第13話 十分だと言われるたびに、少しずつもっと先を許してしまう
金曜日の朝、佐伯直人は珍しく、目覚ましが鳴るまで眠っていた。
ここしばらくずっと寝つきも目覚めも妙だったのに、今日は逆に深く落ちていたらしい。目を開けた瞬間、窓の外の光が少しだけ強く感じられた。
それでも、気分が晴れているわけではない。
昨日の帰り際に自分で口にした言葉が、まだ胸の中に残っていたからだ。
期待させてる自覚、かなりある。
それでも、まだ止められない。
もう、そこまで言ってしまった。
嫌じゃない、だけではない。
必要にされることが嬉しいだけでもない。
自分が彼女に許している範囲が、かなり意識的なものになってきている。
十分です。
いまは、それで十分です。
澪のその返し方が、やけに頭に残る。
彼女は欲深いくせに、こういう時だけ“いまは”と枕をつける。今この瞬間の到達点としては十分だと示して、でもその先をちゃんと残しておく。
その置き方が、直人にはどうしようもなく上手く思えた。
家を出る前、キッチンで母と少しだけ顔を合わせた。
「最近、朝ちゃんとしてるね」
トーストを焼きながら母が言う。
「前より起きるの早いし」
「まあ」
「何かあった?」
軽い調子の問いだった。
だが直人は、一瞬だけ本気で答えに詰まった。
何かあった。
かなりあった。
でもそれをどう説明すればいいのか分からない。
「別に」
結局そう返すと、母はそれ以上追及しなかった。ただ、「そう」とだけ言ってコーヒーを飲む。
こういうところは楽だ。
詮索されない。
でもその楽さは、同時に、自分の内側を誰にも見られないままにしてきた時間の長さでもある。
だからたぶん、あんなふうに見てくる相手に弱い。
学校へ向かう途中、直人はそのことをぼんやり考えていた。
誰かに必要そうにされること。
見られていると分かること。
自分が少し言葉を返すだけで、相手の表情が確かに変わること。
そんな関係を、これまでまともに持ったことがなかった。
教室に入ると、澪はいつも通り自分の席にいた。
何も変わらない顔。
何も起きていないみたいな朝の空気。
それなのに、直人の中だけが昨日から繋がったままだ。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
今日の挨拶は、少しだけ互いに間があった。
たぶん気のせいではない。
澪も昨日のことを引きずっているのだろう。だがその引きずり方が、自分みたいに落ち着きをなくす方向ではなく、むしろ丁寧に温度を測っている感じなのが彼女らしい。
席に着くと、机の上に小さなメモが置かれていた。
『一限の小テスト、昨日の範囲の続きです』
「……またか」
思わず小声で漏らす。
前方の席の肩が、わずかに揺れた。
聞こえている。たぶん笑いをこらえている。
直人は額を押さえた。
助かる。
ほんとうに助かる。
でも同時に、こういうのがもう当たり前みたいに続いていること自体がかなり危ない。
「何その顔」
後ろからひよりの声がした。
「いや」
「また榊原さん?」
「……たぶん」
「たぶん便利だね」
ひよりは昨日と同じことを少しだけ違う温度で言った。
今日は責めるというより、呆れているらしい。
その呆れ方の中に、まだ諦めていない感じが残っている。
「佐伯」
「何」
「昨日、どこまで行ったの」
いきなり核心だった。
「どこまでって」
「寄り道したんでしょ。放課後」
直人は一瞬だけ目を逸らした。
ひよりはその反応だけで察したらしく、小さく眉を上げる。
「図書館の次は寄り道かあ」
「……言い方」
「事実じゃん」
そこで少しだけ口元を緩める。
「別に報告義務があるとか言わないよ。でも、隠すの下手すぎる」
直人が何も言えないでいると、ひよりは声を落とした。
「楽しそうだった?」
その問いは不意打ちだった。
楽しかった。
かなり。
勉強より、どうでもいい話をしている時間の方が記憶に残っているくらいには。
「……まあ」
短く認めると、ひよりは目を伏せてから、また顔を上げた。
「そっか」
それだけだった。
責めない。
でも、傷ついていないわけではない。
そのことが分かるから、直人は余計に苦しくなる。
一限の小テストは、澪のメモ通り、昨日の範囲の続きだった。
