第7話 初めての約束は、ただの勉強のはずなのに少しだけ近すぎる
土曜日の昼前、佐伯直人は自分でも驚くくらい早く目が覚めた。
時計を見ると、まだ十時を少し過ぎたところだった。待ち合わせは午後一時。急ぐ必要なんてまるでない。二度寝してもいいくらいの時間なのに、眠気はすでに薄れていて、代わりに妙な落ち着かなさだけが胸の中にあった。
図書館に行くだけだ。
勉強をするだけ。
そう自分に言い聞かせる。
言い聞かせる必要がある時点で、もう普通ではないのかもしれない。
布団から起き上がり、顔を洗って、簡単に朝食を済ませる。母は夜勤明けでまだ寝ていた。寝室のドアは閉まっていて、家の中は相変わらず静かだ。
静かな家は慣れている。
それなのに今日は、そこにずっといることが少しだけ苦しかった。
誰かと会う予定がある。
たったそれだけで、普段の静けさの質が変わる。
直人は部屋に戻り、机の上に広げたノートを一度眺めてから閉じた。図書館へ持っていく教材を鞄に詰める。英語、数学、現代文。真面目に勉強するつもりではある。少なくとも、最初は。
服装は迷った末に、結局いつも通りの無難な私服にした。黒に近い紺のTシャツと薄手のシャツ、ジーンズ。気合を入れていると思われたくないし、実際、自分でも何に気合を入れればいいのか分からない。
鏡を見て、小さくため息をつく。
「……何やってんだろ」
独り言は静かな部屋にすぐ消えた。
十二時半を少し過ぎたところで家を出る。空は薄曇りで、日差しは柔らかい。駅前の図書館までは電車で二駅。土曜の昼の街は平日と違って少しゆるんで見えた。買い物帰りの家族連れ、部活に向かう中学生、手を繋ぐカップル。見慣れた風景なのに、今日はやけに一つひとつが意識に引っかかる。
待ち合わせの十分前に駅へ着くと、すでに澪はいた。
改札の横、少し人通りの外れた柱の近くに立っている。白い半袖のブラウスに紺のスカート。制服ではないそれだけで、教室の中の完璧美少女とは少し違って見えた。整いすぎている顔立ちはそのままなのに、髪の下ろし方や表情の柔らかさが、学校より少しだけ隙を見せているように思える。
澪は直人に気づくと、すぐに小さく笑った。
「早いですね」
「そっちこそ」
「待つの、嫌いじゃないので」
その言い方に、直人はまた胸の奥がざわつく。
待つのが嫌いじゃない。
たぶんそれは、こうして待つ相手が自分だから言える言葉だ。
「行くか」
「はい」
二人で並んで歩き出す。駅前の人混みを抜け、図書館へ向かう道を進む。学校帰りに一緒に歩くのとは違う。今日は制服もないし、周囲にクラスメイトもいない。ただの男女二人が休日に待ち合わせているだけだ。
そう思った瞬間に、急に現実味が増した。
「緊張してますか」
澪が何でもないことのように聞く。
「してない」
「してますね」
「何でそうなる」
「歩幅が少しだけ速いので」
即答だった。
直人は思わず歩く速度を意識してしまう。たしかに少しだけ速かったかもしれない。合わせるように一歩緩めると、澪が隣で小さく目を細めた。
「今、意識しましたよね」
「……うるさいな」
「ふふ」
笑われた。
教室で見せる非の打ち所のない微笑みじゃなく、少しだけ親しげで、楽しそうな笑い方だった。それだけで、今日来てよかったと思ってしまう自分がいる。
図書館に着くと、学習スペースにはそこそこ人がいた。休日らしく、高校生や大学生らしい人影が多い。二人は並んで座れる席を見つけ、向かいではなく隣同士に腰を下ろした。
それだけのことで、直人の意識は少しだけ乱れる。
学校なら席の配置や状況に意味はない。だが今は違う。隣に座る距離も、鞄を置く位置も、ノートを広げる動作も、全部がやけに近く感じる。
「英語からにしますか」
澪が囁くような小さな声で言う。
「そうだな」
直人も同じくらいの声量で返した。
勉強は、意外なほど普通に始まった。
英語の長文を解き、分からない単語を確認し、数学の問題集を進める。澪は本当に頭がいいらしく、説明も簡潔で分かりやすい。教える時に上から目線にならず、直人がどこで詰まっているのかをすぐに拾ってくる。
「ここ、式を一つ飛ばしてます」 「……あ、ほんとだ」 「でも考え方は合ってます」
その“合ってます”という一言に、直人は妙に救われる。
