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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 翡翠


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第12話 止めたくないと思ってしまった時点で、もうかなり深いところまで来ている

 木曜日の朝、佐伯直人は目覚ましの音に一度だけ眉を寄せてから、すぐに目を開けた。


 最近ずっと、眠りが浅い。

 寝不足というほどではない。けれど、朝起きた瞬間からもう頭のどこかで考え事が始まっているような感覚があった。


 原因は明白だった。


 昨日の帰り道。

 ひよりの言葉。

 そして澪の返し。


 考える時間が必要なら待つしかないので。

 そのかわり、待ってる間に、私の方を見ていてもらえる努力はします。


 重い。

 やっぱりかなり重い。


 でもその重さを、直人はもう“嫌なもの”としてだけ処理できなくなっていた。むしろ、そこまで真っすぐに向けられる感情が、自分の中の静かな空白を少しずつ埋めていくのを感じてしまう。


 止めたくない。


 そう思ってしまった時点で、もうかなり深いところまで来ているのだろう。


 学校へ向かう電車の中でも、直人はぼんやり窓の外を見ていた。


 ひよりの言う通り、本当にその人だから惹かれているのか。

 それとも必要にされることの心地よさに引っ張られているだけなのか。


 正直、まだ分からない。

 けれど最近は、その問いの立て方自体が少しずつずれてきている気もする。


 最初は“必要にされること”が入口だった。

 それは間違いない。

 でも今はもう、澪の言葉の選び方とか、表情の崩れ方とか、無駄に正直なところとか、そういう彼女自身の輪郭まで気になっている。


 それを認めるのが怖いだけで。


 教室へ入ると、今日も澪はいた。


 前方の席、窓から入る朝の光、いつもの整った横顔。

 もはやその風景に安心しかけている自分に、直人は少しだけ苦笑した。


「おはよう、佐伯くん」


「……おはよう」


 昨日よりも少し自然に返せてしまう。

 自然に返せるようになっていること自体が、危ない。


 席に着くと、今日はひよりが先に近づいてきた。


「おはよ」


「おはよう」


「何かもう、朝の挨拶のテンポが馴染んでるの腹立つな」


「そこ突っ込まれるのかよ」


「突っ込むよ」


 ひよりはそう言ってから、少しだけ真顔になる。


「昨日のこと、考えた?」


 直人は小さく息を吐いた。


「考えた」


「で?」


「……余計に分かんなくなった」


 正直にそう言うと、ひよりは一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめた。


「まあ、そうだろうね」


「投げるなよ」


「投げてないって。ただ、いま答え出なくても仕方ないと思ってるだけ」


 ひよりは机に軽く指先を置きながら続ける。


「でも一個だけ確認」


「何」


「佐伯、今もう“榊原さんがいない状態”を想像するとちょっと嫌でしょ」


 あまりにも核心だった。


 直人は返事ができない。

 できない時点で答えはほぼ出ているようなものだ。


「……図星だ」


 ようやく認めると、ひよりはほんの少しだけ寂しそうに笑った。


「そっか」


 その“そっか”は、前よりずっと静かだった。


 そこで会話は切れた。

 切れた、というより、ひよりがそれ以上追わなかった。


 たぶん彼女なりに、無理に詰めても逆効果だと分かっているのだろう。そういう引き際の良さが、ひよりの“普通でちゃんとした好意”を際立たせる。


 一時間目の授業中、直人は珍しく少しだけまともに集中していた。


 考えすぎても進まない。

 そう思ったからかもしれない。


