第17話 嫉妬は静かなほど怖い
木曜日の朝、佐伯直人は自分でも少し分かりやすすぎる気分で家を出た。
昨日の放課後、ひよりとはっきり言葉にしてしまったことが尾を引いている。
楽しいのは、ひよりといても変わらない。
でも落ち着くのは、澪の方だ。
あれは、かなり決定的な言葉だった気がする。
しかもそのあと、澪本人にもほとんど同じことを伝えてしまった。
今日はたぶん、その続きがある。
そう思うだけで、足が妙に落ち着かなかった。
教室に入ると、澪はもう席にいた。
いつも通り、何事もない顔でノートを開いている。窓から入る朝の光が肩口を照らしていて、その姿だけ見れば相変わらず完璧美少女だ。けれど直人はもう知っている。その平静な顔の下で、昨日の言葉を反芻していてもおかしくないことを。
案の定、目が合った瞬間に澪の目元がほんの少しだけ柔らかくなった。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
たったそれだけのやり取りなのに、今日は妙に熱を持っていた。
席に着くと、ひよりが後ろから机の端を軽く叩く。
「おはよ」
「おはよう」
「今日の顔、ちょっとまずいよ」
「何が」
「昨日の続き全部引きずってます、って顔」
ひよりはそう言って、小さく肩をすくめた。
「でもまあ、昨日ちゃんと答えたのは偉いかもね」
その言い方が、責めるよりも先に痛みを飲み込んだ響きだった。
直人は返事を迷う。
「……悪い」
結局そう言うと、ひよりは少しだけ苦く笑う。
「そういうとこなんだよなあ」
「何が」
「ちゃんと悪いと思うところ。でもそれで流されるわけじゃないところ」
言い返せなかった。
ひよりの普通の好意は、いつも真正面から来る。
だから直人は、ひよりに対して適当な誤魔化しをしづらい。
でも、ひよりと向き合うほど、結局自分が澪の方へ傾いている事実もはっきりしてしまう。そういう意味では、ひよりはかなり残酷な鏡だった。
一時間目と二時間目は、驚くほど平穏に過ぎた。
澪は何もしてこない。
メモもない。
先回りもない。
振り返って話しかけてくることもなく、ただ授業を受けている。
それが逆に直人を落ち着かなくさせた。
昨日あれだけのことを言っておいて、今朝は何もない。
それは彼女なりの調整なのだろう。押しすぎないように、余韻だけ残して、一度引く。
そういう引き方ができるから、余計に厄介だ。
三時間目の休み時間、直人が席でぼんやりしていると、前の席がゆっくり振り返った。
「今日」
澪が小さな声で言う。
「放課後、少しだけ一緒に帰れますか」
やはり来た。
「昨日みたいに、どこか寄るとかじゃなくて」
澪は視線を落とす。
「ただ、少しだけ」
その言い方がずるい。
何でもないお願いみたいな顔をして、一番断りにくい形を選んでいる。
「……時間はある」
直人がそう返すと、澪はほんの少しだけ安堵したように目を細めた。
「ありがとうございます」
それだけで、また胸のあたりがざわつく。
昼休み、ひよりは今日は自分の席でパンを食べていた。
いつもみたいに直人のところへは来ない。
来ないが、少し離れた位置からこちらを見ているのは分かる。
直人が何となくそちらを見た瞬間、ひよりは口の中のものを飲み込んでから言った。
「ねえ」
「ん?」
「今日、私からはもう聞かないけど」
それから少しだけ真顔になる。
「榊原さん、たぶんかなり機嫌悪いよ」
直人は思わず前方の席を見る。
澪は普通に昼食のサンドイッチを開いていた。表情は穏やかだし、近くの女子に話しかけられればちゃんと笑って返している。外から見れば、どこにも不機嫌さはない。
「……分かるのか」
「分かるよ」
ひよりは少しだけ呆れたように言う。
「女子のそういうの、男子より見えることあるし」
「そういうもんか」
「そういうもん」
そこで小さく息を吐く。
「でも、あれたぶん佐伯には出すよ」
「何を」
「嫉妬」
ひよりがそう言った瞬間、妙に現実味を持って胸に落ちた。
嫉妬。
