第16話 普通の好意は、ちゃんと痛い形で届いてしまう
水曜日の朝、佐伯直人は駅へ向かう途中で、昨日の帰り道を何度も思い出していた。
好きなものの話。
甘いもの。静かな時間。寄り道。
そして、佐伯くんと話してる時の空気。
あんなふうに並べられると、恋愛の台詞よりよほど逃げ場がない。
しかも最後に、自分まで口にしてしまった。
寄り道とか、話してる時間とか。嫌いじゃない、と。
もはや“嫌ではない”の段階は、かなり過ぎているのかもしれない。
教室へ入ると、今日は澪より先にひよりと目が合った。
「おはよ」
「おはよう」
ひよりは机に肘をついたまま、じっと直人を見る。
「何だよ」
「いや、昨日も寄り道したんだなって顔」
「顔で何でも分かるのやめろ」
「分かりやすい方が悪い」
そう言って笑うが、その笑顔の奥に少しだけ複雑なものがあるのが分かる。
ひよりは、ちゃんと見ている。
そしてちゃんと痛がっている。
その痛みをあまり表に出しすぎないだけだ。
「今日、放課後空いてる?」
不意にそう聞かれて、直人は一瞬だけ固まった。
「……何」
「買い出し」
「文化祭の?」
「うん。前から何回も流れてるやつ。今日はもう申請も通ったし、委員長からもOK出てる」
ひよりはそこまで言ってから、少しだけ視線を逸らした。
「今度こそ、普通に誘ってる」
その“普通に”という言い方が、妙に胸に刺さった。
普通に誘う。
普通に一緒に行く。
普通に距離を縮める。
ひよりはずっとそのやり方だ。
回り道も、先回りも、管理もない。だからこそ、その好意は分かりやすくて、まっすぐで、ちゃんと痛い。
「……行けると思う」
直人がそう答えると、ひよりは少しだけ目を見開いた。
「ほんとに?」
「うん。たぶん今日は大丈夫」
ひよりの顔に、分かりやすく明るさが戻る。
「じゃあ決まり。放課後、駅前集合でいい?」
「教室から一緒でよくないか」
「それでもいいけど」
ひよりはそこで少しだけ笑う。
「じゃ、教室から」
そのやり取りの途中で、教室の前方に静かな気配が入った。
澪だった。
登校してきたばかりらしく、鞄を肩に掛けたまま一度だけこちらを見る。その一瞬で、ひよりとの会話の空気くらいは読まれた気がした。
直人は無意識に視線を逸らす。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
挨拶はいつも通りだった。
でも今日は、直人の方が少しだけぎこちない。
それを澪が見逃すはずがなかった。
一時間目の休み時間、前の席が静かに振り返る。
「今日、放課後予定ありますか」
直球だった。
直人は一瞬、返事に詰まる。
「……ある」
「そうですか」
澪は短く頷いた。
「柊さんですか」
そこまで読まれている。
もう驚く気力もない。
「うん」
直人が認めると、澪は数秒だけこちらを見た。
その目は冷たくはない。けれど、明らかに少しだけ静かすぎた。
「買い出しですね」
「知ってたのか」
「文化祭委員の予定表、見たので」
やはりそう来る。
直人は少しだけ息を吐く。
「……で、何か言いたいのか」
「言いたいです」
即答だった。
「でも、今日は言いません」
その返しに、直人は少しだけ眉を寄せる。
「何で」
「約束したので」
乃愛の件のあと、控えると言った話だ。
少なくとも表で割って入るのは我慢するつもりらしい。
「ただ」
澪はほんの少しだけ視線を落とす。
「嫌だなとは思ってます」
その言い方があまりに素直で、直人は逆に何も返せなかった。
「そうか」
「はい」
短いやり取りのあと、澪はまた前を向く。
それ以上責めない。
責めないからこそ、余計に残る。
昼休み、ひよりは今日は迷わず直人の席へ来た。
「今日さ、荷物持ちだけで終わるつもりないからね」
「何だよそれ」
「だって前はそれで逃げられたし」
ひよりはパンの袋を机に置きながら言う。
「ちゃんと付き合ってもらう」
その言い方は冗談めいているのに、芯はかなり本気だった。
「別に逃げてたわけじゃ」
「逃げてたよ。主に空気とタイミングに」
図星だったので直人は黙る。
ひよりはそんな直人を見て、少しだけ目を細める。
「今日くらい、私にもちゃんと時間ちょうだい」
