第21話 文化祭前夜は、距離が縮まるには都合がよすぎる
木曜日の放課後、校舎の空気はいつもより少し浮き足立っていた。
翌日から文化祭の準備が本格化するせいだろう。教室のあちこちに画用紙や布テープが散らばり、後ろの掲示スペースにはまだ貼り途中の装飾がぶら下がっている。委員の声、机を引きずる音、誰かの笑い声。騒がしいのに、どこか祭りの前の匂いがした。
佐伯直人も今日は帰れなかった。
文化祭の掲示物の最終確認で、担任から軽く雑用を振られたからだ。別に断る理由もなく、直人は自然にそのまま残る流れになっていた。
問題は、榊原澪も残っていることだった。
「このポスター、あと二枚貼れば終わりです」
澪が脚立の横で言う。
「上、届きますか」
「たぶん」
直人はマスキングテープを口にくわえたまま、掲示板の上端に手を伸ばした。あと少しで届く。届くが、微妙に角度が悪い。
「もう少し右です」
「右ってどっちだよ」
「佐伯くんから見て右です」
「今すごい雑な指示されたんだけど」
そう言いながらも、澪の声に合わせて少し位置をずらす。
テープが綺麗に貼られ、ポスターの端がようやく落ち着いた。
「はい、完璧です」
その“完璧です”の言い方が妙に嬉しそうで、直人は脚立を降りながら苦笑した。
「それ、お前が言うと説得力あるな」
「そうですか?」
「完璧って単語に一番似合うし」
何気なく言ったつもりだった。
だが澪は一瞬だけ目を見開き、それからごく小さく視線を逸らした。
「……そういうこと、たまに急に言いますよね」
「何が」
「褒める時だけ無防備です」
その返しに、直人は少しだけ詰まる。
たしかに最近、澪に対して思ったことが口からそのまま出ることが増えた。
前ならもっと警戒していたはずなのに、今は妙に自然に彼女を見てしまうし、見た印象まで言葉にしてしまう。
教室の端では、ひよりたち文化祭委員が机を寄せて資料をまとめていた。
時々こちらを見る気配はある。
でも今日は構っている余裕がないのか、ひよりは積極的には近づいてこない。
そのことに、直人は少しだけ安堵してしまう。
それもまた、自分であまり好きになれない部分だった。
「こっちは終わりました」
澪が教卓の方を見て言う。
担任は別のクラスの装飾確認に呼ばれたらしく、今は教室にいない。
「じゃあ、あとは準備室に戻すだけか」
直人がそう言うと、澪は頷いた。
「はい。でも、その前に」
「前に?」
「少しだけ休みませんか」
そう言って、澪は机の下から紙袋を出した。
「何だそれ」
「購買で買いました」
中から出てきたのは、小さめの紙パック飲料が二つ。
片方はカフェオレ、もう片方はフルーツオレだった。
「またカフェオレか」
「たぶんこれが一番外さないので」
外さない、という表現に、直人は小さく笑った。
もう、自分の好みがかなり澪に把握されていることに驚きはない。
ただ、そこまで見られていることの意味だけは、まだ完全に飲み込めていなかった。
二人で教室の後ろの窓際へ移動する。
ちょうど文化祭で使うパネルが立てかけてあって、少しだけ周囲から死角になる位置だった。完全な二人きりではない。けれど、クラスの喧騒から半歩だけ切り離されたような場所。
「こういうの、好きですね」
澪が小さく言う。
「何が」
「ちゃんと教室にいるのに、少しだけ二人だけみたいな場所」
その表現が、妙に澪らしかった。
「危ない発言だな」
「本当のことです」
紙パックのストローを刺しながら、澪は少しだけ笑う。
直人もカフェオレを受け取り、窓際の壁にもたれた。外は夕方に傾き始めていて、グラウンドの向こうに薄い橙色が差している。教室の中にはまだ人がいるのに、ここだけ妙に静かだった。
「疲れてますか」
澪が聞く。
「ちょっとは」
「顔に出てます」
「またそれか」
「今日は分かりやすいです」
そう言ってから、澪は少しだけ間を置く。
「でも、嫌な疲れ方じゃなさそうです」
「そこまで分かるのかよ」
「たぶん」
言葉の最後を少しだけ柔らかく濁す。
最近の澪は、以前より“断定しすぎない”瞬間が増えた気がする。
もちろん本質的にはかなり決めつける人間なのだろうけれど、直人が嫌がるラインを少しずつ学習しているのが分かる。
「……お前、前よりちょっと引くの上手くなったな」
直人がそう言うと、澪は一瞬だけ目を丸くした。
「褒めてますか」
「半分くらい」
「半分でも嬉しいです」
やはりそう返す。
それから、少しだけ視線を落とす。
「嫌われたくないので」
その一言は、思ったより静かに直人へ届いた。
澪は重い。
かなり重い。
でもその重さの根っこにあるのが、“欲しいから奪う”だけではなく“嫌われたくない”という恐怖でもあることを、直人は最近よく感じるようになっていた。
「……昨日、家でちょっと考えた」
気づけば、直人の方からそんな話をしていた。
澪が顔を上げる。
「何をですか」
「好きなものの話」
昨日の帰り道、自分がそうすると言った。
自分の好きなものをちゃんと考える、という話だ。
「思いつきましたか」
「少しだけ」
「聞いてもいいですか」
「まだ大したものじゃないけど」
直人は紙パックを手の中で少し回す。
「静かな場所は、たぶん嫌いじゃない」
「はい」
「あと、何か……必要以上にうるさくない時間」
「それも分かります」
「それから」
