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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 玉響すばる


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第6話 普通じゃないと分かっていても、もう少しだけ欲しいと思ってしまう

 ひよりと別れたあと、佐伯直人はしばらく廊下を動けなかった。


 窓の外では、夕方の薄い光が校舎の壁を斜めに照らしている。グラウンドの方からは運動部の声が聞こえた。いつも通りの放課後だ。誰かにとっては何でもない金曜日で、来週になれば今日のことなんて忘れているような、そんな普通の一日。


 なのに、直人の中だけが妙にざわついていた。


 普通の親切じゃない。


 ひよりの言葉が、まだ耳の奥に残っている。


 分かっている。


 たしかに澪の行動は、ただ気が利くとか、面倒見がいいとか、そういう範囲を少しずつ越え始めている。落とし物を拾っておくことも、予定を覚えていることも、不調に気づくことも、一つずつ切り取れば親切だ。けれどそれが全部、自分にだけ集中しているからおかしいのだ。


 そのおかしさを、直人ももう認めざるを得ないところまで来ていた。


 それでも。


 それでも、やめてほしいとは言えなかった。


 それが一番厄介だった。


「佐伯くん」


 静かな声がして、直人は顔を上げた。


 少し離れた場所に、榊原澪が立っていた。ひよりと話していたところを見られていたのかどうかは分からない。けれど、見られていたとしても不思議ではないと思ってしまう自分がいる。


「帰りますか」


 澪はいつも通りの顔でそう言った。


 直人は一瞬だけ、断る理由を探した。ひよりとあんな話をした直後だ。少し距離を置いた方がいいのかもしれない。いま彼女と並んで帰れば、また何かずるずると許してしまう気がする。


 けれど、結局出てきた言葉は違った。


「……帰る」


「はい」


 澪は小さく頷いた。


 それだけで、もう決まってしまう。二人で昇降口へ向かい、靴を履き替え、校門を出る。並んで歩く距離も速度も、もう不自然なくらいには馴染んでいた。


 しばらくは会話がなかった。


 夕方の風は少しぬるく、アスファルトの熱がまだ残っている。駅へ向かう道には同じ制服の生徒が何人も歩いていたが、少しずつそれぞれの進路に散っていくと、二人の周囲だけが静かになる。


「柊さん、怒ってましたか」


 先に口を開いたのは澪だった。


 直人は小さく息を吐く。


「怒ってた、っていうか……心配してた」


「そうですか」


 それだけ返す声は、思ったより淡々としていた。


「お前、自分が何してるか分かってる?」


 直人は前を向いたまま言う。


「はい」


「分かっててやってるんだよな」


「はい」


 迷いがない。


 そこまであっさり認められると、逆に言葉を失う。


「……何でそんな平気なんだよ」


 問いかけると、澪は少しだけ考えるように間を置いた。


「平気ではないです」


「そう見えないけど」


「見せてないので」


 その言い方に、直人は足を少し緩めた。


 見せてない。


 たぶんそれは本当なのだろう。学校での榊原澪は、相変わらず完璧だ。誰に対しても感じがよく、余計な感情を表に出さない。ひよりに何か思うところがあっても、乃愛に先回りしたくても、全部穏やかな笑顔の下に押し込めて処理している。


