第2話 完璧美少女は、静かに日常へ入り込む
翌朝、教室に入った瞬間、佐伯直人はわずかに足を止めた。
理由はすぐに分かった。
「おはよう、佐伯くん」
窓際の前から二列目。自分の席に鞄を置いたばかりの榊原澪が、いつも通りの綺麗な笑みでそう言ったからだ。
自然な声だった。
あまりにも自然すぎて、一瞬だけ、昨日の旧校舎での出来事の方が夢だったのではないかと思うほどに。
「……おはよう」
直人は少し遅れて返し、自分の席に向かった。
それだけだった。
それだけなのに、心のどこかが妙に落ち着かなかった。
昨日、自分だけが見たはずの榊原澪の顔と、今教室で誰に見られても問題のない完璧な榊原澪。その落差が大きすぎて、うまく同じ人物だと認識しきれない。
クラスメイトたちは当然、そんなことは知らない。
いつも通り、朝の雑談に花を咲かせている。男子はスマホで動画を回し見し、女子は髪型や昨日のテレビの話で盛り上がっていた。その中心とまではいかなくても、榊原はどの輪の中にいてもまったく不自然ではない存在だった。
誰と話していても感じがいい。
笑う時も大きすぎず、聞き役に回る時も押しつけがましくない。いて当然みたいにそこにいて、なのに少しだけ目を引く。
やっぱり、完璧だ。
昨日の踊り場の光景を知っている今でも、そう思う。
「佐伯、珍しく固まってない?」
背後から声をかけられて振り向くと、クラスメイトの男子が笑っていた。
「寝不足?」
「いや、別に」
「顔、ぼんやりしてるぞ」
「朝から元気だな、お前」
適当に返して席に座る。
その会話の最中、ふと横から視線を感じた。
見ると、榊原が一瞬だけこちらを見ていた。目が合うと、彼女は何事もなかったように視線を外し、隣席の女子の話に戻る。
ただそれだけ。
ただそれだけなのに、見られていたという感覚だけが妙に残った。
朝のホームルームが始まり、一時間目、二時間目と授業はいつも通り進んでいく。
直人は自分でも少し変だと思っていた。
やたらと前の席が視界に入るのだ。
もちろん榊原の席が前方にある以上、見えること自体は不自然ではない。だが、視界に入るたびに、昨日のあの掠れた声や、小さく震える肩が脳裏に浮かぶ。
誰にも見せない顔を知ってしまったせいで、普段の微笑みまで違う意味を持って見える。
知らなければ、気にも留めなかったはずなのに。
三時間目が終わった休み時間、直人は机に突っ伏すほどではないものの、軽く目を閉じて息を吐いた。
昨夜は少し寝つきが悪かった。
母から帰宅が遅くなると連絡が来ていた通り、家に戻ってからもしばらく一人だった。夕飯を適当に済ませ、風呂に入り、明日の準備をしてベッドに入ったのに、眠る直前になって旧校舎の階段が頭に浮かんだ。
壊れたみたいに息をする榊原澪。
それでも泣きもせず、誰にも助けを求めなかった榊原澪。
そして、自分だけに向けられた、あの少しだけ本物の笑み。
気にならない方がおかしいのかもしれない。
「佐伯くん」
不意に、静かな声がした。
顔を上げると、榊原が自分の机の横に立っていた。
「これ、よかったら」
机の上に置かれたのは、小さな紙パックのカフェオレだった。
「……え」
「少し顔色が悪いので」
榊原はあくまで穏やかだった。周囲に聞こえてもおかしくない声音で、けれど押しつけがましさがまるでない。
「別にそこまでじゃ」
「そうですか?」
首をわずかに傾げる。
「いつもより瞬きが少ないですし、朝から少しぼんやりしてたので。違ったなら、すみません」
直人は言葉に詰まった。
そこまで見ていたのか、と思ったからだ。
「……いや、ありがと」
「よかった」
榊原はそれだけ言って、自分の席へ戻っていく。