解けた。
普通に考えればただそれだけなのに、テストの最中でさえ、直人の頭のどこかでは「また助けられた」と数えている自分がいる。
助けられる回数が増えるほど、切りにくくなる。
現状維持バイアスみたいなものだ、と直人はぼんやり思う。いまあるこの関係を失うコストが、どんどん大きく見積もられていく。
昼休み、今日はひよりが自分から距離を置いた。
友人グループの方で弁当を広げていて、こちらには来ない。来ないが、時々こちらを見ているのは分かった。
その代わりというように、澪が前の席から振り返る。
「今日は、柊さん来ないんですね」
「……そうだな」
「少しだけ安心しました」
そこは隠さない。
「お前、ほんと正直だな」
「佐伯くんの前では、あまり隠しても意味がないので」
その言い方に、直人は少しだけ息を詰めた。
前なら、こういう言葉はもっと重たく感じていたはずだ。
今はもう、重さと一緒に親密さまで感じてしまう。
「昨日の寄り道」
澪が小さく言う。
「楽しかったです」
「またそれ言うのか」
「言いたいので」
少しだけ目を細める。
「言っても大丈夫そうだったので」
その一言に、直人は視線を逸らした。
たしかに昨日、自分はかなり許していた。
寄り道も、カフェも、最後の会話も。
全部“嫌じゃない”の方へ倒した。
「……調子乗るなよ」
半分は照れ隠しのつもりだった。
だが澪は、その言葉を受けてほんの少しだけ真顔になる。
「気をつけます」
「いや、そういう意味じゃ」
「でも、本当にそこは気をつけないといけないので」
そう言ってから、少しだけ視線を落とす。
「私、自分でも分かってます。許されると、すぐにもう少し欲しくなるので」
直人は言葉を失った。
そこまで自覚的に言われると、逆に何も言えない。
欲しくなる。
その感覚は、たぶん自分にももう少しだけ分かり始めているからだ。
放課後、文化祭の準備で教室が少し騒がしくなった。
机の移動、係の打ち合わせ、プリントの回収。いつもより人の出入りが多い。直人も雑用をいくつか頼まれて、なんだかんだで残ることになった。
ひよりもいた。
澪もいた。
こういう時、三人が同じ空間にいるのはやはり少しきつい。
ひよりはいつも通り明るく動いている。
澪は感じよく、でも確実に直人の動きを把握している。
直人だけが、その両方を意識して無駄に疲れていた。
「佐伯、そっちのガムテ取って」
ひよりに言われて直人が棚の上のガムテを取ろうとした瞬間、少し背伸びした拍子に椅子の脚に足をぶつけた。
「っ」
小さく舌打ちする。
「大丈夫?」
ひよりがすぐに振り向く。
同時に、澪もこちらを見た。
「痛っ、てくらい」
「見せて」
ひよりが近づこうとした、その一歩の前に、澪が静かに声を挟んだ。
「保冷剤、職員室でもらってきます」
「いや、そんな大げさな」
「昨日も足、少し気にしてましたよね」
そう言われると、否定しにくい。
実際、昨日の足首もまだ完全ではない。
「……大丈夫だって」
直人が言うと、澪は数秒だけこちらを見た。
その視線は責めるでもなく、ただ確認しているだけだった。
だがその間に、ひよりの表情が少しだけ硬くなるのが分かった。
「じゃあ、歩けるならいいけど」
ひよりは言う。
言い方は普通だ。
でも空気は少しだけ冷えた。
直人は小さく息を吐いた。
結局、こうなる。
どちらか一方の気遣いを受け取ると、もう片方との距離が微妙にずれる。
作業が終わって教室の人数が減っていく頃、ひよりが直人の机のそばに来た。
「今日、ちょっとだけいい?」
その声に、澪が遠くから視線を向けるのが分かる。
「少しだけなら」
「ありがと」
教室の外、廊下の窓際まで出る。
夕方の光が差し込む中で、ひよりは腕を組んで少しだけ考えるような顔をした。
「今日の見てて、やっぱ思った」
「何を」
「佐伯、もうかなり絆されてる」
直人は苦笑するしかなかった。
「自覚はある」
「あるんだ」
「ある」
そこはもう誤魔化せない。
ひよりはその返答を聞いて、少しだけ寂しそうに笑う。
「そっか。じゃあ次は、もう一段だけちゃんと聞く」
「何」
「触れたいって思ってる?」
不意打ちすぎて、直人は一瞬意味が分からなかった。
「……は?」