 そうできるから余計に怖いのかもしれない。


「私は」


 澪が静かに言う。


「佐伯くんが、誰かに少しずつ持っていかれるのが嫌なんです」


「持っていかれるって」


「時間も、意識も、優しさもです」


 直人は返事に詰まった。


 時間も、意識も、優しさも。


 ずいぶん曖昧で、ずいぶん具体的な言葉だった。


「全部、佐伯くんのものです」


 澪は続ける。


「だから本当は、誰に使おうが自由なんです。でも」


「でも?」


「自由だからこそ、怖いんです」


 その一言は、直人の想像よりずっと真っすぐだった。


 支配したいとか、奪いたいとか、そういう強い単語ではない。もっと切実で、もっと弱い響きだった。


 自由だからこそ、怖い。


 誰も縛れない。だから離れていくかもしれない。選ばれないかもしれない。そこに彼女の不安の核があるのだと、直人にも分かった。


「……それで、俺の周りを勝手に整理するのか」


「はい」


 また即答だった。


「少しでも、私の知らないところで佐伯くんのことが決まっていくのが嫌なので」


 そこまで言われると、もはや笑えない。


 ひよりが言った通りだ。普通ではない。


 なのに直人は、その普通じゃなさに対して、嫌悪より先に別の感情を抱いてしまっている。


 ここまで必要そうにされること。ここまで自分の周囲を気にされること。自分の予定や体調や落とし物まで誰かの関心の中にあること。その全部が、ずるいくらいに心地いい。


 子どもの頃から、誰かの負担にならないことばかり覚えてきた。母に手がかからないと言われるのは、褒め言葉だと思っていた。父に余計なことを言わせないのが、自分の役目みたいなものだと思っていた。


 だからたぶん、自分はずっと、こういうのに弱かったのだ。


 自分を管理したがるほど、気にかけてくれる誰かに。


「……お前さ」


 直人は苦笑混じりに言った。


「たぶん、自分で思ってるよりだいぶ重いよ」


「知ってます」


 澪はわずかに口元を緩めた。


「それでも、やめた方がいいですか」


 またその聞き方だ。


 嫌ならやめる。やめろと言われれば引く。そういう形を作りながら、実際にはこちらが“やめてほしい”と言えないことを知っている。


 行動経済学でいう損失回避みたいなものだと、直人は頭のどこかで思う。いまの距離感を失うことを、もう自分は怖がっている。彼女に見られることも、気にかけられることも、先回りされることすら、すでに少しだけ“あるのが当たり前”になり始めている。


 失いたくないと思ってしまった時点で、もうこちらの負けだ。


「……ずるいよな、その聞き方」


「はい」


 澪は否定しなかった。


「でも、ずるくないとたぶん無理なんです」


 その声は少しだけ弱かった。


 初めて聞く響きだった。教室での穏やかな澄まし声でも、旧校舎で壊れかけていた時の掠れた声でもない。何かを諦める前みたいな、小さく頼るような声だった。


 直人は立ち止まる。


 駅へ向かう途中の小さな歩道橋の下、街路樹の影が二人の足元に揺れている。


 澪も少し遅れて足を止め、直人を見上げた。


「無理って、何が」


 聞かずにはいられなかった。


 澪は少しだけ視線を逸らす。


「普通に待つこと、です」


「待つ?」


「はい。佐伯くんが誰を選ぶかとか、誰と仲良くなるかとか、そういうのを何もしないで待つこと」


 直人は言葉を失った。


「それができる人もいると思います」


 澪は静かに続ける。


「でも私は、無理です。待ってる間に、全部終わってしまう気がするから」


 その感覚は、たぶん彼女にとっては現実なのだろう。


 中学時代のことも、家庭のことも、直人はまだ断片しか知らない。けれど“本当の自分を見せたら離れられる”と学習してきた人間なら、待つことを信じられないのは不思議ではない。行動しないことは、そのまま喪失に繋がると脳が判断してしまうのかもしれない。


