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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 翡翠


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第30話 クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる

 木曜日の朝、佐伯直人は教室の扉の前で一度だけ立ち止まった。


 理由は、自分でも分かっていた。


 昨日の夜に交わしたメッセージ。

 知ってる。

 だから怒る時は怒る。

 その代わり、好きな時はちゃんと言ってください。

 努力する。

 期待してます。


 あのやり取りのあと、直人はしばらく眠れなかった。


 付き合うことを決めた。

 澪を選んだ。

 そこまでは、もう言葉にしてある。


 でも“付き合う”と決めた次の日から、何がどう変わるのか。

 教室でどう振る舞うのか。

 ひよりにどう向き合うのか。

 そして何より、澪に対してどこまで自分から動けるのか。


 そこはまだ、手探りのままだった。


 扉を開ける。


 教室にはいつもの朝の空気があった。

 文化祭の飾りはほとんど外され、机の位置も元に戻っている。

 非日常の熱が引いて、学校はまた普段の顔に戻ろうとしていた。


 その中に、澪がいる。


 前方の席。

 ノートを出し、何でもない顔で座っている。

 直人が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ目を上げた。


「おはよう、佐伯くん」


 やはり、声は普通だった。


 でも今日は、直人の方が少しだけ違った。


「おはよう、澪」


 名字ではなく、名前で返してしまってから、自分でも一瞬だけ息を呑んだ。


 教室の空気が、ほんのわずかに止まる。

 近くで話していた女子が一瞬だけこちらを見る。

 ひよりも、後ろの席でペンを持つ手を止めた。


 だがその静止はほんの一秒で終わった。


「……おはようございます、佐伯くん」


 澪は一瞬だけ目を見開いたあと、すぐにそれを飲み込むみたいに微笑んだ。


 表情は崩れない。

 でも、その目だけは明らかに揺れていた。


 席に着いた直人の背中を、ひよりが軽く叩く。


「やるじゃん」


 声は小さい。

 でも、そこにあったのはからかいだけではなかった。


「無意識」


「嘘つけ」


「半分は本当」


 ひよりは小さく笑う。


「でも、それでいいと思う」


 その言い方が、ひよりなりの決着のつけ方なのだと直人にも分かった。


 一時間目が始まっても、直人の意識は少しだけ前の席に引っ張られていた。


 名前で呼んでしまったこと。

 澪がそれをどう受け取ったか。

 その全部を考えてしまう。


 だが、前の席の澪は授業中一度も振り返らなかった。

 ノートを取り、教師に当てられれば答え、いつも通り整っている。


 その整い方の奥に、たぶん朝の一言を何度も反芻しているのだろうと想像すると、少しだけ可笑しくて、少しだけ愛おしい。


 昼休み、ひよりが自分の席の横へ来た。


「今日、少しだけいい?」


「今?」


「いや、帰り」


 そう言ってから、少しだけ真面目な顔になる。


「大した話じゃない。終わらせたいだけ」


 直人は一瞬迷ったが、頷いた。


「分かった」


 そのやり取りを、澪が前の席から聞いているのが分かる。

 でも今日は、以前のような鋭い静けさは感じなかった。


 代わりに、ひどく慎重な空気だけがある。

 たぶん彼女も、ここが大事な場面だと分かっているのだろう。


 放課後、教室の人数が減った頃、ひよりは自分から直人を廊下へ呼び出した。


 場所は、特別棟の前でも旧校舎でもない。

 ただ教室のすぐ外、窓際のありふれた廊下だった。


「ここでいいのか」


 直人が聞くと、ひよりは肩をすくめる。


「うん。今日はもう、変にドラマっぽくしなくていいかなって」


 その言い方が、ひよりらしかった。


 窓の外はまだ少し明るい。

 グラウンドから運動部の声が遠く聞こえる。


