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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 翡翠


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第20話 私のいないところで決まっていくことが、やっぱり怖い

 榊原澪は、昔から待つのが苦手だった。


 正確には、待った先に自分の望むものが残っていると信じるのが苦手だった。


 小さい頃から、家の中にはいつも静かな緊張があった。

 父は感情を表に出さない人で、母は表情を崩さない人だった。

 怒鳴り声が飛ぶわけではない。物が壊れるわけでもない。

 その代わり、正しさだけがいつも先にあった。


 食事の作法。

 言葉遣い。

 成績。

 身だしなみ。

 人にどう見られるか。


 できて当然。

 崩れないのが前提。

 ちゃんとしていることが、愛される条件というより、そもそも存在していい最低ラインみたいなものだった。


 だから澪は、早いうちから覚えてしまった。


 本音は邪魔になる。

 感情は乱れとして見られる。

 欲しがることは見苦しい。

 そして、少しでも手を離せば、欲しいものは他の誰かに渡ってしまう。


 待っていて手に入ったものなんて、ほとんどなかった。


 大事にしたかった人ほど、気づいた時には離れていた。


 中学の時、唯一少しだけ本音を見せられた友人もそうだった。

 最初は優しかった。

 澪が少しだけ頼ると、笑って受け止めてくれた。

 でもその頼り方が少しずつ重くなった時、相手の目に浮かぶ戸惑いは、ひどく分かりやすかった。


 離れられる。

 そう思った瞬間、澪はさらに相手を見てしまった。気を遣って、埋め合わせようとして、でも余計に苦しくなった。

 そして結局、その子は少しずつ距離を取った。


 責める気にはなれなかった。

 責める資格もないと思った。

 ただその時、澪の中に一つだけ確かな学習が刻まれた。


 本当の自分を見せたら、離れていく。

 だから、先に離れられない形を作らなければいけない。


 それが間違っていることくらい、澪にも分かっていた。

 分かっているのに、怖さの方が勝つ。


 だから今でも、待つのは嫌いだ。


 月曜日の夜、自室の机に向かいながら、澪はスマホの画面を伏せていた。


 今日は何も送っていない。

 送りたい言葉はいくつもあるのに、送っていない。


 放課後、佐伯直人と少しだけ座って話した。

 七瀬乃愛のこと。

 今日は何もしないで嫌がってるだけです、なんて自分でも妙な言い方をした。

 でもあれは本音だった。


 何もせずに嫌がる。

 前の自分なら、そんなことはできなかった。

 気づいた瞬間に先回りして、見えないところで流れを整えて、それでも足りなければ相手の行動を直接止めに行っていたはずだ。


 今日はそれをしなかった。


 しなかった理由は、一つだけだ。


 佐伯くんが、ちゃんと私の方へ帰ってくるだろうなって思えたので。


 自分で口にしたあの言葉を、澪は机の上で何度も反芻していた。


 帰ってくる。

 それは厳密にはおかしな表現だ。

 佐伯直人は誰のものでもないし、誰かの所有物みたいに扱っていいはずがない。


 そんなことは分かっている。

 分かっているのに、あの感覚はどうしても“戻ってきた”としか呼べなかった。


 柊ひよりと買い出しに行った。

 それは嫌だった。かなり嫌だった。

 でも最後に、自分と並んで駅前のベンチに座って、嫌だったと伝えたら、彼はちゃんと聞いてくれた。偉いよ、とまで言ってくれた。


 あれだけで、救われてしまった。


 少し我慢しただけで、ちゃんと見てもらえた。

 そのことが、澪には思っていたよりずっと大きかった。


 机の上には、今日買ったわけでもない古い付箋の束が置いてある。

 淡い色の、小さくて、きちんと揃ったやつ。


 前に佐伯直人が言った。


 お前っぽい。


 その一言を思い出すだけで、澪の胸の奥は少し熱くなる。

 どうでもいい日用品にまで、自分らしさを感じ取られたことが、妙に嬉しかった。


 見られている。

 前は、それが怖かった。

 今は少し違う。


 彼に見られるのは、怖いのに、嬉しい。


 その両方があるから厄介だった。


 コンコン、と軽くドアが鳴った。


「澪」


 母の声だった。


「入るわよ」


 返事を待たずに開くあたりが、いかにもこの家らしい。

 母は上品に整った顔で部屋を見回し、机に広がったノートや問題集を確認してから口を開く。


「勉強は順調?」


「はい」


「そう。来月の模試、順位落とさないようにね」


「分かってる」


 母は満足したように頷く。

 それ以上、娘の顔色や内面を読むようなことはしない。