否定から入らない。
間違いを責めない。
その代わり、必要なところだけきちんと直してくる。
たぶん澪は、勉強でも人間関係でも同じことをしているのだろう。全部把握して、綺麗に整えて、自分の思う位置に置き直す。
それが今日は、問題集の上でだけ行われているから、ひどく平和に見える。
一時間ほど経った頃、澪が小さく言った。
「少し休みますか」
「うん」
二人で席を立ち、自販機のあるロビーへ移動する。直人が財布を出しかけた時、澪が先に小銭を入れた。
「おい」
「昨日のノートのお礼、まだもらってないので」
「それ、俺が言う側じゃないのか」
「じゃあ、相殺で」
そう言って買ったのは、直人がよく選ぶ銘柄のカフェオレだった。
「……また分かるのか」
半ば呆れて言うと、澪は缶を渡しながら答える。
「前に昼休みに二回続けて飲んでいたので」
「そんなとこまで見てるのかよ」
「はい」
何のためらいもなく答えられて、直人はそれ以上言えなくなる。
ロビーの窓際には小さなベンチがあり、二人は並んで腰掛けた。館内は冷房が効いていて少し涼しい。缶コーヒーの表面の冷たさが指先に馴染む。
しばらく無言で飲んでいると、澪がふと聞いた。
「家、今日は一人ですか」
直人は一瞬だけ動きを止めた。
「……何で」
「いつも土曜は、お母さん仕事のことが多いですよね」
まただ。
知っている。
こちらが口にしていないことを、もう知っている。
「前に言ったっけ」
「何度か」
澪は視線を窓の外へ向けたまま言う。
「夜勤の話とか、朝ごはんの話とか。たぶん佐伯くんは覚えてないですけど」
直人は缶を握ったまま黙る。
覚えていない。たしかにその通りだ。自分は案外、何気ない会話で色々こぼしているのかもしれない。けれど、それを全部拾って覚えている相手がいるという事実は、やっぱり少し異常だった。
「……家、静かでしょ」
気づけば、そんなことを口にしていた。
自分から言うつもりはなかった。
でも、今日の澪はいつもより静かで、図書館の薄い空気の中にいると、変に言葉が零れやすかった。
「静かですね」
澪は否定しない。
「慣れてるけど」
「うん」
「慣れてるけど、たまに妙にしんどい時がある」
そこまで言ってから、直人は自分が何を話しているのか遅れて気づいた。
こんな話を、他人にしたことはほとんどない。
父が単身赴任で母が忙しいことなんて、別に珍しい話ではない。大変だとか寂しいとか言うほどでもないと思ってきた。自分よりしんどい人なんていくらでもいる。だからわざわざ口にすることじゃないと思っていた。
でも澪は、そこで余計な同情を見せなかった。
「そういう日、ありますよね」
ただ、そう言っただけだった。
分かる、とも。かわいそう、とも。大変ですね、とも言わない。ただ“ありますよね”と、自分の感覚をそのまま認めるみたいに返す。
その返し方が、直人にはひどく優しかった。
「……榊原の家は」
聞きかけて、少し迷う。
ここで家庭の話を掘り下げるのは違う気もした。けれど澪は少しだけ笑って先回りした。
「静かですよ」
「そっか」
「でも私の場合は、静かな方が楽なことも多いです」
その一言に、直人はそれ以上踏み込めなかった。
彼女の家庭の輪郭はまだ曖昧だ。父母との距離、完璧でいることの圧、そういうものがあるのは分かる。だが今日は、そこまで聞くべきではないと直感した。
「佐伯くん」
澪が缶を両手で持ちながら、小さくこちらを見る。
「今日、来てくれてありがとうございます」
「勉強のためだろ」
「それだけじゃないです」
そう言って、少しだけ目を細める。
「休日に、こうして私と一緒にいてくれるのが嬉しいんです」
直人の喉が詰まった。
図書館。勉強。休日。
全部、ただの言い訳にすぎなかったのだと改めて思い知らされる。
彼女は最初から、これが“そういう時間”だと分かった上で誘っている。
「……そういうこと、簡単に言うなよ」
かろうじてそう返すと、澪は少しだけ首を傾げた。
「簡単じゃないです」
「いや、余計だよ。そういうの」
「余計でしたか」
引くような言い方ではなかった。本当に確認しているだけの声。
直人は視線を逸らす。
「……余計、っていうか」
言葉を探す。
「慣れてないから」
