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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 翡翠


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第1話 クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる



 雨の日は、世界の輪郭が少しだけ曖昧になる。


 窓を打つ雨音を聞きながら、佐伯直人はそんなことをぼんやり思った。


 六限目の終わりを告げるチャイムが鳴っても、教室の空気は重かった。梅雨入りしたばかりの湿気が校舎全体にまとわりついていて、誰もが少しだけ気怠そうに見える。担任が明日の連絡事項を板書している間も、クラスメイトたちは早く帰りたいとでも言いたげに、鞄の中身を整理したり、スマホを覗いたりしていた。


 直人も同じだった。


 今日は母親から、夜勤で帰りが遅くなると昼のうちにメッセージが来ている。父は相変わらず単身赴任先だ。急いで帰る理由があるわけではないが、だからこそ、こういう雨の日の放課後は少しだけ苦手だった。


 どこへ帰っても静かすぎる気がするからだ。


「じゃあ、日直。号令」


 担任の声に、教室の空気が少しだけ動く。


「起立、礼」


 ざわめきと椅子の音が重なって、一日の終わりが始まった。


 直人は机の横に掛けていた鞄を持ち上げ、教科書をしまいかけて、ふと手を止めた。


「あ……」


 現代文のノートがない。


 机の中も鞄の中も見たが、見当たらない。記憶をたどると、昼休みに移動教室で使ったまま、旧校舎側の空き教室に置き忘れた気がした。


 小さく息をついて、直人は鞄を肩に掛け直した。


 別に明日でもいいかと思ったが、そういうのを後回しにすると、たいてい面倒になる。昔からそういう性格だった。大きなことではないからこそ、その場で片づけた方が落ち着く。


 外は本降りだった。


 クラスメイトたちが「最悪」「傘持ってきた?」などと騒ぎながら教室を出ていく中、直人は一人、旧校舎へ続く渡り廊下へ向かった。


 現校舎と違って、旧校舎は放課後になると急に人気がなくなる。


 文化祭前でもなければ使う教室は限られているし、部活の掛け声や雑音も届きにくい。古い窓枠を打つ雨音ばかりが妙に大きく響いて、歩いているだけで、自分だけが取り残されたような気分になる。


