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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 翡翠


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第19話 乃愛は悪気なく、いちばん危ないところを踏む

 月曜日の昼休み、佐伯直人は自分でも少し分かりやすいくらい上の空だった。


 理由ははっきりしている。


 金曜の放課後、準備室で澪とあまりにも近い距離にいたことが、まだ頭から抜けていないからだ。


 触れそうだなって思いました?


 あの問い方がずるかった。

 ずるいのに、否定できなかった。

 分かんない、としか言えなかった自分の返事を、直人は何度も思い出してしまう。


 嫌じゃない。

 ゼロじゃない。

 そこまで澪に拾われて、しかも自分でもそれを否定しきれない。


 だから今日も、教室へ入って最初に澪の姿を見つけた瞬間から、どこか意識が落ち着かなかった。


 前の席に座る澪は、相変わらず完璧だった。

 教師に当てられれば淀みなく答え、休み時間には周囲とも自然に会話する。

 金曜の準備室でのあの近さも、静かな声も、掠れた息遣いも、まるで最初からなかったことみたいに見える。


 だから余計に、直人だけが知っている裏側の熱が現実味を増す。


「佐伯」


 横からひよりに声をかけられて、直人はようやく意識を戻した。


「何」


「それ、三回目」


「は?」


「パンの袋開けようとして止まるの」


 言われて初めて、自分が昼食の袋を中途半端に開いたまま固まっていたことに気づく。


「……そんなにひどいか」


「ひどい」


 ひよりは呆れたように言う。


「週末何かあった?」


 その問いに、直人は少しだけ言葉を選んだ。


 あった。

 かなりあった。

 でも、全部をそのまま言うわけにもいかない。


「文化祭の準備で、ちょっと」


「ちょっと、ねえ」


 ひよりは明らかに納得していない顔だった。

 だがそこを深追いする前に、教室の扉のところからぱっと明るい声が飛んだ。


「佐伯先輩!」


 乃愛だった。


 一年の教室からわざわざ来たらしい。小柄な体に大きめの封筒を抱え、迷いなくこちらへ近づいてくる。


「……どうした」


「この前のお礼、まだちゃんとできてなかったので」


 にこっと笑って、封筒とは別に小さな紙袋を取り出す。


「またかよ」


「またです」


 悪びれない。


「この前は受け取ってくれたから、今日も大丈夫かなって」


 その言い方が、無邪気に距離が近い。

 悪意ゼロで、相手が断りにくいところへ入ってくる感じがある。


 直人は反射的に前の席を見た。


 澪は振り返っていなかった。

 ただ、背筋だけが少しだけ静かに伸びている。

 見ている。間違いなく。


「別に気使わなくていいって」


「でも、私が気になるんです」


 乃愛は紙袋を差し出したまま言う。


「あと、先輩この前、足ちょっと痛そうだったじゃないですか。だから湿布も入れました」


「は?」


「冷えピタもあります」


 そこまでされると、もう“ありがとう”以外の選択肢がどんどん消える。


「……気が利きすぎだろ」


「えへへ」


 乃愛は嬉しそうに笑う。


 その時、静かな声が斜め前から差し込んだ。


「七瀬さん」


 澪だった。


 ようやく振り返ったその顔は、いつも通り穏やかだ。

 けれど声の温度が、ほんの一度だけ下がった気がした。


「授業、もうすぐ始まりますよ」


 乃愛が時計を見る。


「あっ、やばい」


「お礼は気持ちだけでも十分だと思います」


 柔らかい言い方。

 責めているわけではない。

 でも、会話の流れを切るには十分だった。


「で、でも……」


「先生、廊下走るの嫌いますよね」


「うっ」


 乃愛は一瞬だけ困った顔になり、直人を見た。


「佐伯先輩、とりあえずこれだけ!」


 紙袋を半ば押しつけるように手渡すと、そのまま慌てて教室を出ていった。


 扉が閉まる。


 教室の空気は一見いつも通りだった。

 ひよりは苦い顔をしている。

 澪はもう前を向いている。

 だが直人の中には、妙なざわつきだけが残った。


「……今の、見事だったね」


 ひよりが小さく呟く。


「何が」


「見えない牽制」


 直人は反射的に前の席を見る。


 澪は聞こえているのかいないのか、何も反応しない。

 だがその沈黙が、かえって図星に思えた。


「別に、あれくらいなら」


 直人が言いかけると、ひよりは首を振る。


「そうやって“あれくらい”で済ませるとこなんだよ」


 その言い方は強くなかった。

 でも確実に刺さる。


 五時間目が終わる頃には、教室の空気も少し疲れていた。


 月曜特有のだるさに、文化祭準備の細かい雑務が重なっている。直人も少しだけ肩が重かった。そんな中で、前の席の澪だけが妙に落ち着いて見える。


 いや、本当は落ち着いていないのかもしれない。

 ただ、外に出さないのがうまいだけで。


 放課後になると、乃愛がまた来た。


 今度は教室の外から、小さく手を振るだけだった。


「佐伯先輩、さっきの返事また今度聞きます!」


 明るい声だけ残して去っていく。

 完全に悪気がない。


「……あの子さあ」


 ひよりが疲れた顔で言う。


「地雷原をスキップで進むタイプだよね」


 直人は苦笑した。


 たしかにその通りだった。


 問題は、その“地雷”が誰にとってのものかということだ。


 教室を出るタイミングで、澪が自然に直人の隣へ並んだ。


「帰れますか」


「うん」


 いつものやり取り。

 でも今日は、そこに少しだけ張りがある。


 二人で階段を下り、校舎を出て、駅へ向かう。

 しばらく会話はなかった。


 直人の方も、どこから切り出すべきか迷っていた。

 たぶん澪も分かっている。

