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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 翡翠


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第4話 僕のため、という言葉はこんなにも切りにくい

 翌日は、朝から少しだけ空気が重かった。


 天気のせいではない。


 雲は薄く、日差しも出ている。梅雨の合間の晴れ間らしく、校庭には明るい光が落ちていた。けれど佐伯直人の気分は、昨日の放課後で止まったままだった。


 気になるから。


 榊原澪がそう言った時の声が、まだ耳に残っている。


 軽い言い方ではなかった。冗談でも、からかいでもない。ただ静かに、本当のことを一つだけ置いていくみたいな声だった。


 直人は自分でも分かっていた。


 あの一言で、自分は少しだけ嬉しかったのだ。


 誰かに気にかけられること。見られていること。必要とまでは言われていないのに、それに近い何かを向けられること。それが、自分の思っていた以上に心地よかった。


 それが少し嫌だった。


 嫌だと思うくらいには、もう榊原澪の言葉が深いところに引っかかっている。


 教室に入ると、いつものざわめきが迎えた。


 席に向かう途中で、前方から澪の視線が一度だけ触れる。もう驚くほどではない。けれど慣れたとも言い切れない。


「おはよう、佐伯くん」


「……おはよう」


 短いやり取り。


 その一言だけで、朝の輪郭が整ってしまう感覚がある。


 直人はそのまま席に座り、鞄から教科書を出した。自分の手つきが少しだけぎこちないことに気づいて、心の中で苦笑する。


 何を意識しているんだ、と。


 だが意識しない方が無理だった。


 昨夜のやり取りが、まだ終わっていないみたいに胸の中に残っている。


 一時間目が始まる直前、ひよりが教室に入ってきた。


 いつも通りの明るい顔をしていたが、直人の席の前を通る時、ほんのわずかに足が止まった。


「おはよ、佐伯」


「おはよう」


「昨日、ごめんね。変な空気にしちゃって」


「別に気にしてない」


「ならいいけど」


 ひよりはそれだけ言って笑った。笑ったが、その目は少しだけ探るようだった。


 直人はそこに気づかないふりをする。


 ひよりが何かを感じているのは分かる。自分でも同じように引っかかっているからだ。でも今それを言葉にしたところで、うまく整理できる気がしなかった。


 授業はいつも通りに進んだ。


 ただ二時間目の終わり頃から、直人は右手首に鈍い違和感を覚えていた。体育の後に少しひねったのかもしれない。大した痛みではないし、日常生活に支障があるほどでもない。


 だから気にしなかった。


 そのつもりだった。


 三時間目の小テストが終わり、回収のために列の前から後ろへ答案用紙が回される。直人が右手で受け取ろうとした瞬間、小さく顔をしかめた。


 そのわずかな動きに、前の席が反応する。


「痛いんですか」


 振り向いた澪が、静かにそう聞いた。


 直人は一瞬だけ黙った。


「……別に大したことない」


「右手首ですよね」


「なんで分かるんだよ」


「さっきから、持ち方が少しだけ不自然なので」


 やはり見ている。


 もう驚くべきことではないのかもしれないが、言葉にされるたびに少しだけ息が詰まる。


「湿布、保健室にもらいに行きますか」


「そこまでじゃないって」


「そうですか」


 澪はそれ以上は言わなかった。


 ただ、前を向く前に一瞬だけ視線が手元に落ちる。その目が、直人には妙に優しく見えた。


 昼休み。


 直人が購買から戻ると、机の上に見覚えのない小袋が置いてあった。


 中を見ると、ドラッグストアで売っていそうな小さな冷却シートが二枚入っている。メモも何もない。だが、誰が置いたかは考えるまでもなかった。


 直人は前の席を見た。


 澪は何食わぬ顔で友人と話していた。こちらを見もしない。


 その態度が逆に確信を強める。


「……」


 直人は小袋を手に取った。


 たぶん、親切なのだ。


 たぶん本当に、それだけなのだと思う。けれどその“それだけ”が、もう普通のクラスメイトの範囲を少しずつ越え始めている気がする。


「何それ」


 横からひよりの声がして、直人は反射的に袋を握り込んだ。


「いや、別に」


「別にって顔じゃないんだけど」


 ひよりは椅子を引いて腰かけると、机に頬杖をついた。


「最近さ、佐伯、隠し事へたになってない?」


「もともとうまくないけど」


「自覚あるんだ」


 くすっと笑う。


 その笑い方は昨日より柔らかかった。けれど次の言葉には、少しだけためらいがあった。


「榊原さんと、何かあった?」


 直人は一瞬だけ止まった。


 何もない、とは言い切れない。かといって説明できることもない。旧校舎のことは話せないし、話すべきでもないと思う。