その一言は、澪の重さとはまったく違う方向から効いた。
必要にされる重さではない。
ただ一緒にいたい、ちゃんと時間をほしい、という普通の願い。
普通だからこそ、誤魔化せない。
「……分かったよ」
「うん」
ひよりは満足そうに笑った。
そのやり取りを、直人は前方の席が聞いているだろうことまで意識してしまう。そう考えた瞬間にまた疲れる。だが、もうその疲れすら日常に近づいていた。
放課後、文化祭委員のひよりは手際よくクラスの必要物品を確認し、直人を連れて駅前の大型文具店へ向かった。
二人で歩く帰り道は、澪といる時とはまるで違う。
会話が軽い。
沈黙が少ない。
ひよりは思ったことをすぐ口にするし、直人もそれに対してあまり深く考えず返せる。
「画用紙って何であんなにでかいんだろうね」
「でかくないと困るだろ」
「いや、持ち運び的に」
「そこは知らん」
「あとガムテとペンとファイルと……あ、のりも必要かも」
「ちゃんとメモしてる?」
「してるよ。私を誰だと思ってるの」
「抜けてる時はわりと抜けてるだろ」
「ひど」
そう言いながらも、ひよりは楽しそうだった。
その楽しさは、直人にも伝染する。
駅前の文具店では、本当に買い出しが中心だった。
模造紙、カラーペン、両面テープ、画鋲、ラミネートフィルム。ひよりは委員長から送られてきたリストを見ながら棚を回り、直人は荷物持ちと確認役に徹する。
「佐伯、これとこれどっちがいいと思う?」
ポスター用のマーカーを二種類差し出される。
「こっち」
「即決だね」
「太い方が目立つだろ」
「なるほど」
そう言って素直に採用する。
こういう単純な相談のされ方は、直人にとってかなり楽だった。
必要にされる、というより、普通に頼られているだけ。
答えを出しても相手が過剰に喜ぶわけではないし、それが関係の深さの証明になるわけでもない。
その健全さに、直人は少しだけ安心する。
会計を済ませて店を出ると、ひよりが荷物の半分を持とうとした。
「いいって、俺持つから」
「いや、全部は悪いし」
「別に重くない」
「そういうとこだよね」
「何が」
「頼られてる時の顔、ちょっと嬉しそうになるの」
直人は思わず足を止めた。
「……そんな分かりやすい?」
「分かるよ」
ひよりは少しだけ笑う。
でもその笑みは、いつもの軽さより少しだけ深い。
「だからさ、私も思うんだよ」
「何を」
「必要にされるの、好きなんだろうなって」
その言葉は、ひよりだからこそ、責める響きにならなかった。
「でも」
ひよりは続ける。
「必要にされるのが好きなだけなら、私はここまで焦ってない」
直人は黙る。
それはつまり、彼女がもう察しているということだ。
自分の気持ちが、“必要にされたい”だけでは説明しきれない場所へ行き始めていることを。
「どっか座る?」
ひよりがふいに聞く。
「荷物あるし、ちょっと休みたい」
「いいけど」
駅前のファストフード店に入り、二人で窓際の席に座る。
文具の袋は足元に置かれ、冷たい飲み物のカップに水滴がついていく。
ひよりはストローをくるくる回しながら、少しだけ真面目な顔になった。
「ねえ、佐伯」
「ん?」
「今日はちゃんと聞いていい?」
「何を」
「私といて、楽しい?」
直人は一瞬だけ言葉を失った。
シンプルすぎる問いだった。
でも、だからこそ逃げにくい。
「……楽しいよ」
正直にそう答えると、ひよりは少しだけ息を吐いた。
安堵とも、覚悟とも取れる息だった。
「よかった」
「何だよ」
「そこ誤魔化されたら、さすがにへこむから」
そう言って少し笑う。
それから視線をまっすぐ直人へ向ける。
「じゃあ次」
「まだあるのか」
「あるよ」
ひよりは少しだけ間を置いた。
「私といる時と、榊原さんといる時、どっちが落ち着く?」
心臓が跳ねた。
それはかなり意地の悪い質問だ。
でも避けて通れない質問でもある。
直人は目を伏せた。
ひよりといると楽だ。軽い。普通でいられる。
澪といると落ち着かない。なのに目を離せない。気を使うのに、沈黙まで含めて妙に馴染む。
どっちが落ち着くか、と聞かれれば。
「……澪」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
