第5話 見えないところで整えられる日常は、少しずつ逃げ道をなくしていく
その週の金曜日、佐伯直人は朝から妙に落ち着かなかった。
理由ははっきりしている。
一昨日の帰り道、榊原澪に言われた言葉がまだ胸に残っていたからだ。
誰かに必要だと言われると断れないこと。
だから私は、ちゃんと気をつけて言うようにしてるんです。
あれは、ほとんど告白みたいなものだったのかもしれない。
好きだとか、そういう直接的な言葉ではない。
けれど、もっと深い場所を撫でるような言い方だった。
自分の弱い部分を知っていて、そこに届く言葉を選んでいる。
それを隠しもせずに、静かに認めた。
普通じゃない。
そう思うのに、拒絶できなかった。
むしろ少しだけ嬉しかった自分が、まだ一番厄介だった。
教室に入ると、澪はいつも通り前方の席に座っていた。
窓から差す朝の光が制服の肩を淡く照らしている。周囲では何人かの女子が話していて、彼女もそこに自然に混ざっていた。聞き役に回る時の柔らかい表情も、相手の話に合わせて少しだけ目元を緩める感じも、何もかもが綺麗にできすぎている。
その中で、澪だけが直人の気配に気づいたように顔を上げた。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
もうこの挨拶がない朝の方が落ち着かないのかもしれない、と直人は思った。
思ってしまったあとで、自分でも嫌になる。
たった数日のことなのに、もう日常の一部みたいに馴染み始めている。
席に座り、教科書を出そうとして、直人は手を止めた。
「あれ」
英語のノートがない。
鞄の中を探る。机の中も確認する。けれど見当たらない。家に忘れた記憶はないし、昨夜もたしか机の上に出していたはずだ。
小さく眉を寄せていると、澪が振り向いた。
「どうしましたか」
「英語のノート、なくしたかも」
「青い表紙のものですか」
「そう。それ」
「昨日の放課後、机の横に落ちていましたよ」
そう言って澪は、自分の机の横から一冊のノートを取り出した。
「預かってました」
「……え」
直人は一瞬、言葉を失った。
「声をかけようと思ったんですけど、昨日はそのまま帰ってしまったので」
澪は自然にノートを差し出す。
「はい」
「……ありがとう」
「いいえ」
受け取りながら、直人はほんの少しだけ寒気に似た感覚を覚えた。
助かった。実際、かなり助かった。
だが同時に、自分が気づく前に、自分の落とし物がもう彼女の管理下にあったという事実が、妙に胸に引っかかった。
「昨日、俺の机の横まで見てたのか」
軽い冗談のつもりで言った。
だが澪は冗談としては受け取らなかったらしい。
「見ていた、というより」
一拍置く。
「佐伯くん、物を落としてもそのまま気づかないことがあるので」
まただ。
自分の性質を、自分よりよく理解しているみたいな言い方。
それが少し怖くて、少し心地よい。
「そこまで?」
「そこまでです」
澪は何でもない顔でそう言った。
その会話を、斜め後ろの席に鞄を置いていたひよりが聞いていたらしい。
「うわ」
小さく声がして、直人が振り向く。
「何が」
「いや、なんでもない」
ひよりは笑ったが、その目は明らかに何か言いたそうだった。
ホームルームが始まり、一時間目、二時間目と進む。
三時間目は移動教室だった。現代文の授業のため、クラス全員で特別棟の視聴覚室へ向かう。廊下を歩く流れの中で、直人は自然とひよりと並んだ。
「さっきのさ」
ひよりが小声で言う。
「榊原さん、前からあんな感じだったっけ」
「……あんな感じって」
「落とし物拾ってくれてるとか、そういう親切の話じゃなくて」
ひよりは言葉を選ぶように少しだけ間を置く。
「何ていうか、佐伯のこと、知りすぎてない?」
直人は返答に詰まった。
たぶん、知りすぎている。