「手、繋ぎたいとか。そういう方向」
心臓が一気に跳ねる。
そんなふうに考えたことがないわけじゃない。
図書館で隣に座った時、距離が近いと思った。
カフェで並んでいた時、腕が少し触れそうで変に意識した。
けれどそれを、自分から言葉にしたことはなかった。
ひよりは直人の沈黙を見て、ゆっくり頷く。
「なるほどね」
「勝手に納得するなよ」
「いや、今ので十分分かったから」
そして少しだけ視線を和らげる。
「たぶん、もう“必要にされるのが嬉しい”だけじゃないんだよ」
その指摘は、直人の胸の奥へ静かに落ちた。
必要にされるのが嬉しいだけじゃない。
彼女自身に触れたいと思う。
そうだとしたら、もうかなり答えは出ている。
「……お前、ほんと容赦ないな」
やっとそう言うと、ひよりは苦く笑う。
「容赦してたら、たぶん全部持ってかれるから」
その“全部”という言い方が、妙に切実だった。
「でも」
ひよりは一歩だけ近づく。
「まだ私も、諦めるとは言ってないから」
その時だった。
「柊さん」
静かな声が、少し離れたところから届く。
二人が同時に振り向く。
澪が立っていた。
手には教室の鍵。表情は穏やかだが、目の奥は少しだけ冷えている。
「先生が、そろそろ閉めるって」
「分かった、いま行く」
ひよりが返す。
澪はそれ以上何も言わない。
ただ、こちらを見ているだけ。
その視線の意味を、直人はもうかなり正確に読めるようになってしまっていた。
帰り道、二人になると、澪はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が逆に不自然で、直人の方が先に口を開く。
「……何か言いたいなら言えよ」
澪は一瞬だけ驚いたように目を瞬く。
「分かりますか」
「分かるよ、それくらい」
「そうですか」
小さく息を吐く。
「じゃあ、言います」
歩道の端を並んで歩きながら、澪は前を向いたまま言う。
「さっき、少し嫌でした」
「ひよりと話してたのが?」
「はい」
「何で」
「何を話していたか、だいたい分かるので」
直人は思わず眉を寄せる。
「分かるのかよ」
「少しは」
澪はそう言って、少しだけ間を置いた。
「たぶん、私のことじゃなくて、佐伯くんの気持ちの話ですよね」
かなり当たっている。
それが嫌になるくらい当たっている。
「……まあ」
「それが嫌でした」
言葉が真っすぐすぎて、直人は一瞬返せなかった。
「私が一番知りたいことを、私じゃない人に先に整理されるのが」
その表現に、直人の胸がざわつく。
私が一番知りたいこと。
つまり、自分が澪をどう思っているのか。
彼女はそれを、ひよりより先に知りたいのだ。
「それは」
直人は言いかけて、口を閉じた。
正しいとか間違っているとかではない。
ただ、そこまで欲しがられることが、また少しだけ嬉しいと思ってしまう。
澪はそんな直人の反応を見て、静かに続けた。
「でも、今日は我慢しました」
「何を」
「割って入るのを」
そこで少しだけ笑う。
「褒めてくれてもいいですよ」
その言い方に、直人はようやく肩の力を抜いて笑った。
「何だよそれ」
「事実です」
「……まあ、我慢したな」
「はい」
澪は満足そうに頷く。
「だから、少しだけご褒美がほしいです」
直人の足が一瞬止まりかける。
「ご褒美?」
「はい」
「何だよ」
澪はそこで初めて、まっすぐ直人を見上げた。
「来週も、少しだけ寄り道しませんか」
思っていたよりずっと穏やかな要求だった。
もっと直接的なものを想像していたせいで、逆に拍子抜けする。
だが、拍子抜けしたということは、それ以上のものをどこかで予想していたということでもある。
「……それをご褒美扱いするのか」
「します」
「お前にとって、俺といる時間そんなに価値高いの」
「高いです」
迷いがない。
そしてその迷いのなさに、直人の心がまた少しだけ揺れる。
「……分かったよ」
そう答えると、澪の目がほんの少しだけ柔らかくなる。
「ありがとうございます」
その礼の言い方が、ただ予定を取りつけた以上の意味を持って聞こえた。
十分だと言われるたびに、少しずつもっと先を許してしまう。
それがいまの自分の状態なのだと、直人はもう認めるしかなかった。




