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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 翡翠


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第10話 都合よく解釈されることすら、もう少しだけ心地いい

 火曜日の朝、佐伯直人は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。


 最近ずっとそうだ。


 睡眠時間が極端に減っているわけではない。けれど、眠りの質が微妙に変わっている。深く落ちきる前に、どこか意識の端で何かを考え続けているような感覚があった。


 原因は、たぶん一つしかない。


 もし、私がもう少しだけ普通だったら。

 今のお前だからこうなってる気はする。


 昨日の帰り道の会話が、まだ頭の中に残っていた。


 あんな返し方をするつもりはなかった。もっと曖昧に濁せたはずなのに、気づけば本音に近いものを口にしていた。榊原澪が普通じゃないことは、もう嫌というほど分かっている。それでも、その普通じゃなさ込みで彼女を意識している。むしろそこを切り離して考えられなくなってきている。


 それがかなりまずい、という自覚もある。


 朝食を適当に済ませ、制服に着替え、家を出る。駅までの道を歩きながら、直人は自分でも分かるくらい足取りが軽いことに気づいてしまった。


 学校に行くのが楽しみなのか。

 いや、学校そのものではない。


 会えばまた何か言われる。

 たぶん今日も見られる。

 何かしら、心のどこかを正確に触ってくる。


 それを予測しているのに、足は止まらない。


 教室に入ると、まだ人は半分ほどしかいなかった。窓際の席に澪がいる。視線が合うより少し早く、向こうがこちらの気配に気づいたように顔を上げる。


「おはよう、佐伯くん」


「……おはよう」


 たったそれだけ。


 それだけなのに、昨日の続きが自然に再開される。自分たちだけがひそかに共有している何かがある、という感覚がもう消えない。


 席に着くと、机の中に違和感があった。


 手を入れると、一枚のプリントが出てくる。英語の授業で使う追加資料らしい。まだ配られていないものではなく、昨日配布されたが自分が鞄に入れ忘れていたやつだとすぐに分かった。


 右上に、小さな付箋が貼ってある。


『落としたままだったので入れておきました』


 直人は無言で前の席を見る。


 澪は振り返らない。けれど肩の力の入り方で、こちらが気づいたことは分かっている気がした。


 もう驚かない自分が怖かった。


 これも、本来なら少しおかしい。落ちたプリントを拾って机に戻しておく。それ自体は親切だが、付箋までつけて痕跡を残すあたりが完全に彼女らしい。見ていたことも、触れたことも、隠しきらず、でも騒がしくはしない。


「……何それ」


 後ろからひよりの声がした。


 直人は反射的にプリントを伏せたが、遅かったらしい。


「いや」


「いや、じゃないでしょ」


 ひよりは机の横から顔をのぞき込む。


「また榊原さん?」


「……たぶん」


「たぶんじゃなくて絶対でしょ、その感じ」


 そう言いながらも、ひよりの声には前ほどの刺々しさはなかった。代わりに、少しだけ呆れたような、でもまだ諦めていないような複雑な響きがある。


「佐伯、もう慣れてない?」


 ひよりの問いに、直人は即答できなかった。


 慣れている。

 少なくとも以前よりは、確実に。


 澪が自分の物を拾っておくこと。予定を覚えていること。不調に気づくこと。そういう小さな先回りを、もう“彼女ならやる”の範囲で処理し始めている。


 それはかなり危険な変化だ。


「……分かんない」


 結局そう答えると、ひよりは小さくため息をついた。


「その“分かんない”便利だね、最近」


「便利って何だよ」


「自分の気持ちをはっきり認めたくない時の逃げ道」


 図星だったので、直人は何も言えない。


 ひよりは少しだけ視線を和らげた。


「別に責めてるわけじゃないよ。ただ、気づいてるならまだマシ」


 そう言って自分の席へ戻っていく。


 その言葉を反芻する間もなく、一時間目が始まった。


 午前中は比較的平穏だった。


 澪は授業中、いつも通り真面目にノートを取り、教師に当てられればそつなく答え、周囲とも感じよく話している。クラスメイトから見れば、たぶん何一つ変わっていない。直人に対してだけ何か特別な視線を向けていることも、よほど注意深く見なければ気づかないだろう。