それが一番近かった。
必要そうにされること。
喜ばれること。
休日を一緒に過ごせて嬉しいと、まっすぐ言われること。
そういうものに、自分は驚くほど慣れていない。
澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「じゃあ、少しずつ慣れてください」
「その言い方もだいぶ危ないけど」
「知ってます」
知っててやる。
そこが本当にずるい。
再び学習スペースへ戻ってからの一時間は、さっきまでより少しだけ集中できなかった。隣に座る彼女の気配がやけに近く感じる。ノートをめくる指先、シャーペンを持つ手、ページの隅に落ちる髪の影。どれも意識したくないのに目に入る。
問題集の途中、直人が一度だけ大きくため息をつくと、澪がすぐに小声で言った。
「疲れましたか」
「ちょっと」
「集中切れてますね」
「分かる?」
「分かります」
即答だった。
「さっきから、三回同じページ見てます」
「まじか」
「まじです」
思わず笑ってしまう。澪も少しだけ笑った。
その笑い方が、学校で見るよりずっと近い。
午後四時前、二人は図書館を出た。勉強はそれなりに進んだ。けれど正直なところ、記憶に残っているのは問題集の内容より、隣に彼女がいた時間の温度の方だった。
駅へ向かう途中、小さなベーカリーの前を通る。焼きたての匂いが流れてきて、澪が足を止めた。
「少しだけ、寄ってもいいですか」
「いいけど」
「母がこういうの好きで」
珍しく、家庭の話題を自分から出した。
二人で店に入り、トレーを取る。澪がいくつかパンを選ぶ横で、直人は塩パンを一つだけ取った。会計を済ませて外へ出ると、澪が紙袋を見ながらふっと笑った。
「今日、ちゃんと勉強できましたね」
「それなりには」
「でも途中から、少し上の空でした」
「……お前もだろ」
「そうですね」
あっさり認める。
「隣にいるの、思ったより近かったので」
心臓がまた跳ねた。
「そういうの、ほんとやめろって」
「やめません」
「即答かよ」
「本当のことなので」
直人は何も言えなくなって、代わりに少しだけ笑った。
もう駄目かもしれないと思う。
彼女の言葉一つで揺れるのが、以前よりずっとはっきり分かるようになってしまった。
駅前で別れる直前、澪がふいに立ち止まる。
「今日のこと、帰ってから思い出してくれますか」
「……は?」
「たとえば、図書館で隣に座ってたこととか」
そんなの、思い出さない方が無理だった。
「思い出すだろ、たぶん」
「よかった」
澪は安心したように目を細める。
「私も、思い出します」
それはたぶん、軽い言葉じゃない。
今日の時間を、自分の中で反芻するつもりなのだと分かる。
直人もまた、きっと同じことをする。
「また、来週」
澪が言う。
「……また来週」
電車に乗って帰る間、直人はずっと窓の外を見ていた。
普通じゃないと分かっている。
分かっているのに、もう少しだけ欲しいと思ってしまう。
休日の約束。
隣で勉強する時間。
自分の何でもない言葉を拾って覚えている相手。
そして、その相手が自分と同じように今日を思い出すと知っていること。
それら全部が、静かに、確実に、自分を甘やかしていた。
家に着くと、母はまだ帰っていなかった。夕方の光が差し込むリビングに一人で立ち尽くし、直人はしばらく動けなかった。
静かだ。
いつもの静かな家。
でも今日は、その静けさの中に図書館の空気や隣の体温の記憶が入り込んでいる。
直人はソファに座り、スマホを取り出した。
数秒迷ってから、メッセージアプリを開く。
澪とのやり取りは必要事項しかしていない。今日の待ち合わせ時刻だって、短い連絡だけだった。
それなのに、いまは何か一言送りたいと思ってしまう。
今日はありがとう。
勉強助かった。
そういう無難な文ならいくらでも打てる。
だが、直人が迷っている間に画面が先に震えた。
『今日はありがとうございました。楽しかったです』
澪からだった。
数秒遅れて、もう一通届く。
『次はもう少し長く一緒にいたいです』
直人は画面を見つめたまま動けなくなる。
普通じゃない。
でも、嬉しい。
その二つの感情がもうきれいに分けられないところまで来ているのだと、改めて思い知らされた。