澪は今までそれを表に出してこなかったわけではない。
ただし出し方が、いつも穏やかで正しくて、言葉にされる前に環境が整えられる形だった。
だからこそ、ひよりの言う“出す”という表現が、直人には少し怖く聞こえた。
放課後になると、文化祭準備は珍しく早めに片づいた。
教室に残る人も少なく、委員のひよりも今日はすぐ帰るらしい。日誌をまとめていた澪が立ち上がるのと、直人が鞄を持ち上げるのはほとんど同時だった。
「帰りますか」
「うん」
短いやり取りのあと、二人で教室を出る。
廊下も階段も、いつも通り。
それなのに、今日の沈黙は少しだけ違った。
駅へ向かう道に出ても、しばらく会話がない。
直人はひよりの言葉を思い出していた。
たぶんかなり機嫌悪いよ。
たぶん佐伯には出すよ。
こういう時、先に口を開くべきなのは自分なのだろうと、何となく思う。
「昨日のこと」
直人が切り出すと、澪が小さく視線を上げた。
「はい」
「その……ひよりと話した後のやつ」
言い方が曖昧すぎて、自分でも何を指しているのか少し怪しい。
でも澪には通じたらしい。
「落ち着くのは、私の方だって言ってくれたことですか」
自分で言い直されると、かなり恥ずかしい。
「……まあ、それ」
「はい」
澪は前を向いたまま、小さく頷いた。
「ずっと嬉しかったです」
直球だった。
でもそれだけでは終わらないと、直人にももう分かる。
「でも」
案の定、澪は続ける。
「嬉しいのと、嫌なのは別なので」
直人は少しだけ息を止めた。
「嫌って何が」
「昨日、柊さんと一緒にいた時間です」
はっきり言う。
「楽しかったんですよね」
「……楽しかったよ」
正直に答えると、澪はほんの少しだけ唇を引き結んだ。
「そうですか」
その一言が、妙に静かだった。
怒ってはいない。
責めてもいない。
でも確かに、感情がそこにある。
「別に、買い出しだったし」
直人が言うと、澪はすぐに返す。
「分かってます」
「じゃあ」
「分かってても嫌なものは嫌です」
あまりにも真っすぐで、直人は何も言えなくなった。
駅前の信号に引っかかり、二人で横断歩道の手前に止まる。夕方の車の音が行き交い、周囲にも人はいるのに、二人の間の空気だけ妙に密度が濃い。
「私」
澪が静かに言う。
「昨日、ちゃんと我慢してたんです」
「何を」
「今日の放課後、佐伯くんを誘うのを」
直人は思わず眉を寄せた。
「誘ったじゃん」
「はい。でも、もっと早く言いたかったです」
そう言ってから、少しだけ視線を伏せる。
「昨日の帰り道で、今日は絶対に一緒にいたいって思ってました」
その言い方が、ひどく率直だった。
信号が青に変わる。
人の流れに合わせて歩き出しながらも、直人はうまく返事ができない。
「でも、柊さんが先に声をかけてたので」
「……」
「今日は譲った方がいいのかなって、一応考えました」
「一応って何だよ」
「かなり嫌だったので」
そこは正直だった。
二人で横断歩道を渡り切る。
駅前の人混みに入っても、話は途切れなかった。
「ひよりのこと、そんなに嫌か」
直人がそう聞くと、澪は少しだけ間を置いた。
「嫌いではないです」
「ほんとか?」
「本当です」
即答ではない。
そこが逆に本音っぽかった。
「柊さん、ちゃんとしてますし、優しいですし、たぶんすごく正しいです」
「うん」
「だから嫌なんです」
直人は足を止めかけた。
「……は?」
「正しい方に取られるの、たぶん一番きついので」
その一言は、かなり本質的だった。
ひよりは普通だ。
優しくて、空気も読めて、真っすぐで、ちゃんとしている。
もし自分がひよりを選んだとしても、誰もおかしいとは言わないだろう。
だからこそ、澪にとっては怖い。
「お前、それ」
「分かってます」
澪は少しだけ苦く笑った。
「重いですよね」
「いや、重いっていうか……」
「でも、そうなんです」
駅の商業ビルの横を通り過ぎながら、澪は前だけを見る。
「乃愛さんみたいに悪気なく近い子も嫌です。でも、ああいうのはまだ理由をつけやすいので」
「理由?」