 だから先回りする。整える。入り込む。離れていく可能性を一つずつ潰す。


 歪んでいる。

 でも、その歪みの理由は理解できてしまう。


「……だからって、俺の周りの人間関係まで触るなよ」


 直人がそう言うと、澪は少しだけ目を伏せた。


「触りすぎましたか」


「たぶん」


「ごめんなさい」


 また素直に謝る。


 それが本当に謝罪なのか、ただの確認なのか、直人にはもう分からない。


「でも」


 澪は顔を上げる。


「少しだけ、安心しました」


「何が」


「いま、ちゃんと言ってくれたので」


 直人は眉を寄せた。


「今までの佐伯くんなら、たぶん“別にいい”で流してたと思うんです」


「……」


「でも今は、嫌だったところをちゃんと言ってくれた」


 澪の目は静かだった。


「それが、少しだけ嬉しいです」


 そう言われると、直人はもう何も言えなかった。


 確かにそうかもしれない。以前の自分なら、面倒を避けるために全部曖昧に笑って終わらせていた。けれどいまは、彼女に対してだけは曖昧にしたくないと思ってしまっている。


 それは距離が近づいた証拠なのか。

 それとも、もう十分に巻き込まれてしまった証拠なのか。


「じゃあ、一つだけ約束します」


 澪が言った。


「乃愛さんみたいに、勝手に話をしに行くのは控えます」


「……ひよりにも?」


「柊さんにはまだ何もしてません」


 その返しがあまりに澄んでいて、逆にぞくりとした。


 まだ、という言葉は入っていない。

 でも、入っていないだけで、意味はそこにある気がした。


「何もしないでくれよ」


 直人が低く言うと、澪は少しだけ困ったように笑う。


「努力します」


「努力じゃ困るんだけど」


「はい。でも、全部は約束できません」


 そこまで正直だと、もう呆れるしかない。


 直人は小さく息を吐いて、歩き出した。澪も隣に並ぶ。


 駅前が見えてくる。人通りが増え、コンビニの明かりが目に入る。ここまで来ると、もう学校から切り離された感じがして少しだけ安心する。誰かに見られても、ただの高校生二人だ。


「明日、暇ですか」


 不意に澪が言った。


 直人は目を瞬く。


「明日?」


「はい。土曜日ですし」


「別に予定はないけど」


 正確には、母は仕事、父は帰らない。家にいても静かなだけだ。買い物に行くか、勉強をするか、適当に時間を潰して終わる。そんな一日になるはずだった。


「じゃあ、図書館に行きませんか」


 澪はまるで何でもないことのように言う。


「テストも近いですし。勉強でも」


 その誘い方が絶妙だった。


 デートとは言わない。遊びとも言わない。勉強。図書館。理由のある外出。断るほどではない、むしろ真面目なくらいの提案。


 ここでもまた、彼女はちゃんと気をつけて言っている。


 直人は少しだけ笑った。


「ほんとに抜け目ないな」


「褒めてますか」


「どうだろうな」


 澪は少しだけ目を細める。


「嫌なら、断ってください」


 まただ。


 断れるはずがないと知っていて、断る選択肢を差し出す。そうすることで、自分の行動の強制力を見えにくくしている。


 ただ今回は、それだけでもなかった。


 図書館に行く。

 勉強をする。

 土曜の静かな時間を、誰かと一緒に過ごす。


 そのイメージを想像した時、直人の胸のどこかが少しだけ温かくなった。


 ひよりの言う“普通じゃない”は分かっている。

 澪の重さも、独占欲も、全部少しずつ理解している。


 それでも。


 それでも、明日の自分が、家で一人でいるより彼女と図書館へ行く方を望んでしまった。


 それが答えだった。


「……何時?」


 澪の表情が、ほんのわずかに緩む。


「午後一時くらいなら」


「分かった」


「駅前の図書館でいいですか」


「ああ」


「ありがとうございます」


 その礼の言い方が、今日は少しだけ素直に嬉しそうだった。


 直人はそれを見て、自分の中でまた一つ何かが傾くのを感じた。


 危ないと思う。

 たぶん、ちゃんと危ない。


 でも人は、危ないと分かっているものほど価値を感じることがある。希少性とか、独占とか、そういう心理の話ではない。ただ、自分にだけ向けられた濃い感情は、それだけで強い。


 駅の改札前で、二人は別れる。


「また明日」


 澪が言う。


「……また明日」


 返しながら、直人は少しだけ驚いていた。


 明日の約束があることに。

 それを自分が嫌ではなく、むしろ楽しみに思っていることに。


 改札を抜けたあとも、しばらく心臓が落ち着かなかった。


 土曜日。

 一時。

 駅前の図書館。


 たったそれだけの予定なのに、ひどく特別に感じる。


 家に帰ると、母はまだ仕事だった。

 暗い部屋の明かりをつけ、鞄を置き、制服のボタンを外す。静かな部屋の空気はいつも通りのはずなのに、今日はいつもほど重くない。


 明日、出かける予定があるからだ。


 誰かと会う約束がある。

 それも、自分をここまで見て、気にして、取り込もうとしてくる相手と。


 普通なら警戒するべきなのに、直人はソファに座りながら小さく息を吐いた。


「……やばいな」


 何がやばいのかは、自分でも分かっている。


 榊原澪の行動が普通ではないこと。

 それを分かった上で、なお自分が彼女を求め始めていること。


 そしてたぶん、明日の約束は、ただの勉強では終わらないこと。

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