「何かってほどじゃない」


「でも、最近ちょっと変だよ。あっちも、佐伯も」


「俺も?」


「うん」


 ひよりは真顔で頷いた。


「佐伯、前ならもっと流してたと思うんだよね。誰かに気にかけられても、ありがとうで終わるっていうか。でも今は、気にしてるじゃん」


 そこまで言われて、直人は返事に詰まった。


 図星だったからだ。


「……そう見える?」


「見える」


 ひよりは即答した。


「悪い意味じゃなくてね。ただ、ちょっとだけ心配」


 その“心配”は、直人の胸の奥に静かに落ちた。


 ひよりの好意は分かりやすい。だからこそ、そこに嘘がないのも伝わる。


「ありがと」


 それが精一杯だった。


 ひよりはしばらく直人を見ていたが、やがて空気を変えるように明るく笑う。


「まあ、深刻な顔されても困るし。今日は放課後、時間ある?」


「今日は特に予定ないけど」


「じゃあ、駅前の文房具屋付き合ってよ。文化祭の買い出し、今度こそ」


「今日なら行けると思う」


「よし、決まり」


 その時だった。


「柊さん」


 またしても、静かな声が会話の隙間に差し込んだ。


 ひよりの肩が、ごくわずかに強張る。


 澪が立っていた。さっきまで席で友人と話していたはずなのに、いつの間にかこちらへ来ている。


「文化祭の買い出しなら、先生が今日の放課後は難しいって言ってました」


「え?」


 ひよりが眉を寄せる。


「備品の申請がまだ通ってないので、先にリストの再提出が必要だそうです。さっき職員室で聞きました」


「……それ、ほんと?」


「はい。委員長の子にも連絡するって話してましたよ」


 ひよりは数秒、何も言わなかった。


 疑うような間ではない。ただ、考えるような間だった。


「そっか。なら、今日は無理か」


「だと思います」


 澪は柔らかく微笑む。


「先に行っても無駄足になりそうなので」


 その言葉の正しさが、ひどく厄介だった。


 直人から見ても、澪の言っていることはたぶん事実なのだろうと思う。実際、こういう連絡の食い違いはよくある。無駄足を避けられるなら助かるのも確かだ。


 なのに、ひよりの表情に浮かんだごく薄い苛立ちが、なぜか直人にも伝染した。


「……榊原さんって、ほんと色々知ってるね」


 ひよりが言う。


 声は明るいが、昨日までより明らかに硬い。


「そうですか?」


「うん。先生の予定も、クラスの予定も、佐伯の予定も」


 そこまで言ってから、ひよりはふっと笑った。


「私より佐伯のこと詳しいかも」


 冗談めかした言い方だった。


 けれど澪はその言葉に少しだけ目を細める。


「そうかもしれません」


 あまりにも静かに、そう返した。


 教室の空気が一瞬止まる。


 ひよりも予想していなかったのか、言葉を失ったように見えた。


 直人も同じだった。


 そんなふうに肯定すると思っていなかった。


 だが澪は、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。


「佐伯くん、自分のことを後回しにしがちなので。見ていないと、すぐ無理をするんです」


 その言い方は、責めるでもなく、ただ困ったものを見るような優しさに満ちていた。


 僕のため。


 言外にそう含まれているのが分かる。


 その瞬間、直人はひよりの顔を見ることができなかった。


 なぜなら、どちらの言い分も否定しきれなかったからだ。


 ひよりは普通だ。おそらく、誰が見てもひよりの反応の方が自然だろう。


 でも澪の行動もまた、全部“直人のため”という形をしている。好意か、親切か、執着か。その境目が曖昧なまま、全部が切りにくい。


 ひよりは数秒黙ったあと、軽く肩をすくめた。


「そっか。じゃあ、私はちょっと委員長に確認してくる」


「うん」


「またあとで、佐伯」


 そう言って立ち上がる。その背中は、いつものひよりより少しだけ早足だった。


 残されたのは直人と澪だけではなかったが、周囲の雑談が遠く感じるくらいには、二人の間の空気が濃かった。


「……言いすぎじゃないか」


 気づけば、直人はそう言っていた。


 澪は少しだけ首を傾げる。


「どれがですか」


「俺のこと、見てないと無理するって」


「違いましたか?」


 直人は答えられない。


 違う、と言い切るのも難しかった。


「でも、ああいう言い方すると」


「柊さんが傷つく?」


 先にそう言われて、直人は口を閉じた。


「……別に、そこまでじゃ」


「ならよかったです」


 澪は穏やかに微笑む。


 その笑みは柔らかいのに、どこか引けないものを含んでいた。


「私は本当のことしか言っていません」


 本当のこと。


 その言葉は強い。


 正論と善意は、たいてい切り返しづらい。ましてそれが自分を気遣う形をしているなら、なおさらだ。


 直人は小さく息を吐いた。


「俺のため、って顔するのずるいよな」