「近すぎるとか、困らせるとか」
そこまで言って、少しだけ唇を噛むようにする。
「でも柊さんは、たぶん違います」
「……」
「ちゃんと、正しい距離で来るから」
その分析は鋭すぎた。
ひよりは普通の好意で迫る。
押しつけない。
でも引きもしない。
だからこそ、直人が向き合わざるを得ない。
「それで、お前はどうしたいんだよ」
直人が尋ねると、澪はほんの少しだけ首を傾ける。
「どう、とは」
「嫌なら、また何かするのか」
ひよりとの流れを変えたり、先回りしたり、見えないところで整えたり。そういう意味だ。
澪はすぐには答えなかった。
駅前の雑踏の中を歩きながら、しばらく沈黙が続く。
やがて、彼女はごく静かな声で言った。
「したい気持ちはあります」
「あるんだな」
「かなり」
そこは隠さない。
「でも、しません」
その言葉は予想外にまっすぐだった。
直人が視線を向けると、澪はほんの少しだけ目を伏せる。
「昨日のことで、ちゃんと分かったので」
「何が」
「私が欲しがりすぎると、たぶん本当に嫌われるところまで行くって」
直人は言葉を失った。
彼女はちゃんとそこまで見えている。
見えていて、それでも欲しがる。
でも今回は、自制しようとしている。
「だから、今日は何もしません」
澪が続ける。
「ただ、嫌だったって言うだけです」
それは、すごく大きな違いだった。
今までの澪なら、“嫌だった”を環境操作の方へ流していた。
でも今日は、ただ嫌だったとだけ言う。
感情を行動に変換せず、言葉で出している。
それはたぶん、彼女なりの歩み寄りなのだろう。
「……それでいいのか」
直人がそう聞くと、澪は少しだけ笑った。
「よくはないです」
「よくないのかよ」
「全然」
そう言ってから、でも、と続ける。
「今はそれで我慢します」
その“今は”が少し怖い。
でも同時に、その怖さごと可愛いと思ってしまう自分がいる。
駅前のベンチに少しだけ腰かけることになったのは、ほとんど流れだった。
澪が「少しだけ、座ってもいいですか」と言い、直人が断らなかった。ただそれだけ。
並んで座ると、夕方の風が少しだけ涼しい。
隣との距離は近すぎず遠すぎず、でも意識すれば十分近い。
「昨日」
澪がぽつりと言う。
「楽しかったんですよね、柊さんと」
またその話に戻る。
「……楽しかったよ」
直人が繰り返すと、澪は小さく頷いた。
「でも、落ち着いたのは私の方」
「うん」
「それって」
少しだけ言葉を探すように間があく。
「私、そこを支えにしてもいいですか」
その問いは、かなり静かだった。
奪うとか、独り占めしたいとか、そういう強い言葉じゃない。
でもずっと切実で、ずっと重い。
支えにしてもいいですか。
つまり、昨日の直人の言葉を、これからの自分の安心材料にしたいということだ。
「……都合よく使う気だろ」
直人が半ば呆れて言うと、澪は少しだけ目を細める。
「はい」
「否定しろよ」
「でも、本当なので」
結局そう来る。
直人は小さく息を吐いた。
「まあ」
「まあ?」
「それくらいなら」
言った瞬間、澪の指先が膝の上でわずかに強張るのが見えた。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ掠れていた。
それが、彼女が思っていた以上に追い詰められていた証拠みたいで、直人の胸の奥に妙な熱が残る。
「でも」
直人が続ける。
「それで調子に乗るなよ」
澪はその言葉を受けて、ほんの少しだけ笑った。
「気をつけます」
「ほんとか?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「かなり嬉しいので」
その返しに、直人も思わず笑ってしまった。
嫉妬は静かなほど怖い。
でも今日の澪は、その怖さを言葉に変えようとしていた。
それがいいことなのか悪いことなのか、直人にはまだ分からない。
ただ一つ分かるのは、そうやって本音を見せられるたびに、自分の中で彼女を拒絶する理由が少しずつ減っていくということだった。