教室の何人かがその様子に気づいていたらしく、すぐ近くの男子が小さく「お、佐伯よかったな」とからかうように囁いてきた。
「榊原さん、優し」
「そうだな」
曖昧に返しながら、直人は机の上の紙パックを見た。
冷たい水滴が表面についている。
たぶん購買で買ってきたのだろう。そこまで珍しいことではない。体調の悪そうなクラスメイトに飲み物を渡すくらい、榊原なら自然にやるのかもしれない。
それでも、少しだけ妙だった。
まるで、ちゃんと見ていた人間にしかできないタイミングだったからだ。
昼休み。
直人が購買で買ったパンを持って席に戻ると、珍しく先客がいた。
「佐伯、ここ座ってもいい?」
柊ひよりだった。
肩につくくらいの明るい髪を耳にかけながら、ひよりはパンの袋をひらひらと振る。気さくで、クラスでも話しやすい部類の女子だ。誰とでもそこそこ距離が近いが、馴れ馴れしいわけではない。
「別にいいけど」
「やった。今日はみんな移動してて、一人で食べるのも微妙だったんだよね」
そう言って、ひよりは斜め前の空いた席を引いて座った。
「佐伯って、いつも一人で食べてるよね」
「そうだっけ」
「そうだよ。なんか一人が似合いすぎてて逆に話しかけづらい」
「どういう意味だよ」
「褒めてる褒めてる」
たぶん褒めてはいない。
そんな軽いやり取りをしながら、直人は少し肩の力が抜けるのを感じていた。ひよりの会話は気楽だ。どこまでいっても普通で、変に踏み込まない。だから気を遣いすぎずに済む。
「そういえばさ、今度の文化祭準備の買い出し、男子手足りないらしいんだけど」
「また急だな」
「でしょ。佐伯、手伝ってくれたりしない?」
パンの袋を開けながら、ひよりが気軽に聞いてくる。
「放課後?」
「うん。たしか水曜」
「水曜か……」
記憶をたぐろうとした時だった。
「その日、佐伯くんは図書当番だったと思います」
静かな声が会話の間に滑り込んできた。
直人が顔を上げると、そこには榊原がいた。手には購買のサンドイッチと、紙パックの紅茶。いつもの柔らかい表情で、ひよりの方を見ている。
「柊さん、買い出しって水曜の放課後ですよね」
「え、あ、うん。たしかそうだけど」
「図書当番表、先週出てましたよ。佐伯くん、今月は水曜に一回入ってたはずです」
「……あ」
言われてみればそんな気がする。
直人はスマホでクラスの連絡アプリを開き、図書委員の当番表を確認した。本当に水曜だった。
「まじだ」
「ほんとだ」
ひよりも少し驚いた顔をする。
「よく覚えてるね、榊原さん」
「たまたま見たので」
榊原はさらりと答えた。
「だったら別の日の人探さなきゃか。ごめん、佐伯」
「いや、別に」
そこまで言ってから、直人はふと思った。
自分でも忘れていた予定を、榊原は覚えていた。
いや、ただ記憶力がいいだけかもしれない。榊原はそういう人間だ。クラスの連絡事項なんかもきちんと把握しているだろうし、不自然というほどではない。
そう思う一方で、昨日のことを知っている今では、その“きちんと”が少しだけ重く感じられた。
「邪魔しました」
榊原はひよりに向かってそう言い、わずかに微笑む。
「いえいえ、助かった。忘れてたし」
「よかったです」
それだけ交わして、榊原は自分の席に戻っていった。
ひよりはその背中を見送りながら、小さく「へえ」と呟いた。
「何が」
「いや、榊原さんって、ああいうとこ本当すごいなって」
「真面目だよな」
「真面目っていうか……」
そこまで言って、ひよりは少し考えるように眉を寄せた。
「なんか、よく見てるよね」
「そうか?」
「うーん。まあ、気のせいかも」
パンを一口かじって、ひよりはすぐにいつもの調子に戻った。
