第11話 期待させている自覚があるのに、もう止め方が分からない
水曜日の朝、佐伯直人は目覚ましが鳴る前に目を開けた。
最近ずっとそうだが、今日は特に落ち着かなかった。
昨日の帰り道、榊原澪に言われた言葉がまだ胸に残っている。
もう結構、期待してます。
あれは重い。
かなり重い。
普通なら一歩引いてもおかしくないくらいには、ちゃんと重い。
なのに直人は、引くどころか、その言葉を思い出して少しだけ胸が熱くなる自分を持て余していた。
期待させている。
その自覚がある。
あるのに、線を引こうという方向へ気持ちが動かない。
「……終わってるな」
小さく呟いて、布団から起き上がる。
洗面所で顔を洗い、制服に着替え、キッチンへ向かう。テーブルの上には、母のメモが置かれていた。
『今日は少し早く帰れるかも』
それだけの短い一文。
少し早く帰れる。
たぶん一般的には、それだけで十分に嬉しいことなのだろう。
でも直人は、そのメモを見た瞬間にまず思ってしまった。
今日は放課後、どうなるだろう、と。
母の帰宅より先に、榊原澪の存在が頭をよぎる。
そのことに自分で気づいて、少しだけ嫌になる。
学校へ向かう道は、昨日より少し涼しかった。
駅までの道を歩きながら、直人は無意識にスマホを確認してしまう。もちろん何も来ていない。来ていても困るし、来ていなくても妙に落ち着かない。
教室に入ると、すでに澪はいた。
前方の席でノートを広げている横顔。朝の教室の雑音の中でも、彼女のいる場所だけ妙に整って見えるのは気のせいではないだろう。あの完璧美少女然とした空気は、作っているのか、もう半分は身体に染みついているのか、直人には分からない。
ただ、こちらに気づくのだけは今日も早かった。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
たったそれだけで、心拍数が少しだけ上がる。
重症だとしか思えない。
席に着くと、ひよりが後ろから軽く机を叩いた。
「おはよ」
「おはよう」
「何かもう、隠す気ないよね」
「何が」
「顔」
ひよりは呆れたように言う。
「前は榊原さんに話しかけられても“たまたまですけど?”みたいな顔してたのに、最近もう普通に反応してる」
「そんな細かく見てるのか」
「見てるよ」
ひよりはあっさり頷く。
「だって気になるし」
その返しが痛い。
普通の好意は、こういうふうにまっすぐ来る。
直人が返事に困っていると、ひよりは少しだけ声を落とした。
「別に今さら責めないけどさ」
「うん」
「ちゃんと、嬉しいなら嬉しいって認めた方がいいよ」
直人は思わず眉を寄せた。
「何で」
「認めないまま流される方が危ないから」
その言葉には、妙に説得力があった。
認めないまま流される。
まさにいまの自分だった。
嬉しい。
たぶん、かなり嬉しい。
でもそれを認めたら、もう完全に踏み込むことになる気がして、直人はまだ曖昧な場所にしがみついている。
ひよりはそんな直人を見て、小さく息を吐いた。
「まあ、私はそうしてほしくない側だけど」
そう言ってから、いつもの軽い笑顔を作って自分の席へ戻っていく。
その“そうしてほしくない側”という言い方が、冗談みたいで冗談じゃなくて、直人の胸に静かに残った。
午前中の授業は、相変わらず集中力が安定しなかった。
黒板を見ていても、前の席の肩越しに視線が引っ張られる。澪が教師に当てられて、淀みなく答えるたびに、教室の誰にとっても“榊原さんはすごいな”で終わるその光景を、直人だけが別の意味で見てしまう。
この人は、こんなふうに何でも完璧にこなす顔のまま、放課後には平気で「期待してます」と言ってくるのだ。
その落差を知っているのが、自分だけであることもまた、かなりまずい。
三時間目の休み時間、教室の空気が少しざわついた。
文化祭実行委員が何やら揉めているらしい。提出物の期限が今日までだったのに、必要な書類がまだ揃っていないようで、委員長の女子が半泣きになりながらプリントを数えている。
ひよりもその輪の中にいた。どうやら買い出し関係の担当として巻き込まれているらしい。
