第15話 普通の会話のはずなのに、もう一番落ち着く相手になっている
火曜日の放課後、佐伯直人はホームルームが終わる前から少しだけ落ち着かなかった。
理由は分かっている。
昨日の帰り際、榊原澪が言った言葉がまだ頭に残っていたからだ。
こういうの、もう約束しなくても自然に続くといいですね。
習慣みたいに。
その言い方はやっぱり重い。
でも不思議と、以前ほど“重いから怖い”には直結しなかった。むしろ、自分の日常の中へ彼女が入り込んできていることを、どこかで受け入れ始めている。
悪くないかもな。
昨日、自分がそう返したことも、思い出すたびに少しだけ熱を持った。
ホームルームが終わり、教室がざわつき始める。部活に向かう生徒、文化祭準備の確認をする委員、早く帰りたいと鞄をまとめる生徒。いつもの放課後の空気の中で、直人も教科書を鞄へしまった。
「佐伯」
後ろからひよりが声をかける。
「今日も寄り道?」
「……何でそう決めつけるんだよ」
「だって最近の流れ、ほぼそうじゃん」
ひよりはそう言ってから、少しだけ笑った。
「まあ、責めてるわけじゃないよ。ただ、進んでるなあって思って」
その“進んでる”という表現が、妙に現実味を持って聞こえる。
たしかに進んでいる。
何も決まっていないのに、何かだけは確実に進んでいる。
「今日は別に、まだ何も」
直人がそこまで言ったところで、前方の席が動いた。
澪が立ち上がり、こちらを振り返る。
「佐伯くん」
たったそれだけで、ひよりが小さく肩をすくめた。
「ほらね」
澪はひよりにも感じよく会釈してから、直人の方へ視線を戻す。
「今日は、駅前の新しいカフェが気になってるんですけど」
言い方がもう慣れている。
誘い方があまりにも自然で、しかも“断る理由のない軽さ”に調整されている。
「新しいカフェ?」
「はい。期間限定で甘いものが出てるらしくて」
少しだけ間を置く。
「もし、時間があれば」
もし、時間があれば。
その一言をつけるあたり、本当に抜け目ない。
「……時間はある」
直人が答えると、澪はほんの少しだけ目元を和らげた。
「よかったです」
ひよりはそのやり取りを聞いて、呆れたように息を吐く。
「もう隠す気ないね、二人とも」
「隠してないだろ別に」
「そういう意味じゃないの」
ひよりは苦笑しながらも、それ以上は何も言わなかった。
教室を出ると、澪はいつものように直人の隣に並んだ。
もうこの距離感が自然になっていること自体がまずい。けれど“まずい”と感じる回数が減ってきていることの方が、たぶんもっとまずい。
「今日は、柊さんに何も言われませんでしたか」
階段を下りながら澪が聞く。
「言われたよ」
「何て」
「進んでるなあ、って」
直人がそう答えると、澪は少しだけ黙った。
「……そうですね」
「否定しないんだな」
「しません」
校舎を出て、駅前へ向かう道に出る。夕方の空は少し曇っていて、昨日より日差しが弱い。人の流れの中を並んで歩く二人は、たぶん傍から見ればただ仲のいい同級生だ。
でも直人には分かる。
この静かな帰り道の密度は、もう普通ではない。
「進んでるって、どのくらいだと思う」
直人が半分冗談みたいに聞くと、澪は少しだけ考えるように視線を上げた。
「少なくとも、私はかなり進んでます」
「お前はそうだろうな」
「でも」
澪が続ける。
「佐伯くんも、前よりずっと私に慣れてくれてると思います」
その言い方に、直人は反射的には否定できなかった。
慣れている。
たしかにそうだ。
前なら、先回りされるたびに警戒が先に立った。今はもう、警戒より先に“何をされたのか”を読もうとする。昨日みたいに、寄り道が習慣になる話をされても、完全な拒否感はない。
「……否定しないんですね」
澪が少しだけ目を細める。
「否定しづらいからな」
「嬉しいです」
「最近ほんとそればっかだな」
