういう助け方をされると、感謝より先に妙な近さを意識してしまう。
直人が画面を見つめていると、ひよりが横から覗き込んできた。
「何それ」
反射的にスマホを伏せる。
「……別に」
「榊原さん?」
勘が鋭すぎる。
「何で分かるんだよ」
「顔」
ひよりはきっぱり言った。
「もう分かりやすすぎるって」
それから少しだけ真顔になる。
「ねえ、ほんとに大丈夫?」
その問いは、からかいではなかった。
「何が」
「それ全部、“助かる”で済ませてるけどさ」
ひよりは言葉を選びながら続ける。
「助かることと、心地いいことって違うじゃん。でも佐伯、今もうそこ混ざってない?」
図星だった。
直人は即答できない。
「……分からない」
ようやくそう答えると、ひよりは小さく息をついた。
「分からないなら、たぶん混ざってるんだよ」
昼休み、小テスト対策のために英語ノートを見返していると、ひよりは珍しくあまり構ってこなかった。おそらくわざとだ。いつもなら軽口の一つも飛ばしてくるところを、今日は少し離れた席で友人と話している。
その距離感が、逆に直人にはありがたかった。
自分の顔が分かりやすいと言われたばかりだ。今はたぶん、何を話しても余計に見抜かれる。
そんな時、机の端に小さな紙片が置かれた。
『小テスト、三問目だけ引っかけです』
整った字。
誰のものか、考えるまでもない。
直人は思わず顔を上げた。
澪はすでに前を向いていた。何食わぬ顔で昼食のサンドイッチを開けている。
そこまでやるのか、と思う。
いや、本当にそこまでやる必要があるのか。
でも同時に、自分のことをここまで細かく気にしてくれる人間を、どうやって雑に扱えばいいのか分からない。
五限の小テストは、本当に三問目が引っかけだった。
解き終えた瞬間、直人は小さく息を吐く。
助かった、と思ってしまう。
そしてその“助かった”が、もうかなり危険な頻度で発生していることに気づいてしまう。
放課後、ひよりが教室を出ようとした直人を呼び止めた。
「今日、少しだけいい?」
「……うん」
連れて行かれたのは、人気の少ない特別棟側の渡り廊下だった。旧校舎ほどではないが、放課後は人通りが少なく、話し声が抜けやすい。
ひよりは階段の踊り場の手前で立ち止まる。
「私さ、別に榊原さんのこと嫌いじゃないんだよ」
開口一番、そんなことを言った。
「優秀だし、感じいいし、ちゃんとしてるし。クラスの中でもたぶん一番“できる子”だと思う」
「うん」
「でも、佐伯に対してだけはやっぱり変だと思う」
ひよりはまっすぐ直人を見る。
「で、問題はそこじゃなくて」
少しだけ息を吸う。
「佐伯が、もうその変さを嫌じゃなくなってること」
直人は視線を逸らした。
否定できない。
それが分かっているから、逸らすしかない。
「……嫌じゃない、っていうか」
「嬉しい?」
即座に核心を突かれて、直人は黙り込んだ。
ひよりは困ったように笑う。
「やっぱりそうなんだ」
「……分かんないよ、まだ」
「うん。でも“まだ”って言った時点で、もう結構そっちに傾いてるよ」
その言葉は優しいのに、逃げ道がなかった。
「佐伯って、誰かに必要にされるの弱いもん」
ひよりがそう言った瞬間、直人は少しだけ驚いた。
「何それ」
「見てれば分かるよ」
ひよりは肩をすくめる。
「頼まれたら断れないし、期待されると頑張るし、“いてくれて助かる”って顔されるとすぐ許すじゃん」
「……そんな分かりやすい?」
「分かりやすい」
きっぱり言い切る。
「たぶん榊原さんも、それ知ってる」
知っている。
いや、もう本人がそう言っていた。
だから私は、ちゃんと気をつけて言うようにしてるんです。
あの言葉が、今になってまた重くのしかかる。
ひよりは少し黙ってから、静かに続けた。
「私じゃ、そのやり方できないんだよね」
直人は顔を上げた。
ひよりは笑っていた。
でも、その笑い方はいつもの軽さとは少し違った。
「私、普通にしか好きになれないから」