ひよりはそれでもちゃんと聞き取ったらしい。
一瞬だけ表情が止まり、それからゆっくり瞬きをする。
「そっか」
その二文字が、かなり重かった。
「いや、その」
何か言わなければと思う。
でも何を言っても言い訳にしかならない気がした。
ひよりは首を振る。
「ううん。聞いたの私だし」
少しだけ目を伏せる。
「ちゃんと答えてくれてありがと」
それから、無理に明るい笑顔を作る。
「やっぱり、そうなんだね」
「……」
「一緒にいて楽しいだけなら、まだどうにかなったかもって思ってた」
その“どうにか”が何を指しているのか、直人には痛いほど分かった。
「でも、落ち着くのは強いなあ」
ひよりは小さく笑う。
「そこまで行くと、もう普通に好きじゃん」
その言葉は、直人の胸の奥へ真っすぐ落ちた。
普通に好き。
必要にされたいからでも、流されているからでもない。
もっと単純で、もっと厄介な感情。
好き。
「……かもしれない」
ようやくそれだけ言うと、ひよりは一度だけ目を閉じた。
「そっか」
今度の“そっか”は、もう逃げ道を作ってくれない響きだった。
店を出る頃には、外はかなり夕方の色になっていた。
学校へ荷物を戻すために、二人は再び校舎へ向かう。さっきまでの会話のせいで、空気は少しだけ静かだった。
でも気まずいわけではない。
ひよりはちゃんと、自分が聞いた答えを抱えたまま歩いている。
準備室に荷物を置き終えると、廊下の向こうに澪がいた。
まるでずっといたわけではない。
たまたま今、資料を取りに来たような顔をして立っている。
でもその“たまたま”を、直人はもう素直に信じられなかった。
「お疲れさまです」
澪は二人に向かって、感じよくそう言う。
「買い出し、終わったんですね」
「うん」
ひよりが答える。
その声は普通だった。
普通だが、少しだけ疲れていた。
澪は文具の袋を見る。
「結構多いですね」
「必要なもの多くてさ」
「そうですか」
そこまでで会話は切れる。
だが、澪はひよりではなく、直人の方を見ていた。
何かを測るような目だった。
ひよりはそれに気づいたのか、小さく息を吐く。
「じゃあ、私は委員長に渡してくるから」
「手伝うか」
直人が言うと、ひよりは少しだけ笑った。
「大丈夫。これくらいは一人で持てる」
その返しの中に、わずかな意地が混ざっていた。
ひよりが廊下の向こうへ消えると、澪はしばらく黙っていた。
やがて静かに聞く。
「楽しかったですか」
やっぱりその質問だと思う。
「……楽しかったよ」
正直に答えると、澪は少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「でも」
直人はそこで言葉を継ぐ。
「落ち着いたのは、お前の方だ」
なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。
ひよりとの会話の残響が、そのまま口をついて出たのかもしれない。
澪は明らかに息を止めた。
「……今の」
「うん」
「聞いていい言葉ですか」
「お前な」
直人は思わず苦笑する。
「ほんと、そこだけは逃がさないな」
「逃がしたくないので」
澪はそう言ってから、少しだけ唇を噛むみたいにして視線を逸らした。
「今日、それ言われると思ってませんでした」
その反応が、妙に新鮮だった。
澪はいつも先回りする。
でも今の言葉は、たぶん予想していなかった。
自分の中でだけ揺れていたはずのものが、相手にとってもちゃんと不意打ちになる。その事実が、直人には少しだけ救いだった。
「……俺も言うつもりなかった」
「じゃあ、本音ですね」
「そうなるな」
沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は、前より少しだけ柔らかい。
もう二人とも、そこに意味があることを知っているからだ。
「今日は、十分どころじゃないです」
澪が小さく言う。
「たぶん、しばらくこれで持ちます」
「持つって何だよ」
「色々です」
その返しに、直人は笑ってしまった。
普通の好意は、ちゃんと痛い形で届く。
でもそれでもなお、最後に落ち着くのが澪の隣なのだとしたら、もう答えはかなり見えているのかもしれない。




