第14話 次の寄り道は、約束というよりもう習慣に近い
月曜日の放課後、佐伯直人は自分の席で鞄に教科書をしまいながら、妙な感覚に襲われていた。
まだ何も約束していない。
なのに、今日はこのまま榊原澪と一緒に帰る流れになるのだろうと、もう半分くらい確信している。
その確信自体が、少し怖い。
誰かと一緒に帰ることが習慣みたいになっていく。
それも、自分の生活を細かいところまで見て、必要そうにしてくる相手と。
教室の中は文化祭準備の名残で少しだけ雑然としていた。机の位置が微妙にずれていたり、使い終わった画用紙が教卓の横に積まれていたりする。数人のクラスメイトがまだ残っていて、委員の引き継ぎやら明日の準備やらを話している。
「佐伯」
ひよりが席の横から声をかけてきた。
「今日、係の打ち合わせこのあとすぐあるんだけど、ちょっとだけ手貸して」
「何を」
「資料運ぶの。重いの何個かある」
「それくらいなら」
「ありがと。そういうとこほんと便利」
「人を道具みたいに言うなよ」
「便利なものは便利だから」
ひよりはいつもの調子で笑う。
その笑顔は明るくて自然で、こっちの気持ちを試すような重さがない。だから楽だ。ひよりといる時の直人は、まだ“普通の男子高校生”の顔でいられる気がする。
けれどその会話の途中で、前方から静かな視線がこちらへ向くのが分かった。
見なくても分かる。
でも結局、直人はそちらを見てしまう。
澪は自分の席でノートを閉じるところだった。表情は変わらない。いつも通りの穏やかな顔。けれど、ひよりと話している自分をきちんと視界に入れていることだけは明白だった。
「じゃ、先に準備室行ってる」
ひよりがそう言って教室を出ていく。
直人も鞄を置いたまま立ち上がろうとした、その時。
「佐伯くん」
澪が振り返った。
「あとで、少しだけ寄れますか」
あまりにも自然な聞き方だった。
少しだけ。
寄れますか。
その二つの言葉だけで、もう“断るほどのことではない”空気ができあがっている。
「……打ち合わせ終わってからなら」
気づけばそう返していた。
澪はほんの少しだけ目を細める。
「はい。待ってます」
その一言が、直人の胸の奥に静かに落ちる。
待ってます。
待たれることに慣れていない人間には、その言葉は思った以上に効く。
資料運びは十分ほどで終わった。
文化祭準備室に段ボールを運び込み、机の上に散らばっていたプリントを束ね、ついでに足りない画鋲箱を見つけて棚に戻す。ひよりは動きが早く、直人は半ばその指示に従って動くだけで済んだ。
「助かった」
最後にそう言われて、直人は小さく肩をすくめる。
「それくらいなら」
「それくらいを頼みやすいのが佐伯なんだよね」
「褒めてないだろ」
「褒めてるって」
ひよりは笑ってから、少しだけ顔を近づける。
「で、このあとまた寄り道?」
直人は一瞬だけ黙った。
「……何で分かる」
「顔」
即答だった。
「最近ほんと分かりやすいよ。隠す気ないでしょ」
「そこまでか」
「そこまで。まあ、私はまだ諦めてないけど」
最後の一言だけ、声が少し低くなる。
直人が返事に詰まると、ひよりはすぐに明るい調子へ戻った。
「じゃ、行ってきなよ。待たせると後で面倒そうだし」
「面倒そうって何だよ」
「感覚」
そう言って手をひらひら振る。
直人は苦笑しながら準備室を出た。
教室へ戻ると、澪は本当に待っていた。
もうほとんどの生徒は帰っていて、窓の外の空は夕方の色に変わり始めている。教室の後ろの方で文化祭の装飾が少しだけ揺れていた。
「終わりましたか」
「ああ」
「お疲れさまです」
澪は鞄を手に立ち上がる。
それだけの仕草が、やけに自然だった。
まるで本当に、こうして一緒に帰ることが当たり前になりつつあるみたいに。
「どこ寄るんだよ」
「駅前の本屋です」
澪は答える。
「参考書、少し見たくて」
「それ、俺いなくてもいいだろ」
「はい」
あっさり頷く。
「でも、一緒の方が嬉しいです」
そう言われると、もう何も返しづらい。
二人で校舎を出る。
夕方の風は昼よりも少しだけ涼しく、部活帰りの生徒たちが門の外へ流れていく。そんな中で並んで歩いていても、前よりずっと違和感が薄れていた。
「今日、ひよりに何か言われましたか」
駅へ向かう途中で、澪が何でもない声で聞いた。
「便利って言われた」
「そこじゃなくて」
「……寄り道、って」
直人がそう答えると、澪は少しだけ目を細めた。
「勘がいいですね」
「お前が分かりやすすぎるんだよ」
「そうでしょうか」
「少なくとも俺には分かる」
それを聞いた澪は、ほんの一瞬だけ足取りを緩めた。
何かが刺さったらしい。