 半分は冗談のつもりだった。


 けれど澪は、その言葉に対して笑わなかった。


 代わりにほんの少しだけ目を伏せて、静かに言う。


「ずるくてもいいんです」


「え」


「佐伯くんのためになるなら、それで」


 その瞬間、直人の心臓が妙に重く鳴った。


 教室のざわめきが遠い。


 昼の光が窓から差し込んで、澪の長い睫毛の影を頬に落としている。その表情は本気なのか、そうではないのか、直人には分からなかった。


 ただ、分からないままに、ひどく惹かれる自分がいた。


 放課後になると、結局文化祭の買い出しは本当に延期になっていた。


 ひよりのところへ委員長からも連絡が来たらしく、昼の件は結果的に澪の言った通りだったことになる。


 だからこそ、余計に厄介だった。


 澪は正しい。ひよりは間違っていた。客観的にはそれだけの話だ。


 けれど感情は、そんな単純には片づかない。


 帰り支度をしている時、ひよりが直人の席まで来た。


「ごめん、昼。なんか変な空気にしちゃって」


「いや」


「榊原さん、たぶん嘘はついてないんだと思う。でも」


 ひよりは少しだけ言葉を探した。


「でも、正しいからって、全部気持ちいいわけじゃないじゃん」


 その言葉に、直人は何も返せなかった。


 それもまた、本当だと思ったからだ。


「……また今度、普通にどっか行こうね」


 ひよりはそう言って笑った。


 普通に。


 その一言が、なぜか今の直人にはやけに遠く感じられた。


「うん」


 短く返すと、ひよりは今度こそ教室を出ていった。


 その背中を見送ったあと、直人はゆっくりと顔を上げる。


 前の席では澪が静かに教科書をしまっていた。視線に気づいたのか、彼女が振り返る。


「帰りますか」


 まるで何事もなかったみたいに言う。


「……帰る」


「途中まで一緒に行ってもいいですか」


 断る理由が思いつかなかった。


 いや、理由がないわけではない。ただ、そのどれもが、彼女の“僕のため”という言葉の前で弱くなる。


「いいけど」


「ありがとうございます」


 澪は微笑む。


 その微笑みはやはり完璧で、教室の誰が見ても感じのいい優等生にしか見えないだろう。


 でも直人はもう知っている。


 その完璧さの奥に、静かで切実な何かがあることを。


 二人で校舎を出て、昇降口を抜け、並んで歩く。


 夕方の風はぬるく、雨上がりの匂いがまだ少し残っていた。校門の前まで来たところで、澪が不意に言う。


「柊さん、優しいですね」


「……そうだな」


「佐伯くんのこと、ちゃんと見ている」


 ひよりと同じことを言っているようで、全然違う響きだった。


「でも」


 澪がそこで言葉を切る。


「私は、もう少しだけよく見ています」


 直人は足を止めかけた。


 だが澪は、そんな反応に構うことなく、まっすぐ前を見たまま歩く。


「だから、分かるんです」


「何が」


「佐伯くんが、誰かに必要だと言われると断れないこと」


 図星だった。


 あまりにも図星すぎて、反射的に否定することもできない。


「……そんなこと」


「ありますよ」


 澪は静かに言い切る。


「だから私は、ちゃんと気をつけて言うようにしてるんです」


 その意味を理解するのに、一秒ほどかかった。


 気をつけて言う。


 つまり、分かった上でやっているのだ。


「お前」


 思わずそう呼びかける。


 だが続きが出ない。


 責めたいのか、怒りたいのか、それともただ確かめたいのか、自分でも分からなかった。


 澪はようやく足を止めて、直人を見上げた。


「嫌でしたか?」


 その問いは、ずるいと思った。


 正直に言えば、嫌ではない。むしろ嬉しい瞬間すらある。だからこそ困るのだ。


 直人が言葉を探していると、澪は少しだけ寂しそうに笑った。


「嫌なら、やめます」


 それもまた、ずるかった。


 ここで本当にやめてほしいと言えるほど、直人は強くなかった。誰かに見られて、気にかけられて、必要そうに扱われることを、もう少し味わっていたいと思ってしまっている。


 その弱さを、たぶん澪は見抜いている。


「……やめろとは言ってない」


 結局、そう答えてしまう。


 澪の目がほんの少しだけ柔らかくなった。


「はい」


 それだけで充分だと言うように、彼女は再び歩き出した。


 直人も遅れて後を追う。


 夕暮れの道路に二人分の影が伸びる。


 誰が見ても、ただ仲のいい同級生が一緒に帰っているようにしか見えないだろう。


 でも実際には、その会話の中には、もう小さな許可が含まれてしまっていた。


 見てもいい。


 気にしてもいい。


 少しだけなら、踏み込んでもいい。


 直人はそれを言葉にはしなかった。


 けれど言葉にしなくても、榊原澪には十分だった。

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