「で」


 ひよりが直人を見る。


「決まったんでしょ?」


 直人はゆっくり頷いた。


「うん」


「そっか」


 ひよりはそれを聞いて、短く息を吐いた。


「じゃあ、もうちゃんと言って」


 逃げ場のない言い方だった。

 でも、それが彼女の優しさでもある。


「……澪を選ぶ」


 直人がそう言うと、ひよりは少しだけ目を伏せた。


 泣きはしない。

 でも、やっぱり痛いのだろうことは分かった。


「うん」


「必要にされるからとかじゃなくて」


「うん」


「もう、あいつがいない方が嫌だから」


 ひよりは小さく笑った。


「それなら仕方ないね」


 そこで顔を上げる。


「正直、悔しいけど」


「……ごめん」


「だから謝らなくていいって」


 ひよりは苦笑する。


「ちゃんと選んだなら、それでいいよ」


 それから、少しだけ声を柔らかくした。


「私のことも、ちゃんと好きになろうとしてくれたのは分かってるし」


 その一言に、直人は胸が詰まった。


 ひよりはまっすぐだった。

 普通で、優しくて、ちゃんとしていた。

 だからこそ、彼女を選ばなかったことの痛みは、最後まで消えないのだろうと思う。


「でも」


 ひよりが続ける。


「榊原さん選ぶなら、本当に中途半端だけはやめてね」


「分かってる」


「分かってない顔してるけど」


「ひどいな」


「だってあの人、たぶん普通の“彼女”じゃないもん」


 そこは少しだけ笑った。


「分かってるよ」


 直人も苦笑する。


「だろうね」


 ひよりは一歩だけ下がる。


「じゃ、これで終わり」


「終わり?」


「私が引きずるのは勝手だけど、少なくとも変に希望だけ残されるのは嫌だから」


 その言葉に、ひよりの強さが全部詰まっていた。


「ありがとう」


 直人がそう言うと、ひよりは小さく眉を上げた。


「何それ」


「ちゃんと聞いてくれて」


「……まあ、そこは受け取っとく」


 それから最後に、少しだけいつもの顔に戻る。


「でも榊原さん泣かせたら、やっぱ殴るから」


「まだそれ言うのか」


「言うよ。普通に」


 そう言って手を振り、ひよりは今度こそ歩いていった。


 その背中を見送りながら、直人はようやく一つの区切りがついたのだと感じた。


 教室へ戻ると、もうほとんど人はいなかった。


 澪だけが、自分の席に座っていた。

 鞄も閉じてある。

 たぶん待っていたのだろう。


 直人が近づくと、澪は静かに立ち上がる。


「柊さんと、話せましたか」


「うん」


「……そうですか」


 聞きたいはずなのに、澪はそこで止まる。

 前ならもう一歩踏み込んでいたかもしれない。

 それをしないのは、彼女なりの我慢なのだろう。


「ちゃんと伝えた」


 直人の方から言う。


「お前を選ぶって」


 澪の呼吸が、目に見えて浅くなる。


「……はい」


「で、ひよりにもちゃんと伝わった」


「はい」


「だから」


 直人は一歩、彼女の前へ出る。


「これで、ちゃんと終わった」


 その一言で、澪の中の何かがほどけたのが分かった。


 彼女は少しだけ目を閉じて、それからゆっくりと開く。


「……ありがとうございます」


「何で礼言うんだよ」


「ちゃんと、選んだ後のことまでしてくれたので」


 その言い方が、妙に胸に響いた。


 選ぶ、だけじゃなく。

 選んだ後にどう責任を取るかまで見ている。

 それはきっと、これまで彼女が欲しかった“選ばれ方”の形なのだろう。


「じゃあ」


 直人が少しだけ息を吐く。


「帰るか」


「はい」


 二人で教室を出る。

 廊下を歩き、階段を下り、昇降口へ向かう。


 誰もいない踊り場の途中で、澪が小さく言った。


「今日、名前で呼んでくれたの」


「……うん」


「かなり嬉しかったです」


 やはりそこを拾う。


「無意識半分って言っただろ」


「でも、半分は意識ですよね」


「まあ」


「じゃあ、十分です」


 またその言葉。

 でももう、直人には分かる。

 澪の“十分”は、その時点での最大級の幸福を示しているだけで、決してそれで満たされきるわけではない。


