第3話 普通の好意は、少しずつ居場所を失っていく
翌朝、目が覚めた時には、雨は上がっていた。
カーテンの隙間から差し込む光は薄く、晴れとも曇りともつかない色をしている。佐伯直人はしばらく天井を見たまま動かなかった。昨夜は一度眠ったあとで妙に浅い眠りを繰り返し、気づけば何度も目が覚めていた。
理由は分かっている。
考えないようにしても、榊原澪の声が頭のどこかに残っていた。
見てますから。
あの言い方が、ただの気遣いにしては妙に静かで、妙に近かった。
直人は小さく息を吐き、布団から起き上がる。洗面所で顔を洗い、制服に着替え、キッチンへ向かうと、テーブルの上に母の書き置きが置いてあった。
『夜勤明けで少し寝るから、朝ごはん適当に食べてね。ごめんね』
短い一文だった。
いつものことだ。責める気にもならない。むしろ毎回きちんとメモを残してくれるだけ、母はちゃんとしていると思う。
そう思いながら、直人は冷蔵庫から食パンと牛乳を出した。
静かな朝だった。
母は寝室で眠っている。父はいない。テレビもつけず、焼いたパンをそのままかじっていると、自分の咀嚼音だけが妙に響いた。
こんな朝には慣れているはずなのに、今日は少しだけ落ち着かなかった。
たぶん、昨日からずっと、自分の中の静けさに別のものが混ざり始めているせいだ。
学校へ向かう道すがらも、直人はぼんやりそんなことを考えていた。
校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替え、教室へ入る。
「おはよう、佐伯」
声をかけてきたのは男子のクラスメイトだった。直人も軽く手を上げて返す。
その少しあと。
「おはよう、佐伯くん」
聞き慣れ始めた声が、やはり聞こえた。
直人が視線を向けると、榊原澪が自分の席から振り返っていた。朝の光を受けた横顔は、昨日までと何も変わらないように見える。綺麗で、落ち着いていて、整いすぎているくらい整っている。
「……おはよう」
返しながら、直人はほんの一瞬だけ考える。
自分は、もうこのやり取りを待っているのかもしれない。
そう思ってしまったことに、少しだけ戸惑った。
席に着いて教科書を出していると、ひよりがこちらへ歩いてきた。
「佐伯、おはよ」
「おはよう」
「今日さ、昼休みちょっと付き合ってくれない?」
「何に」
「文化祭の係の件。昨日の買い出し、別日になりそうだから相談したい」
「俺に?」
「ほかに誰にするの」
ひよりはそう言って笑う。明るくて、分かりやすくて、どこか安心する笑い方だ。直人もつられて少しだけ口元を緩めた。
「分かった。昼な」
「よし、決まり」
そのやり取りを終えた瞬間、教室の前方から静かな声が飛んできた。
「柊さん、文化祭の係って、展示の方ですか?」
榊原だった。
自然な声量、自然な表情。会話の流れを切るほどではない、ちょうどいい距離感で入ってくる。
「え、うん。そうだけど」
「たしか先生、今日の昼に一度集まるって言ってませんでしたっけ」
「え、今日?」
「昨日の帰り際に、委員の人と話していたのを聞いたので」
ひよりが「あー……」と曖昧な声を出す。
「それなら先にそっち行かなきゃか」
「たぶん、その方が早いと思います」
「そっか。じゃ、佐伯、またあとでいい?」
「ああ、別に」
「ごめんね、急に声かけたのに」
「いいよ」
ひよりはそう言って自分の席へ戻った。
直人は何も言えなかった。
別におかしなことは何もない。榊原の言っていることはたぶん正しいし、文化祭準備の話なら先に全体の集まりがある方が自然だ。
なのに、会話が始まりかけたところへ、あまりにも綺麗に差し込まれた気がした。
ふと顔を上げると、榊原がこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
それは「助かりましたよね」とでも言いたげな、穏やかな笑みだった。
直人は曖昧に視線を外す。
何だろう、と自分でも思う。
助かったのかもしれない。けれど、少しだけ別の感情も残る。その正体を、まだうまく言葉にできない。
一時間目、二時間目と授業が進み、昼休みになった。
ひよりは本当に文化祭係の方へ呼ばれていったらしく、教室にはいなかった。直人は昨日と同じように購買でパンを買い、自分の席に戻る。
ひとりで袋を開けたところで、前の席が静かに動いた。
「今日も一人なんですね」
榊原が振り返っていた。
「まあ、いつも通り」
「少しだけ、安心しました」
「何で」
「昨日、柊さんと楽しそうに話していたので」
言い方は柔らかい。けれど意味だけ拾うと、少しだけ妙だ。
「別に、普通に話してただけだろ」
「そうですね」
榊原は素直に頷いた。