 だから余計に厄介なのだ。


 変わっているのは、たぶん直人の方だ。


 黒板を見る合間に前の席の後ろ姿が視界に入る。髪が肩に落ちる位置まで知ってしまっている。ページをめくる手の癖、少し考える時の首の傾げ方、消しゴムを持つ指先の細さ。そういう細部ばかり拾うようになっている。


 見ているのは、もう彼女だけじゃない。


 昼休み。


 ひよりは今日は友人たちと食べるらしく、直人の席には来なかった。かわりに乃愛が教室の扉からひょこっと顔を出し、すぐに引っ込んだ。こちらを見つけた瞬間に会釈だけして消えたので、たぶん以前ならそのまま近づいてきていただろう距離を、意識的に控えたのだと分かる。


 やはり澪の言葉はかなり効いている。


 その事実に、直人は複雑な気分になった。


 助かっている面もある。

 でも、自分が知らないところで人間関係の距離を調整されている感覚は、やはり落ち着かない。


 パンを開けたところで、前の席から声がした。


「今日、ひとりなんですね」


「まあ」


「よかった」


 澪がそう言ったので、直人は思わず眉を寄せる。


「何がだよ」


「少しだけ話せるので」


 あまりにも自然に言うから、直人は逆に返しづらくなる。


「……毎日話してるだろ」


「教室での会話と、こういう時間の会話は違います」


 そこまで明確に区別しているのか、と心の中で苦笑する。


 澪は小さな紙パックの野菜ジュースを机に置いた。


「これ」


「またかよ」


「今日はちゃんと自分の分もあります」


 彼女はそう言って、自分の席にも同じものを置く。


「飲みきれなかったら困るので、半分道連れです」


「道連れの使い方ちょっとおかしいだろ」


「そうですか?」


 少しだけ笑う。


 その笑い方に、直人もつられて口元を緩めてしまう。

 前なら、こういうやりとりでいちいち反応しなかったはずだ。けれど今は、彼女と二人だけで軽く交わす会話そのものが少し楽しい。


 だから危ない。


「佐伯くん」


 澪がストローを刺しながら言う。


「昨日のことですけど」


 昨日。

 必要にしてます、ではなく、その後の帰り道のことだろうと直人はすぐに察した。


「うん」


「嫌ではない、って言ってもらえたの、結構ずっと嬉しかったです」


 またそういうことを、と思う。


 直人は思わず小さく咳払いした。


「いちいち言わなくていい」


「言いたいので」


 あっさり返される。


「私、嬉しいことはちゃんと言う方がいいと思ってるんです」


「だからって毎回言われると困るんだけど」


「困りますか」


「困る」


「でも嫌じゃない」


「……」


「ですよね?」


 そこだけは確認してくる。

 しかも、こちらが否定しにくいラインを正確に突いてくる。


「都合よく解釈するなって言っただろ」


 直人が半ば呆れて言うと、澪はほんの少しだけ表情を和らげた。


「はい。でも、都合よく解釈しても許されそうなところまでは来てると思ってます」


 その言葉に、直人はつい黙ってしまう。


 否定しづらい。

 少なくとも以前のように、彼女の好意や独占欲をただ持て余しているだけの段階ではなくなっている。


 ひよりの言葉を借りるなら、“嬉しい”にかなり近い場所まで来ているのだ。


 五時間目は体育だった。


 男子は校庭でサッカー、女子は体育館でバレーらしい。運動が特別苦手なわけではない直人だが、好きかと問われれば微妙だった。勝ち負けに熱くなる方でもないし、こういう授業はだいたい周囲に合わせて無難にこなす。