 だからこそ、互いに黙っている。


 先に口を開いたのは、澪の方だった。


「今日の七瀬さん」


「……うん」


「近かったですね」


 その一言は、ひどく静かだった。


 怒っているわけではない。

 責めてもいない。

 でも、感情は確かに乗っている。


「まあ、あいつはもともとああいう感じだろ」


「はい。分かってます」


 澪は頷く。


「だから余計に困ります」


「困る?」


「悪意がないので」


 その返しに、直人は少しだけ息を吐いた。


「お前、ほんと分析するよな」


「見てるので」


 もはやそれは彼女の口癖に近い。


「……で、今日のは?」


「今日の、とは」


「嫌だったのか」


 そう聞くと、澪はすぐには答えなかった。


 駅前の人通りが増えてくる。信号待ちで立ち止まったところで、澪はようやく口を開いた。


「嫌でした」


 はっきり言う。


「かなり」


「そんなにか」


「はい」


 そこで少しだけ目を伏せる。


「でも、今日は何もしません」


 またその言い方だ。

 “嫌じゃなかった”ではない。

 “何もしない”の方が先に来る。


「我慢してるのか」


「してます」


 即答だった。


「だって、ここで私が何か言ったら、また同じになるので」


 乃愛の時のように、見えないところで環境を整えてしまう。

 それが行き過ぎれば、また直人に止められる。


 そこまではもう理解しているのだろう。


「だから、今日は何もしないで嫌がってるだけです」


 その表現に、直人は思わず笑いそうになった。


「嫌がってるだけ、って」


「かなり進歩です」


 澪は真顔で言う。


「自分でもそう思います」


 そう言われると、たしかにそうなのかもしれない。

 以前なら、乃愛に直接何かしらの牽制をしていた可能性が高い。今日は表で会話を切っただけで、その後追いはしていないらしい。


「……まあ、そうだな」


 直人が認めると、澪は少しだけ肩の力を抜いた。


「褒めてくれますか」


「そこまでかよ」


「そこまでです」


 信号が青になり、二人で歩き出す。


「じゃあ、偉いよ」


 半ば冗談みたいに言うと、澪は数秒黙ったあと、小さく「はい」とだけ返した。


 その“はい”が妙に静かで、直人は横目で彼女を見た。


 澪は前を向いている。

 でも、どこか本当に少しだけ救われたような顔をしていた。


 その顔を見ると、直人の胸の奥で何かが揺れる。


 こうして少し我慢しただけで、褒められたことを本当に受け取ってしまう。

 たぶん彼女は、ずっとそうやって頑張ってきたのだろう。

 完璧に見えるように。

 ちゃんとしているように。

 でも内側では、欲しがって、怖がって、我慢している。


 そこまで見えてしまうと、もう単純に“重い”だけでは片づけにくい。


「……でもさ」


 直人が言うと、澪が少しだけ顔を向ける。


「今日は何もしないって決めてたなら、あの時わざわざ口挟まなくてもよかっただろ」


 乃愛に授業が始まると告げたあの一言のことだ。


 澪は少しだけ目を細めた。


「そこは、かなり我慢した結果です」


「どこが」


「本当はもっと早く入れました」


 真顔でそう言う。


 直人は一瞬言葉を失ってから、思わず笑ってしまった。


「お前、基準おかしいよ」


「知ってます」


「そこはほんとに自覚あるんだな」


「あります」


 それから少しだけ視線を落とす。


「でも」


「でも?」


「今日は、佐伯くんがちゃんと私の方へ帰ってくるだろうなって思えたので」


 その言葉が、また胸に引っかかる。


 帰ってくる。

 やっぱり澪の中では、こうして最後に二人で帰ることまで含めて、一つの安心材料になっているのだ。


「そう思ってたから、我慢できたのか」


「はい」


「……そういうの、ずるいよな」


「そうですか?」


「俺が断りにくいの分かってて言うだろ」


 直人がそう言うと、澪は少しだけ考えるように間を置いた。


「分かってます」


 やはり隠さない。


「でも、今日のは本当です」


「それも分かるよ」


 自分でも驚くくらい自然にそう返していた。


 澪が足を止めかける。

 ほんの一瞬だけ、目が大きくなる。


「……いまの」


「ん?」


「本当だって分かるって」


 そこまで言って、少しだけ息を整えるみたいに間を取る。


「かなり嬉しいです」


 また嬉しいと言う。

 でも今日は、それを聞いても前ほど照れなかった。

 むしろ、彼女が本当に嬉しそうにしていることの方が先に入ってくる。


「最近、それで満足しすぎじゃないか」


 直人が半ば呆れて言うと、澪は静かに笑った。


「満足はしてません」


「してないのかよ」


「かなり嬉しいだけです」


 言い方の問題らしい。


 二人で駅前のベンチに少しだけ座る。

 もうほとんど習慣だった。


 今日は何も買わず、ただ少し休むだけ。

 でもその“ただ少し”が、今の二人にはかなり大きい。


「今日」


 澪が静かに言う。


「七瀬さんのこと、ちゃんと断れますか」


「断るって何を」


「またああいう距離で来た時に」


 直人は少し考える。


 乃愛は悪気がない。

 だから強く切るほどでもない。

 でも、このまま曖昧に受け続けるのも違う気がしていた。


「……必要なら、少しは距離取る」


 そう言うと、澪は少しだけ目を伏せた。


「それで十分です」


 十分。

 またその言葉。


 でも今日は、それが少しだけ本当に“足る”ものとして機能している気がした。


 嫉妬は静かなほど怖い。

 けれど今日は、静かなまま言葉になった分だけ、前より少しだけ扱いやすくなっていた。


 そして直人は、そんなふうに少しずつ形を変えていく澪の感情まで、もう見ていたいと思い始めていた。

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