「でも、普通に話せる相手がいるのはいいことだと思います」
「他人事みたいだな」
「他人事ですよ」
そう言って、榊原は少しだけ笑う。
その会話の途中で、教室の扉が勢いよく開いた。
「佐伯先輩、いた」
元気な声と一緒に入ってきたのは、七瀬乃愛だった。
一年の教室は階が違うはずだが、そんなことはまるで気にしていない様子で、乃愛は真っ直ぐ直人の席までやって来る。
「昨日、ちゃんとお礼言えてなかったので」
「お礼?」
「貸出票のことです。榊原先輩に教えてもらって助かりました」
「ああ」
「でも、最初に聞こうと思ったのは佐伯先輩だったので」
にこっと笑う。
直人は少しだけ困った。こういうまっすぐな好意は、受ける側の姿勢まで試されるようで苦手だ。変に突き放すのも違うし、気を持たせるような返しもしたくない。
「解決したならよかった」
「はい。あと、これ」
乃愛が差し出してきたのは、小さな紙袋だった。
「昨日のお礼です。お菓子、だめですか?」
「いや、別にだめじゃないけど」
「じゃあ受け取ってください」
直人が戸惑いながら受け取ると、乃愛はぱっと顔を明るくした。
「よかった。先輩って断りそうだったので」
「そこまで警戒されるようなことした覚えないけど」
「でも、優しい人ってたまに距離あるじゃないですか」
その言葉に、直人は少しだけ返事に詰まる。
距離がある。
たしかに自分はそう見えるのかもしれない。人を避けているつもりはないが、自分から深く踏み込むことも少ない。
乃愛はそんなことには気づいていないのか、気づいていても気にしていないのか、そのままにこにこと続けた。
「今度また分からないことあったら聞いてもいいですか?」
「分かる範囲なら」
「やった」
その瞬間だった。
「七瀬さん」
静かな声が、直人の斜め前から届く。
榊原がこちらを向いていた。
「昼休み、もうすぐ終わりますよ。教室に戻らなくて大丈夫ですか?」
「あっ」
乃愛が慌てて時計を見る。
「ほんとだ。やばい」
「先生、時間には厳しいですから」
「そうでした……」
乃愛はあたふたと鞄を抱え直し、それでも最後に直人の方を見た。
「じゃ、佐伯先輩、また」
「ああ」
「お菓子、食べてくださいね」
そう言って走るように教室を出ていく。
扉が閉まったあと、一瞬だけ静かになった。
直人が紙袋を見下ろしていると、榊原が何気ない調子で言う。
「後輩に懐かれやすいんですね」
「そうか?」
「ええ。ああいう子、距離が近いので」
それだけ言って、榊原は前を向く。
会話は終わった、という背中だった。
だが、直人にはその一言だけが妙に残った。
距離が近い。
どこか評価の響きを含んだ言葉だった。
五時間目の授業中、直人は珍しく集中が散った。
先生の板書を書き写しながらも、頭の中ではさっきの昼休みが何度か繰り返されていた。
乃愛の無邪気な近さ。
榊原の、あまりに自然な差し込み方。
そしてひよりとの会話が、朝の時点で既に微妙にずらされていたこと。
偶然と言えば偶然で済む。全部そう言ってしまえば、それまでだ。
でももし偶然じゃなかったら。
そこまで考えて、直人はすぐに自分の思考を打ち切った。
考えすぎだ、と思ったからだ。
誰かが自分の周囲の会話や予定をそこまで意識しているなんて、自意識過剰にもほどがある。榊原はただ、よく気がついて、記憶力がよくて、親切なだけなのかもしれない。
たぶん、そっちの方が普通だ。
放課後。
教室を出ると、廊下の向こうからひよりが小走りでやってきた。
「佐伯、いた」
「どうした」
「昼、結局ばたついて話せなかったから。今ちょっといい?」
「いいけど」
ひよりは少しだけ息を整えてから、紙を一枚取り出した。文化祭係の買い出し候補日らしい。
「水曜じゃなくて金曜になりそうなんだけど、佐伯、その日空いてる?」
「金曜……」
直人が記憶を探ろうとした、その時。
「金曜は地域清掃の残り当番、入ってませんでしたか?」
振り向かなくても、誰の声か分かった。
榊原だ。
今日は本当に、毎回のようにタイミングが重なる。
「え」
ひよりが一瞬だけ眉を寄せた。
「また?」
「先週、先生が決めてたと思います」
榊原はすぐ近くまで来ていた。手には学級日誌。どうやら提出のついでらしい。そう思える程度には、状況に理由がある。
「佐伯くん、掃除用具庫の鍵、預かってましたよね」
「……あ」
それは覚えていた。
机の中を探ると、小さな鍵が出てくる。本当に自分が持っていた。
「まじか」
ひよりが鍵を見て、露骨ではないが少しだけ複雑な顔になる。
「ごめん、佐伯。何か最近タイミング悪いね」
「いや、俺が覚えてないのが悪い」
「でも普通そこまで覚えてなくない?」
ひよりは半分笑うように言ったが、その視線は一瞬だけ榊原に向いていた。