 けれど二時間目の終わり、教師が提出物について説明を始めた時、前の席から回されたプリントの端に見覚えのある字があるのに気づいた。


『提出、今日です』


 小さく、余白にだけ書かれている。

 間違いなく澪の字だった。


 直人は思わず前方を見る。


 澪は振り返らない。だが首筋のあたりに、こちらが気づいたことを察しているようなわずかな緊張があった。


 またこれだ、と思う。


 あからさまではない。

 でも確実に、自分にだけ届く形で先回りしてくる。


 そしてその先回りが、だいたい役に立つ。


 昼休み、直人がプリントを提出し終えて席に戻ると、澪が振り返った。


「間に合いましたか」


「……おかげで」


「よかったです」


 それだけ。


 何か見返りを求めるでもなく、ただ安心したみたいに目を細める。

 そういう反応の一つ一つが、直人には効きすぎた。


 昼休みの後半、教室の外が少し騒がしくなった。


 どうやら一年の教室の方で、配布物の回収に手間取っているらしい。廊下を急ぎ足で走る教師の気配、ざわつく声。そんな中で、扉のところに乃愛が現れた。


「すみません、一年B組の七瀬です。文化祭の書類、ひより先輩に」


「あ、私?」


 ひよりが立ち上がる。


 乃愛は手元の封筒を見ながら説明する。どうやらクラス間で受け渡しが必要なものらしい。話している様子は普通だ。普通なのだが、直人が視線を感じて前を見ると、澪が静かにそのやり取りを見ていた。


 何も言わない。

 割っても入らない。


 昨日の“控える”という言葉を、少なくとも表面上は守っているのだと分かる。


 だがその沈黙が、逆に重かった。


 ひよりが書類を受け取り、乃愛に何か二言三言返す。その会話自体はすぐ終わった。乃愛も会釈して立ち去る。


 そのあと、ひよりは席に戻りながら小さく言った。


「偉いじゃん」


 直人は一瞬、何のことか分からなかった。


「何が」


「何もしなかった」


 ひよりの視線は澪の背中へ向いている。


 澪はそれを聞こえているのかいないのか、前を向いたままノートを閉じていた。


 放課後、今日は直人が日直の残り作業で少しだけ遅くなった。


 黒板を消し、窓を閉め、簡単な確認を終える頃には、教室の中はかなり静かになっていた。残っているのは数人だけ。その中に澪もいる。彼女は何か提出物をまとめているらしく、席で紙を揃えていた。


 直人が掃除用具を戻して席に戻ると、澪が顔を上げる。


「終わりましたか」


「うん」


「お疲れさまです」


 自然に言われて、直人はまた少しだけ肩の力が抜ける。


 ひよりはもう帰ったらしい。

 その事実に、安心した自分が少しだけ嫌だった。


「今日」


 澪が鞄を持ち上げながら言う。


「少し寄り道してもいいですか」


「寄り道?」


「駅前の文房具屋に」


 それは、以前ひよりが誘おうとしていた文化祭の買い出しを思い出させる言葉だった。


 直人が一瞬だけ黙ると、澪はその沈黙を変なふうに受け取ったらしい。


「嫌ならやめます」


「いや」


 直人はすぐに首を振る。


「そうじゃなくて」


「じゃあ、いいですか」


「……いいけど」


「よかったです」


 その返し方ももう見慣れてきた。

 見慣れてきたことが怖い。


 二人で学校を出て、駅前へ向かう。


 夕方の街はまだ明るい。文房具屋は駅前の小さな商業ビルの二階にあって、学生向けのノートやファイル、ペンなどがずらりと並んでいた。文化祭の準備で買い物に来る学生も多いらしく、同じ制服の姿もちらほらある。


「本当に文房具屋なんだな」


 直人が言うと、澪は少しだけ笑った。


「疑ってましたか」


「少しは」


「ひどいです」


 そう言いながらも、澪はどこか楽しそうだった。


 店内を歩きながら、澪は本当に必要なものを見ていた。ルーズリーフ、付箋、透明ファイル。文化祭用の見出しシールまで手に取っている。どうやら彼女自身にも買う理由はあるらしい。