「え、足りないって何が?」 「使用申請の控え」 「昨日、机の上に置いたよね?」 「でも一枚ない」
教室のあちこちから声が飛ぶ。
直人は最初、ただ眺めていただけだった。こういう時、中心に入っていくタイプではない。けれど委員長の顔色が本格的に悪くなっていくのを見て、結局席を立ってしまう。
「何が足りないの」
そう聞くと、ひよりが少し困ったような顔で振り向いた。
「展示申請の控え。昨日ここにあったはずなんだけど」
「机の上?」
「うん。でもさっき見たらなくて」
直人は周囲を一通り見た。
そこで、斜め前から静かな声が差し込む。
「それなら、職員室にあります」
澪だった。
全員の視線が一斉にそちらへ向く。
「昨日の放課後、風で飛びそうだったので、私が先生の机に置いておきました」
一瞬、教室が静まり返る。
「……え」
ひよりが呆然とした声を出す。
「言ってよ!」
「今言いました」
澪はきょとんとした顔すらせず、穏やかに返す。
「まだ確認できていないと思ったので」
「それ、もっと早く言ってくれてたら」
「すみません。必要なら言われると思っていたので」
謝っている。
謝ってはいるが、ひどく落ち着いている。
委員長が半泣きのまま「と、とりあえず取りに行ってくる」と職員室へ走っていくと、周囲の空気は少しだけ和らいだ。問題は解決したのだから、それでいい。実際、助かったのも事実だった。
だがひよりだけは、明らかに納得していなかった。
授業が始まる前に、ひよりは直人の机の横へ来て小さく言う。
「今の、すごくない?」
「……助かったけど」
「そこなんだよ」
ひよりは低く言う。
「助かるように見える形で、全部持ってくじゃん」
その表現が、妙に正確で直人は何も言えなかった。
昼休み、珍しく澪の方から直人の席に来た。
周囲には普通にクラスメイトもいる。だからこそ、余計に彼女の動きは自然に見える。
「さっきの件ですけど」
「うん」
「私、余計なことしましたか」
その聞き方がずるい。
助けた側が、困らせたかどうかをこちらに確認してくる。しかも本人には悪意がない。少なくとも、表面上はそう見える。
「余計っていうか……」
直人が言葉を探していると、澪は静かに続ける。
「私は、必要な情報を持っていたので出しただけです」
「まあ、そうだけど」
「でも、柊さんは少し怒ってました」
そこまで見ていたのかと思う。
いや、見ているに決まっているのだが。
「お前、自覚あるだろ」
「あります」
「じゃあ何でやるんだよ」
「放っておけなかったので」
その答えは、直人が旧校舎で彼女を見つけた時のものとよく似ていた。
見つけたのに放って帰ると、たぶん後悔するから。
一瞬、言葉を失う。
澪はその沈黙を読んだらしく、少しだけ目を細めた。
「似てますか」
「……何が」
「今の理由」
やっぱり気づいている。
こういうところが、本当に逃がしてくれない。
「似てるからって、許されるわけじゃないだろ」
「はい。でも、少しだけ嬉しいです」
またそうやって拾う。
直人が何も言えなくなっていると、ひよりが離れた席からこちらを見ていた。目が合った瞬間、ひよりはすぐに視線を逸らしたが、その表情はかなり複雑だった。
放課後、ひよりに呼び止められたのは当然といえば当然だった。
「少しだけいい?」
教室を出て、廊下の窓際まで連れて行かれる。ひよりは腕を組んで、かなりまっすぐに直人を見た。
「もう隠さないで聞くけど」
「何を」
「佐伯、今どっちに傾いてる?」
直人は返答に詰まった。
「“分からない”は禁止」
ひよりが先に釘を刺す。
「……お前、そのルール好きだな」
「便利な逃げ道、そろそろ塞ぎたいから」
そう言ってから、ひよりは少しだけ目を伏せた。
「私も自分で分かってるんだよ。普通にしてるだけじゃ、たぶん榊原さんの熱量には勝てない」
その言葉は軽くなかった。
「でもだからって、ああいうやり方を見て黙ってるのも違うと思うし」
「……うん」
「で、佐伯はどうしたいの」
どうしたいのか。