「でも佐伯、図書当番とかちゃんと覚えときなよ。使えないなあ」
「人に頼んどいてそれ言うのか」
「言う」
昼休みはそのまま終わった。
だが、ひよりの「よく見てるよね」という何気ない一言は、直人の中に少しだけ残った。
放課後。
最後の授業が終わり、教室が一気にざわつき出す。部活へ向かう者、友人同士で遊びの約束をする者、帰り支度を急ぐ者。いつもの放課後の光景だ。
直人も鞄に教科書をしまい、帰る準備を整える。
「佐伯先輩」
呼び止められて振り向くと、見慣れない顔の女子が立っていた。一年生だろうか。リボンの色が違う。小柄で、表情がころころ変わりそうな明るい顔立ちをしている。
「……俺?」
「はい。図書室のことで聞きたいことがあって」
首を傾げると、彼女は慌てて言い足した。
「この前、先生に聞いたら、佐伯先輩が詳しいって」
「ああ」
それでようやく思い出した。図書室の貸出票の整理を手伝った時、一年の委員が何人かいた。その中の一人かもしれない。
「今、大丈夫ですか?」
「少しなら」
「ほんとですか。助かります」
その“助かります”という言葉に、直人は条件反射みたいに頷いていた。
「じゃあ、歩きながらでも」
「ありがとうございます」
女子――七瀬乃愛と名乗ったその後輩は、ぱっと表情を明るくした。
その時だ。
「七瀬さん」
静かな声が斜め後ろから差した。
振り返ると、そこにはまた榊原がいた。
今日はやけに遭遇するな、と思う。いや、同じクラスなのだから珍しくはないのかもしれないが、それでも少し多い気がした。
「榊原先輩」
乃愛がぺこりと頭を下げる。
「図書のことなら、私でも分かるかもしれません。どの件ですか?」
「え、あの、貸出票の……」
「ああ、それなら提出期限の話ですよね」
榊原はすぐに内容を言い当てた。
「今日、先生が職員室で同じことを話していたので」
「はい、たぶんそれです」
「それなら今ここで説明できますよ」
乃愛は一瞬だけ直人を見た。
助けを求めるような、でも遠慮も混ざった視線だった。
直人が何か言う前に、榊原が柔らかく続ける。
「佐伯くん、今日少し疲れてますよね。七瀬さんの件、急ぎじゃないなら私から伝えておきます」
「……俺?」
「顔色、あまりよくないです」
そんなに悪いだろうかと思ったが、昼にも同じようなことを言われたばかりだ。
「急ぎじゃないなら、それで大丈夫です」
乃愛は慌ててそう答えた。
「すみません、佐伯先輩」
「いや、別に謝るほどじゃ」
「じゃあ、七瀬さん。私、途中まで一緒に行きます」
「ありがとうございます、榊原先輩」
二人はそのまま教室を出ていく。
直人はしばらく、閉まりかけた扉をぼんやり見ていた。
たしかに助かったのかもしれない。
わざわざ後輩の質問に付き合わなくて済んだし、家に早く帰れる。疲れていると言われれば、昨日の寝不足のせいで本調子ではない自覚もある。
なのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
自分がやるはずだったことを、先回りで引き取られたような感覚。
しかもそれが、こちらのためを思って行われたことが分かるから、余計に何も言えない。
「……佐伯」
また呼ばれて振り向くと、ひよりが鞄を肩にかけながら立っていた。
「いまの、見てた?」
「まあ」
「榊原さん、すごいね」
「さっきも同じこと言ってなかったか」
「いや、なんていうか」
ひよりは少しだけ言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「親切なんだけどさ。ちょっとだけ、反応早くない?」
「そうか?」
「うーん……そう見えただけかも。ごめん、変なこと言った」