 ゲームの途中、味方のパスを受けようとした瞬間、少しだけ足を取られた。


 転ぶほどではない。

 ただ、着地の時に左足首に軽く違和感が走る。


「大丈夫か、佐伯」


 同じチームの男子に聞かれて、直人は「平気」と返した。実際、大したことはない。歩けるし、痛みも一瞬だ。無理に目立つのも面倒なので、そのまま授業を続ける。


 だが、体育のあと教室へ戻ると、澪が一目で気づいた。


「足、どうしましたか」


「何も」


「庇ってます」


 断定だった。


「……見すぎだろ」


「見てますから」


 さらりと返してくる。


 もう彼女にとっては、これは説明のいらない事実なのだろう。


「大したことない」


「そう言うと思いました」


 澪は自分の鞄をごそごそ探って、小さなスプレー缶を取り出した。


「冷却スプレーです」


「何で持ってるんだよ」


「一応」


「一応で高校生が持ち歩くものか?」


「持ち歩いててよかったです」


 そう言いながら、机の横にしゃがみ込もうとする。直人は反射的に足を引いた。


「待て待て待て」


「はい?」


「何する気だよ」


「かけるだけです」


「自分でやる」


「分かりました」


 素直に缶を渡してくる。そこは押しつけてこない。

 押しつけてこないから余計に断りにくい。


 結局、直人は机の陰で足首にスプレーをかけた。ひんやりした感触がじわっと広がる。


「……助かった」


 ついそう言うと、澪は少しだけ目を細めた。


「はい」


 その“はい”の返し方が、どこか満足そうで、直人はまた妙な気分になる。


 体育のあとだからか、クラスの空気は少し浮ついていた。男子は汗拭きシートを回し合い、女子は髪を結び直したりしている。そんな中で、澪だけはいつも通り落ち着いて見える。


 いや、違う。

 落ち着いて見えるように振る舞っているだけで、こちらに対してだけは細かく反応しているのだ。


 放課後、教室には少しだけ居残りがあった。


 先生に頼まれた提出物の確認で、直人は数分ほど残ることになった。ひよりは部活の助っ人があるらしく先に出ていき、澪は学級日誌をまとめている。最終的に教室に残ったのは、その二人と数人だけだった。


 確認が終わって鞄を持ち上げると、澪が自然に立ち上がる。


「帰れますか」


「その言い方、俺が一人で帰れないみたいだけど」


「足、少し痛いんですよね」


「いや、もうほとんど平気」


「じゃあ、一人でも帰れますね」


「……帰れるよ」


「でも一緒に帰っても問題ないですよね」


 結局そうなる。


 直人は小さく笑って、「まあ」とだけ返した。


 校門を出て、駅へ向かう道を歩く。


 夕暮れ前の道には、同じ制服の生徒が何人もいた。完全に二人きりではない。なのに、今日の空気はなぜか妙に密度が高かった。


「今日、ひよりと何か話した?」


 直人が聞くと、澪は少しだけ目を伏せた。


「挨拶くらいです」


「それだけ?」


「それだけです」


「珍しいな」


「何がですか」


「お前なら、何かもう一歩踏み込みそうなのに」


 半分冗談のつもりだった。

 だが澪は少しだけ苦笑した。


「控えてるんです」


「控えてる?」


「約束したので」


 ああ、と思う。

 乃愛みたいに勝手に話しかけに行くのは控える、というあの話だ。


「全部は約束できないって言ってたけど」


「はい。でも、少なくともすぐにはしません」


 その“すぐには”が怖い。

 それでも、ちゃんと直人の言葉を踏まえて行動を調整していることは伝わる。


「……意外と守るんだな」


「意外ですか」


「もっと自分の感情だけで押してくると思ってた」


 澪は少しだけ考えるように間を置いた。


「押したい気持ちはあります」


「あるんだ」


「かなり」


 そこは迷わないらしい。


「でも、嫌われたら意味がないので」


 その一言は、直人の心を妙に静かに打った。


 ああ、この人もちゃんと怖いのだ。

 捨てられること、嫌われること、拒絶されることが。


 だから完璧な顔のまま、距離の詰め方を調整してくる。重い感情を全部そのままぶつけるのではなく、ぎりぎり嫌われない形に整えて差し出してくる。


 それはやっぱり知的で、ずるくて、少し痛々しい。


「……嫌うの、難しいよ」


 気づけば、そんなことを言っていた。


 澪が足を止める。

 直人もつられて止まる。


「それ、期待していい言葉ですか」


「またそれかよ」


「大事なので」


 直人は頭を掻いた。


「お前、結局そこしか見てないだろ」


「そこが一番大事です」


 即答だった。


 直人は少しだけ視線を逸らす。

 夕方の風が制服の裾を揺らす。駅前の雑踏はまだ少し遠い。


「……期待しすぎるなよ」


 それが限界だった。


 でも澪は、その返しだけで十分だったらしい。

 ひどく柔らかく、けれどどこか切実な目でこちらを見る。


「難しいです」


 そして、ほんの少しだけ笑う。


「もう結構、期待してます」


 そう言われてしまうと、直人はもう何も言えない。


 都合よく解釈されること。

 少しずつ自分の言葉を希望として拾われること。

 本来なら慎重になるべきなのに、それすら今は、少しだけ心地よかった。

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