そこで一度言葉が詰まる。
でも、ここまで言っておいて引くのも中途半端だった。
「誰かといても、無理に喋らなくていい感じ」
言ってから、直人は少しだけ視線を逸らした。
それはかなり、澪との時間に近い。
わざわざ言わなくても伝わる気がして、少しだけ気恥ずかしい。
澪はしばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ微笑む。
「よかったです」
「何が」
「それ、私といる時に少し近い気がしたので」
やはり拾う。
しかもまっすぐ拾う。
「そういうとこだぞ」
直人が半ば呆れて言うと、澪は小さく目を細めた。
「違いましたか」
「……違わないけど」
そこまで認めると、澪の表情がほんの少しだけ崩れた。
教室で見せる整った笑顔ではない。
もっと静かで、こぼれるみたいな顔だった。
「今日、それ聞けただけでかなり頑張れます」
「頑張るって何を」
「色々です」
その返しに、直人は思わず笑う。
「便利な言葉だな」
「便利です」
澪も少しだけ笑った。
その時だった。
「佐伯、榊原」
教室の中央から担任の声が飛んできた。
「準備室の鍵、返しといてくれ」
「はい」
二人同時に返事をする。
教卓の上に置かれた鍵を取りに行こうとして、直人と澪はほぼ同じタイミングで足を踏み出した。
そして、ほんの一瞬だけ、手が触れた。
指先同士。
制服越しですらない、短い接触。
「……っ」
どちらが先に引いたのか、自分でも分からなかった。
直人は反射的に手を引き、澪も同じようにわずかに肩を強張らせる。
ほんの一秒にも満たないはずなのに、心臓は馬鹿みたいに大きく鳴っていた。
教室のざわめきは続いている。
誰にも気づかれていない。
でも、二人の間だけ空気が変わってしまったのは明白だった。
「……取れよ」
かろうじてそう言うと、澪は一拍遅れて頷いた。
「はい」
声が少しだけ細い。
直人は教卓の横に視線を逃がした。
何でもないふりをしたかった。
でも、何でもなくできるわけがない。
指先がまだ熱い。
準備室へ向かう廊下でも、二人はしばらく何も話せなかった。
沈黙が妙に近い。
鍵を返し、簡単に残りの資材を片づけ終えた頃には、教室の方もかなり人が減っていた。ひよりたちは先に帰ったらしい。
完全に二人だけになると、余計に空気が濃くなる。
「……さっき」
先に口を開いたのは澪だった。
「わざとじゃないです」
「分かってるよ」
直人は即答した。
「俺も、わざとじゃない」
「はい」
それだけの確認。
でも確認しないと、どこかで何かが暴走しそうだった。
「でも」
澪が続ける。
「少しだけ、びっくりしました」
「俺も」
「嫌でしたか」
その問いは低くて、静かだった。
嫌かどうか。
そんなの、答えられるわけがない。
嫌なら、あんなふうにまだ熱が残っていない。
むしろ逆だ。
だからこそ困っている。
「……嫌ではない」
直人は正直に言った。
その瞬間、澪の喉が小さく動くのが見えた。
「そうですか」
たったそれだけ返す。
でも、その“そうですか”には、かなりいろんな感情が詰まっていた。
「触れたの、一瞬だったのに」
直人がぼそりと言う。
「うるさいくらい意識残るな」
言ってから、少しだけ後悔した。
そこまで言うつもりはなかった。
だが澪は、その言葉をまっすぐ受け取ったらしい。
「……私もです」
声は小さい。
けれど逃げなかった。
「だから、今日はたぶん近づきすぎるとよくないですね」
その判断は、かなり正しかった。
直人は苦笑する。
「自覚あるんだな」
「あります」
「珍しいくらいまともなこと言ってる」
「ひどいです」
そう言いながらも、澪は少しだけ笑う。
その笑い方が、どこか安心したようでもあって、直人はまた胸の奥が熱くなる。
駅へ向かう帰り道は、今日はあまり並ばなかった。
距離を取っているわけではない。
でもいつもより半歩だけ、互いの間隔が広い。
その“半歩”が、逆にさっきの接触をずっと意識させた。
「文化祭、明日からかなり忙しくなりますね」
澪がようやく言う。
「ああ」
「たぶん、二人で落ち着いて話せる時間、減ります」
その言い方に、直人は少しだけ目を細めた。
「寂しいのか」
「かなり」
即答だった。
「でも、仕方ないので」
「お前、最近ほんと我慢覚えたな」
「覚えてないです」
「どっちだよ」
「我慢してるだけです」
その訂正が、澪らしくて少し笑ってしまう。
「でも」
澪は少しだけ視線を落とす。
「今日みたいなのがあると、たぶん何日かは持ちます」
今日みたいなの。
つまり、少しだけ二人で静かな時間を過ごして、指先が触れたあの瞬間まで含めて。
それを、彼女はちゃんと栄養みたいに数えている。
そう思うと、また危うい。
「……それで持つのかよ」
「はい」
「安上がりだな」
「全然です」
澪は真顔で言う。
「かなり高いです」
その返しに、直人は言葉を失った。
高い。
彼女にとって、自分との時間の価値がそれだけ高いということだ。
分かっていたはずなのに、言葉にされるとやはり重い。
そしてその重さに、もうかなり惹かれている自分がいる。
文化祭前夜は、距離が縮まるには都合がよすぎる。
忙しさの中で少しだけ切り取られた静かな時間と、一瞬だけ触れた指先の熱だけで、二人の関係はまた少しだけ先へ進んでしまっていた。