でもそれを、どの程度まで“おかしい”と判断すべきなのかが分からない。
「見てれば分かる範囲じゃない?」
自分でも苦しいと思う言い訳が、口をついて出た。
ひよりはそんな直人をじっと見た。
「それ、本気で言ってる?」
「……分からない」
正直にそう答えると、ひよりはほんの少しだけ眉を下げた。
「だよね」
それだけ言って、前を向く。
その“だよね”には、責めるより先に、心配が混ざっていた。
授業が終わったあとの休み時間、直人はトイレへ立った。
教室へ戻る途中、廊下の角を曲がったところで、聞き覚えのある声がした。
「七瀬さん」
澪の声だった。
反射的に足が止まる。別に盗み聞きするつもりはなかったが、そのまま姿を見せるのも妙な気がして、直人は足音を殺した。
少し先、窓際のところに澪と乃愛が立っていた。
「はい?」
乃愛の声はいつも通り明るい。
だが、澪の方は少しだけ低い。
「佐伯くん、優しいですよね」
「え、はい。すごく」
「だから、頼れば断れないことも多いんです」
直人は息を止めた。
「そうなんですか?」
「ええ。だからこそ、あまり困らせないであげてください」
その言い方は静かだった。
責めているわけでも、脅しているわけでもない。
ただ、当然の配慮を求めているような声だった。
乃愛は少しだけ戸惑ったようだった。
「わ、私は別に、困らせるつもりとかじゃ……」
「分かっています」
澪が微笑む気配がした。
「七瀬さんが悪気なく近い子だってことも。でも、佐伯くん、ああ見えてちゃんと断るの苦手なので」
「……」
「だから、少しだけ気をつけてあげてください」
しばらく沈黙があって、乃愛が小さく答える。
「……はい」
「ありがとうございます」
そこまで聞いて、直人はようやく息を吐いた。
内容だけ拾えば、澪の言っていることは間違っていない。
実際、乃愛の距離感は近いし、自分が断るのが苦手なのも本当だ。
でも、何だろう。
胸の奥がざわつく。
まるで自分がいないところで、自分の取り扱い説明書が配られているみたいな感覚だった。
直人はその場から足音を立てて歩き出した。
わざと気配を出す。
数歩先で角を曲がると、澪と乃愛がこちらを見た。
「あ、佐伯先輩」
「どうも」
なるべく普通に返す。
澪は一瞬だけ直人の表情を読もうとするように目を細めたが、すぐにいつもの柔らかい顔へ戻った。
「ちょうど七瀬さんと話していたところです」
「何を?」
「図書室の当番表のことです」
さらりと嘘をついたのか、あるいは本当にそういう話題も混ざっていたのか、直人には分からなかった。
乃愛は少しだけ気まずそうにしている。
その様子だけで、さっきの会話がそれなりに効いていたことが分かった。
「そうなんですね、先輩」
乃愛は無理に明るく笑う。
「私、そろそろ戻ります」
「うん」
「失礼します、榊原先輩」
ぺこりと頭を下げて去っていく。
残された廊下に、直人と澪だけが立った。
「……何言ったんだよ」
思ったより低い声が出た。
澪は一瞬だけ瞬きをして、それから素直に答える。
「少しだけ、お願いをしました」
「お願い?」
「佐伯くんを困らせないでほしいって」
やっぱり、と思う。
「それ、俺に言う前に本人に言うことじゃないだろ」
「本人に言っても、佐伯くんはたぶん“別にいい”って言いますよね」
何も言い返せなかった。
そう言われると、その通りだった。
乃愛の距離感が近いとしても、困ると言い切るほどでもない。だから曖昧に流してしまったはずだ。
「でも」
澪は静かに続ける。
「私は、曖昧なまま誰かに踏み込まれるのを見てるのは嫌です」
その言い方に、直人はまた息を呑んだ。
教室の中では優等生の顔をして、全部を穏やかに処理する榊原澪。
その彼女が、こういう時だけ妙に率直になる。
「……俺のため?」
「はい」
