第18話 手を伸ばせば触れられる距離にいるのが、一番危ない
金曜日の放課後、教室の空気はいつもより少しだけ軽かった。
週末前だからか、文化祭準備の山を一つ越えたからか、生徒たちの動きにもどこか緩みがある。誰かが後ろの席で笑い、別の誰かが帰り支度を急ぎ、委員の何人かが残って資料をまとめている。
佐伯直人も、本来ならその流れに乗って帰るはずだった。
だが今日は、担任に軽く呼び止められていた。
「佐伯、悪いけどこれ、準備室まで運んでくれるか」
教卓の横に積まれていたのは、文化祭で使うらしいパネル立てと、折りたたまれた長机の脚。別に一人で運べる量ではあるが、かさばる。
「……分かりました」
直人がそう返すと、担任は助かったという顔をする。
「あと榊原、お前も悪いけど一緒に頼む」
その名前を聞いた瞬間、直人の肩がほんの少しだけ固くなる。
「はい」
前方の席から澪が立ち上がった。
それだけで、背後からひよりの小さな「うわ」という声が聞こえた気がした。振り返ると、案の定ひよりがいかにも察した顔をしてこちらを見ている。
「頑張ってねー」
軽い調子でそう言うが、声の端には少しだけ複雑なものが混ざっていた。
「何だよその応援」
「別に? ただの雑用でしょ」
ひよりは肩をすくめる。
「ただの雑用、ね」
その言い方が妙に含みを持って聞こえるのは、もう気のせいではないだろう。
教室に残っていた他の生徒たちが少しずつ帰っていく中、直人と澪は準備物を分担して持った。長机の脚は直人、パネル立ては澪。廊下へ出ると、放課後の校舎は思ったより静かだった。
「重くないですか」
澪が先に聞く。
「そっちは」
「大丈夫です」
短い会話のあと、二人並んで特別棟側の準備室へ向かう。
こうして二人で何かを運ぶだけの時間でさえ、今は妙に意味を持ってしまう。
準備室に着くと、中には誰もいなかった。
雑多に積まれた段ボール、壁際に立てかけられた木材、脚立、ポスター用の板。文化祭前特有の混沌とした空間だ。
「これ、どこに置けばいいんだ」
直人が周囲を見回すと、澪が少し先に進んで棚の横を確認する。
「たぶん、あの奥です」
言われた方を見ると、長机を収納するスペースらしき空きがある。
ただし、その手前に大きめのパネルが斜めに立てかけられていて、少し邪魔だった。
「これ動かさないと無理か」
「私、押さえます」
澪がそう言ってパネルの端に手をかける。
直人は机の脚を一度床に置いて、パネルをずらそうとした。だが思ったより引っかかって動かない。
「結構きついな」
「少し持ち上げた方がいいかもしれません」
「じゃあ、せーので」
二人同時に力をかける。パネルがわずかに浮き、横へずれる。その瞬間、澪の肩が直人の腕にほんの少しだけ触れた。
ただそれだけ。
制服越しの、一瞬の接触。
なのに、直人の意識はそこに全部持っていかれた。
「……っ」
「どうしましたか」
「いや、何でも」
慌てて視線を逸らす。
澪は一瞬だけ直人を見たが、何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目元が柔らかくなったように見えた。
ようやくスペースを確保し、机の脚を奥へしまう。パネル立てもその横に立てかけると、ひとまず作業は終わった。
「終わったな」
「はい」
だが、すぐにはどちらも動かなかった。
狭い準備室の中、夕方の光が高い窓から斜めに差し込み、埃が少しだけ見える。外の喧騒は遠く、二人きりの静けさだけが残る。
「今日」
澪が静かに口を開いた。
「ひよりと話してましたか」
「朝、少し」
「何を」
「……別に、大したことじゃ」
「大したことあります」
そう言って、澪は少しだけ首を傾ける。
「私に関係することですよね」
その言い方が、当たり前みたいで少し笑いそうになる。
いや、実際かなり当たり前なのかもしれない。
「昨日のことだよ」
直人は正直に言った。
「ひよりが、お前かなり機嫌悪いって」
「そうでしたか」
「否定しないんだな」
「してましたから」
やはりそこは隠さない。
準備室の空気は少し冷えているはずなのに、直人の方は妙に熱い。さっきの肩の接触がまだ意識から抜けないせいもある。
「……今日も嫌だったか」
直人がそう聞くと、澪は少しだけ考えるように視線を落とした。
「今日は」
ほんの一拍置く。
「そんなに嫌ではなかったです」
「珍しいな」
「だって、今日はちゃんと私のところに戻ってきたので」
その言い方に、直人の心臓が大きく跳ねた。
戻ってきた。
そういう捉え方をしているのかと思う。
「雑用だろ、これ」
「そうですね」
澪は小さく笑う。
「でも、二人きりです」
あまりにも真っすぐだった。
逃げ道のない言葉を、こういう静かな場所で平然と置いていく。その無遠慮さが、やっぱり危ない。
「お前、ほんと……」
「重いですか」
「そういうの、分かってて言うよな」
「はい」
即答だった。
「分かってて言ってます」
そのあと、ほんの少しだけ目を伏せる。
「今日は少し、甘えても許されそうなので」
甘えても。