ひよりが言う通り、そこが一番曖昧だった。必要にされることが嬉しい。気にかけられるのが心地いい。澪の普通じゃない感じに、かなり引っ張られている。そこまではもう認めざるを得ない。
では自分は、彼女を欲しいのか。
そこまで言葉にすると、まだ怖い。
「……一緒にいたいとは思う」
ようやく絞り出した言葉に、ひよりは少しだけ目を見開いた。
「そっか」
それだけだった。
短い一言の中に、理解と落胆と、まだ消えない何かが全部混ざっていた。
「それ、榊原さんにも言った?」
「そこまでは言ってない」
「そっか」
また同じ言葉。
でも今度は、少しだけ笑っていた。
「じゃあ、まだ完全には負けてないか」
「勝ち負けの話にするなよ」
「したくなくても、そうなるでしょ」
ひよりは肩をすくめる。
「でも一個だけ言っとく」
「何」
「一緒にいたいって思うのが、必要にされるからなのか、本当にその人だからなのか、そこはちゃんと見た方がいいよ」
その言葉は、直人の胸の奥に静かに落ちた。
本当にその人だからなのか。
必要にされるから。
そこが入口なのは間違いない。
だがもう、それだけではなくなってきている気もする。図書館で隣にいた時間や、どうでもいい話を交わした帰り道や、教室で目が合う瞬間を、直人はちゃんと“彼女だから”意識している。
それを認めたら、もうかなり先まで進むことになる。
「また、難しいこと言うな」
「難しくしてるのは佐伯の方」
ひよりはそう言って小さく笑った。
その時、廊下の向こうから足音が近づく。
振り向かなくても、誰だか分かってしまうのが嫌だった。
澪がこちらへ歩いてくる。
手には学級日誌。表情はいつも通り穏やかだ。
「先生、日誌に印鑑押したので返しておきます」
ひよりに向かって、ただそれだけ言う。
必要な用件だ。
だから割り込んできたと責めることもできない。
でもこのタイミングで来るのが、やはり彼女だった。
「ありがと」
ひよりが受け取る。
その声は平静を装っていたが、完璧ではなかった。
澪はひよりから視線を外し、直人を見る。
「帰れますか」
「……帰る」
「はい」
自然な流れでそうなる。
それがもう、クラスの中でも半ば当たり前の空気になりつつあるのが怖い。
ひよりは日誌を抱えたまま、少しだけ苦く笑った。
「じゃ、私はこっちだから」
「うん」
「また明日、佐伯」
その“また明日”は、いつもより少しだけ遠かった。
澪と二人で校舎を出ると、外は夕焼けが濃くなり始めていた。空の色は綺麗なのに、直人の胸の中は妙に重い。
「柊さんと、何の話をしていたんですか」
校門を出てすぐ、澪が聞く。
「聞くんだな」
「聞きます」
迷いがない。
「一緒にいたいって思うのが、本当にお前だからなのか、ちゃんと見ろって」
直人がそう言うと、澪はほんの少しだけ黙った。
それから、静かに息を吐く。
「正しいですね」
「珍しいな。反発しないの」
「正しいことは、正しいです」
その返しに少し驚く。
「じゃあ、どうするんだよ」
「どうもしません」
澪はまっすぐ前を見たまま言う。
「だって、考える時間が必要なら待つしかないので」
「……待つの嫌いなんじゃなかったか」
「嫌いです」
きっぱり言い切る。
「でも、ここで焦って嫌われる方が嫌なので」
その答えは、妙にまっとうで、だからこそ反則だった。
重くて、普通じゃなくて、独占欲だって強いくせに、要所ではきちんと引く。このバランスがあるから直人は完全に拒絶できないのだと、改めて思う。
「そのかわり」
澪が続ける。
「待ってる間に、私の方を見ていてもらえる努力はします」
「努力って何だよ」
「たとえば」
そこで少しだけ笑う。
「今日の足、大丈夫ですか」
「……お前な」
「心配なので」
結局そうやって戻ってくる。
気にかけることをやめない。
必要にしているという言葉を、行動で何度も塗り重ねてくる。
直人は小さく息を吐いて、でも少しだけ笑ってしまった。
「大丈夫だよ。もう平気」
「よかった」
その一言が、本当に安心したみたいに聞こえるから困る。
期待させている自覚がある。
あるのに、もう止め方が分からない。
たぶんそれは、止めたくない気持ちがどこかにあるからだ。