 直人は空き教室に入って、無事にノートを回収した。


 これで帰れる。


 そう思って教室を出た時、かすかな音が耳に入った。


 最初は雨音に紛れて、よく分からなかった。


 でも、ただの空耳ではないとすぐに分かった。喉の奥で押し殺したような、浅く不規則な呼吸音。人がいるのだと気づいて、直人は足を止めた。


 音は、階段の踊り場の方から聞こえる。


 躊躇は数秒だった。


 別に、自分が行く必要はない。先生を呼べば済むのかもしれない。そう考えながらも、直人は結局、階段の方へ向かっていた。


 覗き込むようにして見下ろした踊り場に、人影があった。


 女子生徒だった。


 膝を抱えるようにして壁際に座り込み、俯いたまま肩を小さく震わせている。長い黒髪が顔を隠していて、最初は誰か分からなかった。


 だが、その制服の着こなしと、横顔の線の細さで、すぐに気づく。


 榊原澪。


 クラスの誰もが知っている名前だった。


 成績優秀、容姿端麗、物腰柔らか。教師からの信頼も厚く、女子からも男子からも評判がいい。いわゆる完璧美少女という言葉が、いちばん似合う人間。


 少なくとも、直人はそう思っていた。


 その榊原が、いま、壊れかけたみたいな呼吸をしている。


 直人は一段上で足を止めた。


 駆け寄るべきか迷ったが、そこでようやく、榊原の様子の異常さに気づいた。


 苦しそうなのは確かだった。


 けれどそれ以上に、見られたくなさそうだった。


 人に助けを求める顔ではない。むしろ逆だ。誰にも見つかりたくなくて、でも一人ではどうにもできなくて、追い詰められた末にここに逃げ込んできたような、そんな顔だった。


 直人はほんの少し息を吸って、できるだけ静かな声を出した。


「……榊原」


 びくり、と彼女の肩が揺れた。


 ゆっくりと顔が上がる。


 整った顔立ちはいつもと変わらないはずなのに、その表情だけがまるで別人だった。目の奥に浮かんだのは安堵ではなく、明らかな怯えだった。


 その顔を見た瞬間、直人は確信した。


 ああ、この人はいま、助けより先に、見られたことを怖がっている。


「先生、呼ばない」


 だから最初にそう言った。


 榊原は何も返さなかった。ただ、わずかに目を見開いて、直人を見上げる。


「呼ばないから」


 直人は階段を降りず、一段上に立ったまま続けた。


「そんなに警戒しなくていい」


「……して、ません」


 掠れた声だった。否定の形だけは保っているのに、まるで説得力がない。


 直人は無理にそれ以上踏み込まなかった。鞄を下ろし、中から飲みかけではないペットボトルの水を取り出して、踊り場の端にそっと置く。


「そこに置く」


「……」


「飲めそうなら、飲んで」


 雨音だけが二人の間に落ちる。


 静かだった。静かすぎて、相手の呼吸の乱れが余計に耳につくくらいだった。


 直人は迷った。


 ここで去るべきか、それとも残るべきか。


 正解は分からない。ただ、見つけた以上、このまま何もせずに背を向けたら、たぶん帰ってからずっと引っかかるだろうということだけは分かった。


 そういう性格なのだと、自分でも思う。


「話したくないなら、話さなくていい」


 榊原の睫毛が小さく揺れる。


「ひとりがいいなら、行くけど」


 少しだけ間を置いて、直人は言った。


「落ち着くまで、ここにいることもできる」


 長い沈黙のあと、榊原が小さく口を開いた。


「……どうして」


「何が」


「どうして、見なかったことにしてくれないんですか」


 責めるような声音ではなかった。


 むしろ、その逆だった。お願いだから、これ以上自分を見ないでほしい。それなのに、本当は完全に一人にされるのも怖い。そんな矛盾を含んだ、ひどく弱い声だった。


 直人は少しだけ考えて、正直に答えることにした。


「見つけたのに、そのまま帰ったら」


 一度言葉を切る。


「たぶん、後悔するから」


 榊原が目を瞬く。


「……優しいんですね」


「違う」


 直人はすぐに否定した。


「そういうのじゃなくて、たぶん自分が嫌なだけ」


 本当にそうだった。


 困っている人を放っておけない、なんて立派な話ではない。誰かの異変に気づいてしまった後で、見て見ぬふりをすると、あとで自分の中に鈍い棘が残る。それが嫌なだけだ。


 たぶん昔から、自分はそういう人間だった。


 母に迷惑をかけないように、父に余計なことを言わせないように。誰かの負担を増やさないことばかり気にして生きてきたから、目の前の綻びを無視するのが苦手なのかもしれない。