その表現が、妙に直人の胸に引っかかる。
彼女の重さは、時々こうして“独占欲”ではなく“甘え”として顔を出す。その瞬間だけ、ただ怖い存在ではなくなる。むしろこちらが庇いたくなるような弱さを見せる。
それが一番ずるい。
「……許されそうって何だよ」
「いま、少し優しい顔してるので」
またそれだ。
顔で読む。
態度で拾う。
何もかもを観察して、こちらが拒絶していないと分かると、ほんの少しだけ踏み込んでくる。
直人は息を吐いた。
「お前にそれ言われると、自分がどんな顔してるのか不安になる」
「ちゃんと見せてくれてる顔です」
「意味分かんないんだけど」
「私には分かります」
澪はそう言って、準備室の入口側に一歩だけ戻った。帰るのかと思ったが、違った。ドアの横に立てかけてあった脚立を少しずらし、落ちかけていた紙を拾う。
「これも戻しておきます」
「細かいな」
「気になるので」
その紙を棚の上へ置こうとして、澪が少し背伸びする。
届きそうで届かない高さではない。
だがあと数センチだけ足りない。
「貸せよ」
直人が自然に近づいて、紙を受け取る。
その瞬間、澪との距離が一気に近くなった。
狭い準備室。
伸ばした腕。
すぐ目の前にある澪の顔。
いつも見ているはずなのに、こんなに近くで見ると全然違う。睫毛の長さ、息を吸った時の喉の小さな動き、少しだけ伏せられた視線の角度。全部が鮮明に入ってきて、直人の頭は一瞬真っ白になる。
「……ありがと、ございます」
澪の声が少しだけ遅れて聞こえた。
その掠れ方が、やけに耳に残る。
直人は紙を棚へ置きながら、自分の呼吸が少し浅くなっていることに気づいた。
触れたい。
ふいに、その言葉が頭をよぎる。
ひよりに聞かれた時、直人はうまく答えられなかった。
でも今なら分かる。
こうして手を伸ばせば触れられる距離にいること自体が、こんなにも危ない。
ただ近いだけで、もう十分にきつい。
それ以上を考えた瞬間、心臓がうるさすぎてまともに立っていられない気がした。
「佐伯くん」
澪が静かに呼ぶ。
「ん?」
「いま、少しだけ」
彼女は言葉を探すように、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「触れそうだなって思いました?」
直人は思わず息を止めた。
「……何で」
「顔です」
やっぱりそれか、と思う。
でも今はもう、それで済ませられるほど軽くない。
「お前、ほんとに」
「違いましたか」
真正面から聞いてくる。
逃がさない。
けれど責めない。
直人はすぐには答えられなかった。
否定してもたぶん通じないし、正直に言うにはあまりに危ない。
でも沈黙した時点で、たぶんもう答えは出ている。
「……分かんない」
ようやく絞り出したそれは、かなり情けない返事だった。
澪はそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細める。
「分からない、ですか」
「そういうの、今は」
直人は視線を逸らす。
「うまく言えない」
澪は数秒、何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「よかったです」
「何が」
「嫌じゃないって意味だと思ったので」
また都合よく解釈する。
でも、今はそれを責める気にもならなかった。
「……そういうとこだよ」
直人が小さく言うと、澪は少しだけ笑った。
「知ってます」
準備室を出て廊下へ戻ると、外の空気が少しだけ涼しく感じた。
狭い場所にいたせいか、直人の方はまだ呼吸が落ち着かない。
二人で校舎を出る。
夕焼けの色が少し濃くなっていた。
しばらく無言で歩いてから、澪が小さく言う。
「今日」
「ん?」
「今のこと、私の中ではかなり大きいです」
「……どのことだよ」
「分かんない、って言ったことです」
直人は思わず顔をしかめた。
「そこ拾うのかよ」
「拾います」
澪は静かに頷く。
「だって、それってゼロじゃないってことなので」
その返しが、また妙に刺さる。
ゼロじゃない。
たしかに、その通りだ。
完全に拒絶しているなら、もっとはっきり否定できたはずだ。
できなかったのは、自分の中に確かに何かがあるからだ。
「……期待しすぎるな」
直人が苦し紛れにそう言うと、澪は少しだけ考えてから言った。
「無理です」
「即答かよ」
「だって、期待するに決まってるので」
その言い方が、今日は前より少しだけ柔らかかった。
「でも」
続けて、澪は珍しく先に引いた。
「今日は、それ以上求めません」
「何で」
「十分危なかったので」
その言葉に、直人は思わず笑ってしまう。
「自覚あんのか」
「あります」
「じゃあ近づくなよ」
「それは難しいです」
あっさり返されて、結局また何も言えなくなる。
手を伸ばせば触れられる距離。
そこまで来てしまったことの意味を、二人ともたぶん分かっている。
分かっていて、まだ踏み込まない。
でも踏み込まないだけで、もう十分に危ない。
その危うさの中で、直人は少しずつ自分の感情の輪郭を見始めていた。