たぶん、自分には分かる、という部分が。
「それ、嬉しいです」
案の定、すぐにそう返してくる。
「最近そればっかだな」
「本当に嬉しいことが増えてるので」
その返しがあまりに素直で、直人はまた苦笑した。
駅前の本屋は三階建てで、参考書コーナーは二階にあった。
平日の夕方らしく、店内には学生が多い。二人もエスカレーターで上がり、参考書や問題集の並ぶ棚の間をゆっくり歩く。
「数学、そろそろ一冊終わりそうで」
澪が問題集を手に取る。
「次、どれにしようか迷ってるんです」
「お前でも迷うのか」
「私でも迷いますよ。むしろこういうのは、選択肢が多いほど困ります」
そう言いながら、表紙と中身を見比べている。
その姿は普通の女子高生に見えた。
学校での完璧な優等生でも、直人だけに重い感情を向けるヤンデレじみた存在でもなく、ただ参考書選びに少し悩む同級生。
そういう瞬間があると、直人は妙にほっとする。
「どっちがよさそうですか」
澪が二冊差し出してくる。
「え、俺に聞くのか」
「聞きます」
「俺、お前より数学できないけど」
「でも、佐伯くんの感覚で見たらどっちが取り組みやすそうかは分かると思うので」
そう言われてしまうと、断れない。
直人は二冊を見比べた。片方は説明が丁寧で、片方は問題数が多い。
「こっちかな」
説明が厚い方を指す。
「何でですか」
「……いや、何となく。お前、分かってるところは一気に行くだろうけど、引っかかったところはちゃんと整理したいタイプっぽいから」
そこまで口にしてから、自分で少し驚いた。
言っていることはほとんど感覚だ。
でも、彼女を見ていればそういう癖がある気がした。
澪はしばらく直人の顔を見て、それから小さく笑った。
「やっぱり、ちゃんと見てくれてるんですね」
「……そういうふうに持ってくなよ」
「事実じゃないですか」
直人はそれ以上言い返せなかった。
彼女が自分のことを見ているのと同じくらい、自分ももう彼女の細かいところを拾い始めている。
それを指摘されると、否定のしようがない。
本屋を出たあとは、そのまま駅前のベンチで少しだけ座った。
寄り道としては短い。
でも、短いからこそ習慣になりやすいのかもしれない。
澪は買ったばかりの参考書を膝の上に置いて、表紙を軽く撫でる。
「今日」
「ん?」
「一緒に来てもらえて、やっぱりよかったです」
「本選ぶだけなら一人でよかっただろ」
「それでもです」
澪は視線を落としたまま言う。
「私、こういう何でもない時間が一番好きかもしれません」
その言葉は、直人の胸に静かに触れた。
何でもない時間。
たしかにそうだ。
派手なイベントでも、特別な約束でもない。ただ学校帰りに本屋へ寄って、参考書を選んで、少しだけ座って話す。それだけなのに、なぜかひどく特別に感じる。
「……俺も、嫌いじゃない」
ぽつりとそう言うと、澪の指先がわずかに止まった。
「嫌いじゃない、ですか」
「何だよ、その言い方」
「いえ」
澪はゆっくりと顔を上げる。
「前より、少しだけ言い方が変わったなって」
直人は返事に詰まった。
そうかもしれない。
前ならもっと曖昧に誤魔化していた。今は少なくとも、彼女といる時間をはっきり否定したくないと思っている。
「慣れたのかもしれないな」
ごまかすようにそう言うと、澪は小さく首を傾げた。
「私に?」
「……まあ」
「それ、すごく嬉しいです」
まただ。
でも今度は、直人もそこまで強く照れなかった。
嬉しいと言われるたびに、少しずつその言葉の重みより先に、彼女が本当に喜んでいることの方を感じるようになってきている。
ベンチから立ち上がり、駅へ向かう。
改札前で別れる直前、澪が不意に言った。
「こういうの、もう約束しなくても自然に続くといいですね」
その言葉に、直人は一瞬だけ足を止めた。
約束しなくても自然に続く。
つまり、特別なことではなく、日常になるということだ。
怖いと思うべきなのかもしれない。
でもその言葉が、少しだけ心地よく響いてしまった。
「……習慣みたいに?」
「はい」
澪は静かに笑う。
「そうなったら、たぶん私はかなり嬉しいです」
直人はしばらく黙ってから、ようやく答えた。
「それは、まあ」
「まあ?」
「悪くないかもな」
澪の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
それから、ゆっくりと息をするみたいに微笑んだ。
「十分です」
またその言葉だった。
十分。
いまは、それで。
そう言いながら、彼女は少しずつもっと先を手に入れていく。
そして直人もまた、その“十分”を与えることに、もうかなり慣れ始めていた。