「本当にそうなので」
即答されると、もはや言い返しようがない。
駅前の新しいカフェは、商業ビルの一階に入っていた。白を基調にした内装で、学生向けにしては少しだけおしゃれすぎる気もする。だが値段はそこまで高くないらしく、制服姿の女子高生も何人か見える。
直人は店の前で一瞬だけ足を止めた。
「こういうとこ、よく知ってるな」
「知り合いに教えてもらいました」
「友達?」
「はい。普通に」
その“普通に”に、直人は少しだけ安心した。
こうして並んで歩いていると、時々忘れそうになる。
彼女にも自分の生活があって、自分以外の交友関係がちゃんとあるということを。
店に入り、二人でメニューを見る。澪は期間限定のいちごのパフェ、直人はコーヒーだけにしようとしたが、「それだと私だけ食べてるみたいになるので」と言われて、結局無難なワッフルを選んだ。
「巻き込まれた感じしかしないんだけど」
「一人で甘いもの食べるの、少し恥ずかしいので」
澪はそう言ってから、少しだけ口元を緩める。
「でも、佐伯くんが一緒なら平気です」
さらっと言う。
最近、こういう小さい言葉の置き方が上手くなってきている気がする。いや、最初から上手かったのかもしれない。ただ、以前の自分はそこにいちいち動揺していただけで。
窓際の二人席に向かい合って座る。
注文したものが届くまでの短い時間、どちらからともなく沈黙が落ちた。気まずいわけではない。ただ、何か話し始める前の間みたいなものが、以前より自然に存在できるようになっている。
それが、直人には少し不思議だった。
「何ですか」
澪が先に気づく。
「いや」
「見てましたよね」
「……見てたけど」
「どうしてですか」
まっすぐ聞いてくる。
直人は少しだけ視線を逸らした。
「別に理由は」
「あります」
「お前、すぐそうやって断定するよな」
「だいたいありますから」
そう言って、澪は小さく笑った。
そのタイミングで注文が届く。いちごのパフェは見た目にも華やかで、ワッフルも思ったよりちゃんとしていた。
「ほんとに甘いもの好きなんだな」
直人がそう言うと、澪はスプーンを持ちながら少し首を傾げる。
「意外ですか」
「いや、何か」
「何か?」
「もっと、こう……」
言葉を探す。
「完璧に生きてそう」
澪は一瞬だけ目を見開いたあと、ふっと笑った。
「それ、たまに言われます」
「言われるんだ」
「はい。でも、甘いものくらい普通に好きですよ」
それから、スプーンで少しだけアイスを掬って口に運ぶ。その何気ない仕草が、教室で見る“完璧美少女”より少しだけ年相応に見えて、直人はまた妙に落ち着かなくなった。
「佐伯くんは?」
「俺?」
「好きなもの、意外と知らないので」
そう言われて、直人は少し考えた。
「好きなものって、食べ物?」
「食べ物でも、何でも」
「……難しいな」
好きなもの。
そう聞かれてすぐ答えられないことに、自分で少し驚く。嫌いなものや避けたいことならいくつか思いつくのに、“これが好きだ”と明確に言えるものが、意外と少ない。
「悩みますね」
澪が小さく言う。
「そういうところです」
「どういうところだよ」
「自分のことを後回しにするところ」
またそれかと思う。
でも、言い返せない。
好きなものを聞かれてすぐに詰まるのは、たしかにそういうことなのかもしれない。
「……お前は」
「はい」
「好きなもの、すぐ答えられる?」
そう聞くと、澪は少しだけスプーンを止めた。
「前よりは」
「前より?」
「昔は、私もよく分からなかったです」
その答えに、直人は意外なものを見る気分になった。
「意外ですか」
「少し」
「そうですね」
澪は視線をパフェへ落とす。
「好きなものをはっきり言うと、我儘みたいで嫌だった時期があったので」
その言葉は、かなり静かだった。
でも、そこに含まれているものは重い。