 榊原は、そんな直人を見上げたまま、何も言わなかった。


 だが、その目からさっきまでの露骨な怯えが少しだけ薄れていることに、直人は気づいた。


「榊原が、見られたくないのは分かる」


 静かに言う。


「だから、聞かない。言いたくないことまで聞くつもりないし、先生も呼ばない」


「……」


「でも、ひとりで無理そうなら、ここにいる」


 また沈黙が落ちる。


 やがて、榊原はそっと水に手を伸ばした。細い指先がペットボトルを掴む。その動きだけで、少しだけ呼吸が整ってきたのだと分かった。


 直人はようやく、張っていた息をわずかに吐き出した。


 榊原がペットボトルの蓋を開ける。口をつけるまでに少し時間がかかったが、二口ほど飲んだところで、彼女の肩からほんの少しだけ力が抜けた。


「……すみません」


 消え入りそうな声だった。


「別に」


「こんなところ、見せるつもりじゃ」


 そこまで言って、榊原は自分の言葉を飲み込んだ。見せるつもりじゃなかった、ということは、見せてしまったという認識があるということだ。


 直人は目を逸らした。見ていないふりではなく、見すぎないために。


「見てないことにはできないけど」


 そう前置きしてから言う。


「見たことを、誰かに言うつもりもない」


 榊原はしばらく何も言わなかった。


 だが、そのあとでぽつりと、信じられないものでも見るような声音で言った。


「……どうして、そんなふうに言えるんですか」


「そんなふうって?」


「普通は、もっと……心配するとか、何があったのか聞くとか、そういうことをするでしょう」


「かもね」


「なのに、佐伯くんは聞かないんですね」


 名前を呼ばれたことに、直人は少しだけ驚いた。


 クラスメイトとして認識されているのは当然でも、こうして個人的な温度を含んだ声で呼ばれるのは、初めてだった。


「聞かれたくなさそうだったから」


 直人がそう返すと、榊原はまた目を見開いた。


 その反応を見て、言ってから少しだけ後悔する。踏み込みすぎたかもしれない。けれど、榊原は怒らなかった。


 代わりに、ひどく静かな顔で直人を見た。


 雨音が二人の間を満たしていく。


 その時間は長かったようにも、短かったようにも思えた。


 やがて榊原は、小さく息を吐いてから、かすかに口元を緩めた。


「……変な人ですね、佐伯くん」


「よく言われる」


 本当はそんなに言われたことはない。だが、そう返すと、榊原は少しだけ、ほんの少しだけ笑った。


 教室で見せる、非の打ち所のない綺麗な笑顔ではない。


 壊れかけたまま、どうにか形を保っているような、不安定で、でも確かに本物の笑い方だった。


 その顔を見た瞬間、直人の胸の奥が妙にざわついた。


 こんな表情を、この人がするのかと思った。


 完璧美少女、榊原澪。


 誰にでも優しくて、いつも落ち着いていて、隙なんてどこにもないと思っていた彼女が、こんなふうに誰にも見せられない顔をしている。


 それを、自分だけが知ってしまった。


 その事実が、なぜだか少しだけ重かった。


「もう少ししたら帰れる?」


 直人が聞くと、榊原は小さく頷いた。


「……はい。たぶん」


「そっか」


「佐伯くんは、帰らなくていいんですか」


「帰るよ。ただ、榊原が立てるくらいになってからでいいかなって」


「……どうして」


 また同じことを聞かれて、直人は少し困った。


「気になるから」


 それがいちばん近い答えだった。


 榊原はその言葉を聞いて、すぐには何も返さなかった。ただ、ペットボトルを握る指先に少しだけ力が入ったように見えた。


 やがて、彼女は視線を落としたまま、小さな声で言う。


「そういうところだと思います」


「何が」


「……佐伯くんが、変な人なところです」


 直人は意味が分からず、曖昧に笑った。


 それ以上は何も聞かなかった。榊原も語らなかった。


 けれど、それでよかったのだと思う。


 何も聞かないことが、いまの彼女にとっていちばん必要なことのような気がしたからだ。


 数分後、榊原はゆっくり立ち上がった。


 まだ顔色は完全ではないが、呼吸はだいぶ落ち着いている。直人は階段を一段降りて、必要なら支えられる距離にだけ立った。だが榊原は自分でしっかり立って、制服の乱れを直し、髪を耳にかける。


 たったそれだけの仕草で、彼女はもう“榊原澪”に戻りかけていた。


 すごいな、と直人は思った。


 たぶんこの人は、ずっとこうやってきたのだ。


 崩れても、誰にも見せずに立て直して、何事もなかった顔で日常に戻っていく。


「今日は」


 榊原が口を開く。


「ありがとうございました」


「別に大したことしてない」


「それでも、です」


 そう言って、彼女はほんの少しだけ視線を伏せた。


「……誰にも、言わないでくれてありがとうございます」


「言わないよ」


 直人がそう答えると、榊原は安心したように、でもどこか信じきれないようにも見える曖昧な顔で頷いた。


 二人は並んで旧校舎を出た。


 渡り廊下に出ると、さっきまでとは違って、雨は少しだけ弱くなっていた。空は相変わらず灰色だったが、激しさはもうない。


 昇降口の前で、榊原は足を止める。


「佐伯くん」


「ん?」


「明日」


 そこで一度、言葉を切る。


「……いえ、なんでもないです」


「そう?」


「はい。また、明日」


 その言い方が、ほんの少しだけ不自然だった。


 だが直人は深く考えず、「また明日」と返した。


 榊原は小さく頷き、自分の傘を開いて雨の中へ出ていく。背筋の伸びた、綺麗な後ろ姿だった。ほんの数分前まで階段の踊り場に座り込んでいたとは、誰も思わないだろう。


 直人はその背中を見送りながら、さっきの笑顔を思い出していた。


 壊れそうで、きれいで、どこか危うい笑い方。


 あれを見てしまったせいか、いつもの教室で見る完璧な榊原澪が、もう少しだけ遠いものに思えた。


 たぶん、自分は余計なものを知ってしまったのだ。


 でもその時の直人は、まだ知らない。


 壊れた自分を見られることよりも。


 それでも離れていかれないことの方が、彼女にとってずっと危険だったということを。


 そして翌朝。


 教室に入った直人へ、クラスの完璧美少女は、いつも通りの綺麗な微笑みで言うのだ。


「おはよう、佐伯くん」


 それはたった一言だった。


 けれどその一言が、直人の日常を静かに侵し始める最初の音になることを、この時の彼はまだ知らなかった。

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