 その距離感に、澪はもう慣れていた。

 母に悪意がないことも知っている。

 ただ、何より先に求められるのが“整っていること”であるというだけだ。


「それと、今週末はお父さんの知り合いの方が来るから」


「はい」


「失礼のないように」


 それだけ言って、母はドアを閉めた。


 足音が遠ざかる。


 静かな部屋に一人になると、澪はゆっくり息を吐いた。


 失礼のないように。

 当たり前のことだ。

 当たり前なのに、その言葉の中に“あなたなら大丈夫よ”みたいな柔らかさはない。


 できて当然。

 整っていて当然。

 その前提の上にしか、自分は立たされていない。


 だからたぶん、佐伯直人の前にいる時だけ、少しだけ呼吸が楽になる。


 彼は修理しようとしない。

 完璧を要求しない。

 壊れているところに触れても、すぐには離れない。


 あの日、旧校舎の階段でそうだった。


 先生を呼ばない。

 聞かない。

 でも立ち去らない。


 あの時から、世界の前提が少しだけ狂ってしまった。


 本当の自分を見せたら離れていく。

 そのはずだったのに、彼だけが少し違った。


 だから例外にしてしまった。

 例外にしたから、もう手放せなくなった。


 スマホを裏返し、澪は画面を見た。


 メッセージは来ていない。

 来ていなくても、何となく見てしまう。


 送ろうと思えば送れる。

 今日のこと。

 我慢したこと。

 偉いと言われて嬉しかったこと。

 また少しだけ話したいこと。


 でも送らない。


 ここで送ると、また押しすぎる気がした。


 待つのは嫌いだ。

 でも、嫌いなだけで何も学ばないほど子どもでもない。


 彼がちゃんと嫌がるラインを一度見た以上、そこへまた無遠慮に踏み込めば、今度こそ本当に嫌われるかもしれない。

 それは、嫌だ。


 自分でも少しだけ変わったと思う。

 昔なら、怖いと思ったらすぐに確認した。

 他の誰かと話しているのが嫌なら、すぐにその流れを止めに行った。

 でも今は、少しだけ待てる。


 待てる理由があるからだ。


 落ち着くのは、私の方。

 その言葉をくれたから。


 あれは大きい。

 かなり大きい。


 誰かといて楽しいのは、きっと普通だ。

 でも落ち着くのが自分の隣だと言われるのは、もっと深い。

 そこに、澪はかなり救われている。


 だから今日は、ちゃんと待てた。

 待って、嫌だったとだけ言えた。

 それだけで終わらせられた。


 進歩だと思う。

 かなり。


 スマホの画面をぼんやり見つめながら、澪は不意に自分の手を見た。


 金曜日、準備室で紙を棚に戻してもらった時、佐伯直人がすぐ近くにいた。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 その気配を思い出すだけで、指先が少し熱くなる。


 あの時の彼の顔。

 分かんない、と言いながら、完全には逃げなかった目。


 あれも大きかった。


 ゼロじゃない。

 自分が都合よく解釈しているだけではなく、本当に、少しずつ何かがある。


 それが分かるから、余計に欲が出る。


 手を繋ぎたい。

 もっと近くにいたい。

 彼の言葉だけじゃなく、行動で“選ばれたい”。


 でもそこまで行くには、まだ足りない。


 焦るな、と澪は自分に言い聞かせる。

 正しい方に取られるのが一番怖いのなら、ここで自分が間違い方をすれば終わる。


 ひよりはちゃんとしている。

 優しい。

 距離の詰め方も普通だ。

 だから強い。


 自分は普通じゃない。

 だから、普通じゃないまま勝つには、せめて嫌われないようにしないといけない。


 その自覚があるのが、たぶん今の自分の救いなのだろう。


 ベッドに入っても、しばらく眠れなかった。


 天井を見ながら、澪は今日の帰り道を何度も思い出す。


 偉いよ、と言われた声。

 それくらいなら、と言われた時の温度。

 本当だって分かるよ、と言ってもらえた時の静かな安心。


 自分の中の欲望は、相変わらず止まっていない。

 でも、その欲望をそのままぶつけるだけが愛じゃないことも、たぶん少しずつ分かってきている。


 彼が自分の方を見てくれるなら。

 戻ってきてくれるなら。

 少し待てる。

 少しだけなら、我慢できる。


 そう思えることが、今の澪にはかなり大きかった。


 眠りに落ちる直前、最後に一つだけ考えた。


 次に二人で並ぶ時は、もっと普通に笑いたい。

 嫌だった、怖かった、取られたくない、だけじゃなくて。

 ちゃんと、自分の好きなものとして彼の前にいたい。


 その願いは、独占欲より少しだけ静かで、でもたしかに同じ根から伸びている感情だった。

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