迷いなく頷く。
「少なくとも、私はそう思ってます」
僕のため。
その言葉をまた使う。
ずるい、と直人は思う。
本当にずるい。
自分が断れないことを知った上で、自分を守る形で距離を詰めてくる。
だが同時に、その独占欲みたいなものが少し嬉しい自分もいる。
だから怒りきれない。
「勝手にやるなよ」
結局、そんな弱い言い方しかできない。
澪はその一言を聞いて、小さく目を伏せた。
「……ごめんなさい」
素直に謝られると、余計に困る。
「ただ」
彼女はまた顔を上げる。
「やめられるかどうかは、自信がありません」
直人は思わず目を見開いた。
そこまで正直に言うのか、と思った。
「そんな顔しないでください」
「どんな顔だよ」
「困ってる顔です」
澪は少しだけ苦く笑う。
「困らせたいわけじゃないんです。本当に」
「じゃあ何なんだよ」
問いは、少しだけ乱暴だったかもしれない。
けれど澪は怒らなかった。
代わりに、静かに言う。
「取られたくないだけです」
その一言で、廊下の空気が変わった気がした。
取られたくない。
誰に、とは言わない。
何を、も言わない。
でも意味ははっきり分かってしまう。
直人は数秒、言葉を失った。
心臓がうるさい。
「……俺、別に誰のものでもないけど」
ようやく出た言葉は、情けないほど弱かった。
澪はそれを聞いて、少しだけ悲しそうに笑った。
「そうですね」
「だったら」
「でも、そうじゃないと嫌なんです」
直人は黙るしかなかった。
これ以上言葉を重ねると、本当に何かが決まってしまいそうだったからだ。
昼休みが終わったあとも、頭の中はずっとその会話でいっぱいだった。
授業内容がほとんど入ってこない。ノートは取っているのに、文字だけが上滑りする。自分でも相当まずいと思うのに、意識を逸らせない。
取られたくない。
それはもう、かなりはっきりした独占欲だった。
普通なら引くのかもしれない。
怖いと感じるのかもしれない。
なのに直人は、どこかでその言葉を嬉しいと思ってしまっていた。
こんなふうに必要そうにされること自体が、初めてに近いからだ。
放課後、ひよりが再び直人を捕まえた。
「ねえ、ちょっといい」
「うん」
教室の外、廊下の端まで引っ張られる。ひよりの顔は笑っていなかった。
「乃愛ちゃんに、何かあった?」
「何で」
「さっき一年の子とすれ違った時、なんか妙に気まずそうだったから」
勘がいい。
本当にいい。
直人は迷った末に、少しだけ事実を話した。
「榊原が、たぶん俺のことで何か言った」
「やっぱり」
ひよりは小さく吐き捨てるように言った。
「やっぱりって」
「だって、最近そういう感じじゃん。佐伯に近づく人に、全部先回りしてる」
そこまではっきり言われると、反論できない。
「……でも、全部俺のためって言うんだよ」
自分でも何を言っているんだと思う。
だが、それが一番の問題だった。
ひよりはしばらく黙っていた。
そして直人の顔を見て、少しだけ苦しそうに笑う。
「それ、いちばん危ないやつじゃん」
その言葉は真っすぐだった。
「佐伯が怒れないの分かってて、“あなたのため”で全部押してくるの」
「……」
「しかも佐伯、ちょっと嬉しいでしょ」
直人は反射的に否定しかけて、できなかった。
ひよりはその反応だけで十分だったらしい。
目を伏せて、小さく息を吐いた。
「そっか」
その一言に、直人の胸が痛んだ。
「ひより」
「ううん、責めてるわけじゃない。ただ、ちゃんと気づいてほしいだけ」
顔を上げたひよりの目は、やっぱり優しかった。
「それ、普通の親切じゃないよ」
普通の親切じゃない。
澪の言葉ではなく、ひよりのその一言の方が、今の直人には深く刺さった。
普通じゃない。
たしかにそうだ。
それでも、直人はもう、その普通じゃなさから目を逸らしきれなくなっていた。