榊原は変わらず穏やかだ。
「クラスの予定、見るの好きなんです」
「へえ」
ひよりはそう返したものの、納得しているようには見えなかった。
「じゃ、また別の日探すわ」
「悪い」
「いいって。佐伯、そういうとこ真面目だし」
そう言ってひよりは紙を折りたたむ。帰ろうとするその足が、ほんの少しだけ止まった。
「榊原さん」
「はい?」
「前からそんなに佐伯の予定把握してたっけ」
空気が、わずかに止まった。
ひよりの声は喧嘩腰ではなかった。本当に何気ない確認のような調子だった。けれど、そこには確かに引っかかりが混ざっていた。
直人も思わず二人の顔を見た。
榊原は一拍置いて、きれいに微笑んだ。
「たまたま、目につくだけですよ」
「ふうん」
「佐伯くん、自分の予定を忘れがちなので」
その言い方は冗談めいていた。実際、今日だけでも二度、自分は忘れていた予定を榊原に指摘されている。
だから否定しづらい。
ひよりは「そっか」とだけ返し、それ以上は何も言わなかった。
「じゃ、また明日」
そう言って去っていく背中は、いつもより少しだけ硬かった。
残された直人は、何とも言えない気分で立ち尽くす。
ひよりの問い方は、たぶん間違っていない。いや、少なくとも自分もどこかで同じことを思っていた。
前からそんなに見てたっけ。
榊原はそんな直人を見て、静かに言った。
「困らせましたか?」
「……いや」
「柊さん、少し勘がいいみたいですね」
その言い方に、直人は引っかかった。
「何が」
「なんでもありません」
榊原はすぐに首を振る。
「ただ、気にしなくて大丈夫です」
「気にしなくていいって言われると逆に気になるんだけど」
半分冗談のつもりだった。
なのに榊原は、その言葉に小さく目を細める。
「じゃあ、少しだけ本当のことを言います」
「本当のこと?」
「私は」
廊下にはもうほとんど人がいなかった。窓の外は夕方の薄い光に変わり始めていて、教室から漏れる声も遠い。
その静かな場所で、榊原はあまりにも穏やかな顔のまま言った。
「佐伯くんのこと、少しよく見てると思います」
直人は言葉を失った。
否定されると思っていたからだ。たまたまだとか、偶然だとか、そういう無難な説明が返ってくるものだと。
でも彼女はあっさり認めた。
「……どうして」
ようやく出た問いに、榊原は少しだけ視線を伏せる。
「気になるから、です」
その答え方に、心臓がまた一つ大きく跳ねた。
昨日、旧校舎で自分が言った言葉と、よく似ていたからだ。
見つけたのに放って帰ったら、後悔するから。
気になるから。
それは理由のようでいて、理由になっていない曖昧な言葉だった。なのに、曖昧だからこそ、逃げ道がない。
榊原はそれ以上何も言わなかった。
「それじゃ、また明日」
静かにそう告げて、彼女は先に歩き出す。
直人はその場に取り残されたまま、しばらく動けなかった。
気になるから。
その一言は、ひよりの明るい好意とも、乃愛の無邪気な懐き方とも違う重さを持っていた。
ひよりは分かりやすい。
乃愛はまっすぐだ。
けれど榊原だけは、何を考えているのか分かりそうで分からない。近いのに、近すぎる気がして、でも嫌ではない。
むしろ、少しだけ心地よいとすら思ってしまう自分がいた。
そのことに気づいた時、直人はようやく、自分もまた少しずつ何かを許し始めているのだと知った。
誰かに見られていること。
誰かに気にかけられていること。
そしてその相手が、榊原澪であることを。
家に帰った夜、母はまだ仕事から戻っていなかった。
静かな部屋で制服を脱ぎ、机の上に置いた紙袋を眺める。乃愛にもらったお菓子だ。
開ける前に、ふと手が止まる。
榊原なら、これを見たらどんな顔をするだろう。
そんなことを考えてしまった自分に、直人は思わず苦笑した。
重症かもしれない、と思う。
まだ何も始まっていないはずなのに。
ただ、少しずつ日常に入り込まれているだけだ。
それだけのはずなのに、榊原澪という存在は、もう確実に直人の中で“普通のクラスメイト”ではなくなっていた。
そしてその頃、別の場所では。
自室でスマホを見下ろしていたひよりが、昼間のやり取りを思い出して小さく眉をひそめていた。
前からそんなに佐伯の予定把握してたっけ。
たまたま目につくだけ。
その返しは綺麗すぎて、逆に引っかかった。
「……なんか、やだな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
まだ確信はない。
でも、あの完璧美少女の笑顔の奥に、ほんの少しだけ冷たいものがある気がしてならなかった。
そしてその違和感は、たぶんこれからもっとはっきりした形を持ち始める。