 その姿を見ていると、少しだけ安心する。


 全部が全部、自分との時間を作るための口実ではない。

 ちゃんと本人の日常もここにある。


 そのことが、妙に嬉しかった。


「佐伯くん、ノート何使ってますか」


「え?」


「前に青い表紙のもの持ってたので、あのシリーズ好きなのかと思って」


「……そこまで覚えてるのか」


「覚えてます」


 もはや驚く気力もない。


 直人は棚から同じメーカーのノートを一冊手に取る。澪はそれを見て、「やっぱり」と小さく呟いた。


「何だよ」


「いえ。似合うなと思って」


「ノートに似合うも何もあるかよ」


「ありますよ。選ぶものって、その人の癖が出るので」


 そう言って、自分の手に取った付箋を見せる。淡い色合いの、小さくて整ったやつだ。


「私はこういうのが好きです」


「分かる気がする」


「どういう意味ですか」


「何となく、お前っぽい」


 その一言に、澪は少しだけ目を見開いて、それから静かに笑った。


「今日、それ一番嬉しいかもしれません」


 またそういうことを言う。

 だが直人はもう、いちいち強く否定できなかった。


 店を出たあとは、すぐ帰るつもりだった。

 少なくとも直人はそう思っていた。


 だが澪が小さく言う。


「少しだけ、座っていきませんか」


 商業ビルの一階に小さなカフェスペースがあった。セルフ式で、学生でも入りやすい簡素な店だ。


「……お前、段階踏むの上手いな」


 半分呆れて言うと、澪はストレートに頷いた。


「上手くやらないと断られるので」


「そこまで自覚的なの怖いよ」


「はい。でも今は、たぶん断られないとも思ってます」


 直人はもう笑うしかなかった。


「……ほんと都合いいな」


「都合よく解釈するって言ったので」


 結局二人で飲み物を買い、窓際の席に並んで座った。


 学校帰りの制服のまま、文房具の袋を足元に置いて、何でもない話をする。教師の愚痴、提出物の多さ、文化祭の面倒さ。そんな普通の会話をしているだけなのに、時々ふと、澪がこちらを見る目の熱が深い。


 普通の会話の皮を被っているだけで、中身はたぶん全然普通ではない。


「さっき」


 澪がストローに口をつけたあと、小さく言う。


「私の日常もちゃんとあるって思いました?」


 直人は思わずむせかけた。


「何で分かるんだよ」


「顔に出てました」


「そんなに出る?」


「今日は特に」


 澪は少しだけ目を細める。


「安心したんですよね」


「……まあ」


「私、自分でも分かってるんです」


 窓の外を見ながら、澪が静かに言う。


「佐伯くんといる時、私、自分の話をあまりしないので」


 その指摘は正しい。


 彼女はこちらのことをよく知っている。

 でも、彼女自身について直人が知っていることは、まだそれほど多くない。家庭のことも、過去のことも、断片しか知らない。


「だから、口実だけで近づいてるように見えたら嫌だなって思ってました」


「……」


「今日は少しだけ、ちゃんと自分の買い物もできたので」


 そう言って、足元の文房具袋を見る。


「よかったです」


 その言い方が、妙に正直だった。


 直人はしばらく何も言えなかった。

 こういうふうに、ほんの少しだけ弱い本音を見せられると、またこちらの判断が鈍る。


「お前」


「はい」


「そういうとこだよ」


「どういうところですか」


「ずるいところ」


 直人が言うと、澪は少しだけ考えたあと、柔らかく笑った。


「でも今のは、たぶんずるくないです」


「何で」


「本当にそう思ってたので」


 そこまで言われると、もう言い返せない。


 カフェを出る頃には、外は少しだけ暗くなっていた。駅前の灯りが点き始め、人の流れも夜に近づいている。


 改札前で別れる直前、澪が小さく立ち止まる。


「今日の寄り道、嫌じゃなかったですか」


 その聞き方は、以前より少しだけ慎重だった。


 たぶん彼女なりに、待つということを意識しているのだろう。押しすぎないように、でも確かめたいことは確かめる。そういう調整をしている。


「……嫌じゃない」


 直人はもう、それを誤魔化さなかった。


 澪はわずかに息を止めたみたいに見えたあと、静かに微笑む。


「よかった」


「でも」


 今度は直人の方が続ける。


「期待させてる自覚、かなりあるからな」


 そう言うと、澪は数秒、直人を見つめた。


「はい」


「それでも、まだ止められない」


 それは告白ではない。

 けれど、かなり近い場所にある言葉だった。


 澪の目が、少しだけ揺れる。


「……十分です」


 小さく、でもはっきりと言う。


「いまは、それで十分です」


 その返し方がまた、直人の逃げ道をゆっくりと塞いでいく。

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