家庭の空気なのか、過去の人間関係なのかは分からない。けれど“自分の好き”を言うこと自体に遠慮が染みついていた時期があるのだとしたら、それはたぶん彼女の今の重さと地続きなのだろう。
「でも今は?」
直人がそう聞くと、澪は少しだけ目を上げる。
「今は、好きなものはちゃんと好きだって思っていた方がいいと思ってます」
「何で」
「失う時に困るので」
その返しに、直人は言葉を失った。
失う時に困る。
やっぱり彼女の感情は、全部そこに繋がっている。
けれどその一方で、その考え方自体にどこか納得してしまう自分もいる。失うかもしれないから曖昧にしておくより、好きだと認めておいた方がいい。そういう理屈は、かなり彼女らしい。
「だから」
澪が続ける。
「最近は、好きなものはちゃんと言うようにしてます」
「例えば?」
そう聞くと、澪は少しだけ間を置いた。
「甘いもの」
「うん」
「静かな時間」
「うん」
「寄り道」
そこまで言って、直人の方を見る。
「あと」
「……あと?」
「佐伯くんと話してる時の空気」
言い終えたあとで、澪はごく自然にパフェへ視線を戻した。
大げさに反応を伺うわけでもない。
ただ本当に、好きなものの一つとして並べただけみたいに。
それが余計に効く。
「そういうの、よくその温度で言えるな」
直人がかろうじてそう言うと、澪は小さく笑った。
「前よりは、言えるようになりました」
「成長かよ」
「たぶん」
その会話のあと、少しだけ沈黙が落ちた。
でも気まずくない。
むしろ、今の言葉がちゃんと間に残っている感じがあって、すぐ次の話題へ移れないこと自体が自然だった。
直人はワッフルを切りながら、ふと思った。
こういう時間が、自分にとってももうかなり好きになり始めている。
それを認めるのは、まだ少し怖い。
でも否定もしきれない。
「俺も」
気づけば、ぽつりと口をついていた。
「俺も?」
澪が顔を上げる。
「……嫌いじゃない」
「何がですか」
「こういうの」
直人は視線を逸らしたまま言う。
「寄り道とか、話してる時間とか」
言いながら、自分でもかなり危ないことを言っていると分かる。
でも嘘ではない。
澪はしばらく何も言わなかった。
やがて、かなり静かな声で言う。
「今日は、それでたぶん十分以上です」
また十分。
でも今度は、その“十分”の中にかなり大きな満足が含まれているのが分かった。
店を出る頃には、外は少しだけ薄暗くなっていた。
二人で駅へ向かって歩く。
この帰り道も、もうかなり自然になっている。
「さっきの話」
澪が静かに言う。
「好きなものの話ですか」
「うん」
「はい」
「俺、少し考えてみる」
「何をですか」
「自分が好きなもの」
そう言うと、澪は少しだけ目を見開いた。
「珍しいですね」
「うるさい」
「でも、いいと思います」
それから、ほんの少しだけ柔らかく笑う。
「そういうの、ちゃんと分かったら強いので」
「強い?」
「誰かに必要にされることと、自分が欲しいものを分けて考えられるから」
その言い方に、直人は少しだけ驚いた。
彼女はちゃんと分かっているのだ。
自分が直人の弱いところに入っていることも、それと彼自身の欲求が混ざると危ういことも。
分かっていて、なお近づいてくる。
でも分かっているからこそ、こうしてたまに正しいことも言う。
「お前、やっぱりずるいな」
「褒めてますか」
「半分くらい」
「半分でも嬉しいです」
改札前で別れる時、澪は昨日より少しだけ自然な声で言った。
「また、次もこういう時間取れたら嬉しいです」
直人は少しだけ考えてから、頷く。
「……俺も、たぶん」
その返事を聞いた澪の表情は、いつもの完璧な微笑みよりずっと柔らかかった。
普通の会話のはずなのに、もう一番落ち着く相手になっている。
そう認めるには、今日の時間は十分すぎた。