 校門を出る頃には、空は夕暮れ色に染まっていた。


 人通りは少ない。

 学校帰りの生徒たちももうまばらだ。


 自然に、二人の手が近づく。

 昨日みたいに確認しなくても、今度はちゃんと重なった。


 繋いだ瞬間、澪がほんの少しだけ息を止める。

 でも今日は昨日より早く、落ち着きを取り戻した。


「慣れたか」


 直人が聞くと、澪は小さく首を振る。


「全然です」


「そうか?」


「でも」


 少しだけ目を細める。


「昨日より安心してます」


 その違いが、きっと大きい。


 駅前へ向かう道の途中、澪がふと聞いた。


「これから、どうしますか」


「何が」


「私たちです」


 その問いは、かなり本質的だった。


 直人は少し考えてから答える。


「普通には、たぶんならないだろ」


「はい」


「でも、変なふうにもしたくない」


「はい」


「だから、お前がやりすぎたら止める」


 澪は少しだけ笑った。


「怒る時は怒る、ですね」


「そう」


「分かりました」


「その代わり」


 直人は続ける。


「お前も、ちゃんと嫌なこととか不安なことは言え」


 澪が目を瞬く。


「言ってますよ」


「言う前に行動で壊すなって意味」


 そう言うと、澪は一瞬だけ黙ったあと、素直に頷いた。


「……努力します」


「努力かよ」


「でも、前よりはできます」


 その返しが妙に真面目で、直人は苦笑した。


 駅前のベンチに少しだけ座る。


 文化祭が終わって、学校は普通に戻っていく。

 でも自分たちは、もう前の普通には戻れない。


 それを、直人は不思議と怖いとは思わなかった。


 むしろ、そこにしかもう自分の落ち着く場所がない気すらする。


「佐伯くん」


「ん?」


 澪が繋いだ手を少しだけ見下ろしながら言う。


「私、本当に重いので」


「知ってる」


「たぶんこれからも、普通の恋人みたいにはなれないです」


「そこも知ってる」


「それでも」


 少しだけ言葉を探す。


「たぶん、前よりはちゃんとします」


 その宣言が、妙に可笑しくて、でも真剣で、直人は少し笑ってしまった。


「前よりは、な」


「はい。前よりはです」


「十分じゃないのか」


 そう返すと、澪はほんの少しだけ口元を緩めた。


「十分って言うと、満足してるみたいなので」


「違うのかよ」


「かなり嬉しいだけです」


 その返しに、直人はまた笑う。


 いつもの澪だ。

 でも、選ばれたあとの澪でもある。


 立ち上がって、改札の前まで来る。

 別れる前に、澪がこちらを見る。


「最後に、一つだけ聞いてもいいですか」


「何」


「これからも」


 少しだけ目を伏せる。


「好きな時は、ちゃんと言ってくれますか」


 昨日のメッセージの続きだった。


 直人は一瞬だけ言葉に詰まる。

 たしかに、それはまだ苦手だ。

 思っていることをそのまま言うのは、澪ほど得意じゃない。


 でも、ここで逃げるのは違うと思った。


「……慣れてないから、たぶん下手だけど」


「はい」


「ちゃんと言うようにはする」


 そう答えると、澪はじっと直人を見たあと、静かに笑った。


「じゃあ、私も待ちます」


「待てるのか」


「前よりは」


「そればっかだな」


「大事なので」


 そう言ってから、ほんの少しだけ手を引く。


「じゃあ、もう少しだけ独り占めしてもいいですか」


 やはり最後はそこに戻る。

 直人は呆れ半分で息を吐いた。


「少しだけ、な」


 澪は首を傾げる。


「たぶん、また無理です」


「知ってるよ」


 その返事に、澪の笑みが少しだけ深くなる。


 クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。


 でもたぶん、それだけじゃない。

 僕もまた、彼女の前では少しずつ普通ではいられなくなっている。


 それでもいいと、いまは思う。


 危うさも、重さも、ちゃんと知った上で。

 それでも一緒にいたいと思ってしまう相手を、僕は選んだのだから。

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