そう言ってひよりは笑ったが、その笑い方は少しだけ引っかかりを残していた。
「じゃ、また明日」
「ああ、また」
ひよりが去ったあと、直人はようやく教室を出た。
昇降口に向かう途中、廊下の窓からグラウンドが見える。空はまだ曇っているが、昨日ほどの雨ではない。薄暗い雲の下を、部活帰りの生徒たちが走っていく。
下駄箱で靴を履き替え、校門へ向かおうとした時だった。
「佐伯くん」
聞き慣れ始めた声に振り返る。
榊原澪が立っていた。
「七瀬さんの件、伝えておきました」
「……わざわざありがとう」
「いいえ」
彼女は少しだけ首を傾げる。
「まだ少し顔色が悪いですね」
「そんなに分かる?」
昼にも同じことを聞いた気がした。
だが今回は、前よりずっと自然に口から出ていた。
榊原は少しだけ目を細めて、いつもの綺麗な微笑みを浮かべる。
「分かります」
短く、それだけ言う。
「見てますから」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
あまりに自然な声音だったからだ。
まるで、当たり前のことを当たり前に告げただけのような口調で、榊原はそう言った。
見てますから。
その言葉だけが妙に耳に残る。
怖い、とは思わなかった。
ただ、少しだけ心臓が跳ねた。
「……そっか」
結局、そんな曖昧な返事しかできない。
榊原はそれで充分だと言うように、小さく頷いた。
「今日は、早く休んでください」
「分かった」
「はい。また明日」
彼女はそう言って、先に校門の方へ歩いていく。
背筋の伸びた後ろ姿。誰が見ても、感じのいい優等生。きっと今の会話を誰かが聞いていても、気遣いのできる親切な女子生徒としか思わないだろう。
実際、たぶんそれは間違っていない。
榊原澪は親切だ。
よく気がつくし、優しい。
それは本当なのだと思う。
けれど、その親切がなぜか自分にばかり向くことに、直人はまだ慣れていなかった。
帰り道、直人はコンビニで夕飯を買ってから家に戻った。
母はまだ帰っていない。静かな玄関で電気をつけ、いつものように制服を脱ぎ、冷蔵庫に飲み物を入れる。見慣れたはずの一人きりの空間なのに、今日は妙に静けさが濃かった。
買ってきた弁当を電子レンジに入れながら、ふと思い出す。
昼休みに置かれたカフェオレ。
図書当番のことを覚えていたこと。
後輩との会話に、あまりに自然に割って入ったこと。
そして最後の、あの一言。
見てますから。
直人はレンジの回転音を聞きながら、キッチンの壁にもたれた。
昨日、旧校舎で壊れかけていた榊原澪。
今日、教室で完璧に笑っていた榊原澪。
その二つの姿が、頭の中でうまく重ならない。
けれど確かなのは、昨日を境に、彼女が自分の中でただのクラスメイトではなくなってしまったということだ。
秘密を共有したからか。
それとも、自分だけが見た顔があるからか。
理由はまだ分からない。
分からないまま、直人は少しずつ、榊原澪の存在を意識し始めていた。
そしてその頃。
直人がいない教室で、ひよりは帰り支度をしながら、何気ないふうを装って友人に言っていた。
「ねえ。榊原さんってさ、前からあんなに佐伯のこと見てたっけ」
友人は「え?」と首を傾げる。
ひよりは自分でも何が引っかかったのか上手く説明できないまま、「いや、なんでもない」と笑って話を切った。
まだ、確信はない。
ただ、ほんの少しだけ。
四月でも五月でもなく、こんなふうに雨の残る季節になってから急に、教室の空気の流れが変わったような気がした。
その中心にいるのが、たぶん。
誰より完璧な顔で微笑む、榊原澪なのだと。
まだ誰も、はっきりとは気づいていない。