胸の奥が、鈍く詰まる。
それは告白ではない。
でも、告白よりずっと切実に響いた。
「引き留めたいとか、誰にも渡したくないとか、そういう気持ちはたぶんあるよ。でも、あそこまで綺麗に入り込めない。だって普通に嫌われたくないし」
ひよりはそう言って、少しだけ目を伏せる。
「だからたぶん、私の方が普通なんだと思う」
普通。
その言葉を、今日は何度も聞いている気がした。
普通じゃない澪。
普通に好意を向けるひより。
その間で揺れている自分。
「……ごめん」
直人が思わずそう言うと、ひよりは小さく笑った。
「何で佐伯が謝るの」
「いや、何か」
「いいよ。責めるために呼んだんじゃないし」
そう言ってから、ひよりは一歩だけ近づく。
「ただ、先に言っておきたかっただけ」
「何を」
「私、まだ諦めるつもりないから」
その言葉は、ひよりにしては珍しく強かった。
直人が息を呑んだ瞬間。
「柊さん」
静かな声が、廊下の奥から届いた。
二人とも反射的にそちらを見る。
澪が立っていた。
手には学級日誌。たぶん提出の帰り。たぶん偶然。
そう思おうとしたが、彼女の目は、いつもより少しだけ冷えて見えた。
「先生、探してましたよ」
ひよりは一瞬だけ澪を見返し、それから小さく息を吐く。
「いま行く」
「はい」
澪はそれ以上何も言わない。
けれど、その場に立っているだけで空気が変わる。
ひよりは直人の方を見た。
「またね、佐伯」
「ああ」
短く返すと、ひよりは澪の横を通り過ぎて廊下の向こうへ消えた。
残されたのは直人と澪だけ。
日が傾き始めた廊下は、静かで、少しだけ薄暗い。
「……聞いてた?」
直人が尋ねると、澪は少しだけ首を傾げた。
「少しだけ」
否定しない。
「どこから」
「私じゃ、そのやり方できない、のあたりからです」
そこ、かなり大事なところじゃないかと思ったが、もう突っ込む気力もない。
「盗み聞きだろ」
「そうですね」
「堂々と認めるなよ」
「隠しても意味がないので」
澪は静かに言う。
「それで」
「何が」
「柊さんの“諦めるつもりない”は、どう感じましたか」
直人はすぐには答えられなかった。
ひよりの言葉は真っすぐだった。普通で、ちゃんとしていて、痛かった。だからこそ、余計に胸に残っている。
「……分からない」
結局、そう言うしかない。
澪はその返答を聞いて、小さく目を伏せた。
「よかった」
「何が」
「即答で“嫌だ”って言われなかったので」
その言い方に、また心臓が跳ねる。
自分の中の揺れすら、彼女にとっては希望になる。
「お前、ほんとに」
「はい」
「重い」
「知ってます」
いつものやり取りなのに、今日は少しだけ苦かった。
澪はゆっくりと顔を上げる。
「でも、私も少しだけ焦ってます」
「焦る?」
「はい」
その目は、今までより少しだけ真剣だった。
「だって、普通の子に普通の好きだって言われたら、そっちの方が正しいって思われても不思議じゃないので」
直人は言葉を失う。
そうか、と心のどこかで思った。
澪は澪で、ちゃんと分かっているのだ。
自分がどれだけ“普通じゃない”かを。
その上で、それでも勝ちにきている。
「だから」
澪が一歩だけ近づく。
「少しだけ、今日は先に言っておきます」
「何を」
直人の声は、知らない間に少し低くなっていた。
澪はまっすぐに直人を見る。
「私の方が、佐伯くんのことを必要にしてます」
息が止まった。
好き、ではない。
でもその言葉は、たぶんそれよりずっと深い。
必要にしてます。
必要だ、ではなく。
必要にしている。
自分の生活も感情も思考も、すでに自分を中心に回し始めていると、そう言っているのと同じだった。
普通じゃない。
でも、強烈だった。
「……それ、ずるいだろ」
かろうじて絞り出した声に、澪は少しだけ寂しそうに笑う。
「知ってます」
それから、ごく小さく付け足す。
「でも、先に言わないと取られる気がしたので」
直人はもう、何も言えなかった。




