第29話 選ばれたあとも、たぶん僕たちは普通にはなれない
手を繋いだまま旧校舎の階段を下りた時、佐伯直人はようやく、自分が本当にとんでもないことをしたのだと実感した。
いや、したかったことをした、という方が正しいのかもしれない。
榊原澪を選ぶ。
それを言葉にする。
しかも、手まで繋いでいる。
冷静に考えればかなり一気に進みすぎている気もするが、いまさら戻せるものでもない。
隣を歩く澪は、さっきから妙に静かだった。
いつもの静けさとは少し違う。
もっと内側に熱を抱えたまま、どう扱っていいか分からない沈黙だ。
「……大丈夫か」
直人が聞くと、澪は一瞬だけ目を瞬いた。
「何がですか」
「いや、その」
繋いだ手を少しだけ見る。
「固まってるから」
そう言うと、澪はほんの少しだけ視線を落とし、自分の手元を見た。
「……たしかに」
声がまだ少し細い。
「現実感がなくて」
「俺は逆に、ありすぎて困ってる」
そう返すと、澪は小さく笑った。
その笑い方は、教室で見せる整ったものではなく、本当に少しだけ肩の力が抜けた時のものだった。
「そうですか」
「そうだよ。お前は?」
「私は」
澪は少し考えるように間を置く。
「現実感がないのに、嬉しさだけはすごくあります」
その表現があまりに澪らしくて、直人は思わず苦笑する。
「器用なのか不器用なのか分かんないな」
「どっちもだと思います」
即答だった。
そのあと、校舎を出るまで二人はほとんど何も話さなかった。
けれど沈黙は苦しくなかった。
繋いだ手の熱だけで、会話の半分くらいは足りてしまっている感じがした。
校門を出る頃には、空はかなり暗くなり始めていた。
部活帰りの生徒たちがちらほらいるが、もう文化祭後の片づけで遅くなった生徒くらいしか見かけない。
こんな時間に、こんなふうに並んで歩くのは初めてだった。
いつもと同じ道なのに、景色の見え方が少し違う。
それは隣にいる相手が変わったからではなく、関係の意味が変わったからだろう。
「……なあ」
直人が口を開く。
「はい」
「これ、明日からどうすればいいんだ」
その問いに、澪は少しだけ首を傾げた。
「何がですか」
「全部だよ」
思わずそう言う。
「教室でどうするとか、帰りどうするとか、ひよりに何て言うとか」
現実的な問題は、一気にそこへ寄ってきた。
気持ちは決まった。
澪を選ぶことも、自分が彼女といたいことも、もうはっきりしている。
でも、だからといって次の日から突然“恋人らしい顔”ができる自信は、直人にはあまりなかった。
澪はその問いを聞いて、少しだけ考えるように視線を落とした。
「教室では」
「うん」
「たぶん、今まで通りの方がいいと思います」
「今まで通り?」
「はい。いきなり変わると、色々面倒なので」
その答えはかなり冷静だった。
「お前、こういう時だけ妙に現実的だな」
「現実的じゃないと、たぶんすぐ壊すので」
その一言に、直人は少しだけ胸が引っかかった。
壊す。
彼女はやっぱり、自分の危うさをちゃんと分かっている。
「でも」
澪が続ける。
「帰り道とか、誰も見てないところでは、少しだけ変わってもいいです」
「少しだけ、な」
「はい。少しだけです」
そう言いながら、繋いだ手にまた少しだけ力が入る。
「もう全然少しじゃない気がするけど」
「それは気のせいです」
「絶対違うだろ」
ようやく、少しだけいつもの調子が戻ってきた。
駅前の信号で立ち止まると、澪がふと聞いた。
「柊さんには、どうしますか」
その名前が出た瞬間、直人の胸は静かに重くなった。
ひよりには、もうほとんど見抜かれている。
いや、見抜かれているどころではない。
彼女が最後にくれた言葉があったからこそ、自分はここまで来られた部分すらある。
「ちゃんと言う」
直人はそう答えた。
「誤魔化すのは違うと思うし」
「そうですね」
澪は頷く。
それ以上何かを言うかと思ったが、彼女は黙った。
「……何だよ」
「いえ」
「顔が何か言いたそうだけど」
澪は少しだけ迷うようにしてから、静かに口を開いた。
「ちゃんと、嫉妬します」
あまりに率直だったので、直人は一瞬言葉を失った。
「先に言っとくのかよ」
「大事なので」
信号が青になり、二人は歩き出す。
「でも」
澪が続ける。
「だからって、もう勝手に何かするのはやめます」
「……ほんとか」
「努力します」
「この前それで失敗してただろ」
「今回は少し違います」
澪は少しだけ目を細める。
「だって、もう選ばれてるので」
その言い方がまた、妙に胸を打つ。
選ばれている。
その事実は、彼女にとってどれほど大きいのだろうと考える。
今までの澪は、選ばれる前に繋ぎ止めようとしていた。
選ばれないかもしれない怖さが先に来るから、先回りして、整えて、逃げ道を潰そうとする。
でも今は違う。
少なくとも“選ばれた”という事実が、彼女の中に一つの支点として生まれている。
「だから」
澪は少しだけ声を和らげる。
「前よりは、ちゃんと我慢できると思います」
「前よりは、って付くのが怖いんだよな」
「消すと嘘になるので」
そこは相変わらず正直だった。
駅前に着く頃には、手を繋いでいることにも少しだけ慣れてきていた。
慣れてきたと言っても、意識しなくなったわけではない。
ただ、最初の頃のような緊張で固まる感じは少し薄れて、代わりに変な安心感が出てきている。
それがまた危ない気もするが、いまはその危なさごと受け入れるしかなかった。
改札前で、二人は足を止めた。
別れなければいけない。
当然のことなのに、今日はそれが少しだけ惜しい。
「……帰ったら、連絡してもいいか」
直人がそう聞くと、澪はわずかに目を見開いた。
「いいんですか」
「聞いたの俺だけど」
「いえ、そうじゃなくて」
澪は少しだけ嬉しそうに目を細める。
「自分から言ってくれると思わなかったので」
その反応が、妙に新鮮だった。
ずっと追いかけてくる側だった彼女が、いまは直人の小さな能動にいちいち揺れている。
その立場の変化が、二人の関係が本当に変わったことを示していた。
「じゃあ、連絡する」
「はい」
「あと」
澪は少しだけ言いにくそうに間を置く。
「今日のこと、何回か思い出してもいいですか」
「……そこ聞く?」
「聞きます」
「別に、好きにしろよ」
直人がそう返すと、澪は繋いでいた手をほどく前に、ほんの少しだけ指先に力を込めた。
「ありがとうございます」
その礼の言い方は、いつもよりずっと柔らかかった。
家に着いたあと、直人は制服のまましばらく自室のベッドに腰かけていた。
手のひらに残る感触が、まだ消えない。
不思議なくらい、そこだけが熱を持っている。
スマホを取り出す。
何を送ればいいのか少し迷った。
さっき別れたばかりだ。
それなのに、もう何か言葉を送りたくなっている。
結局、直人が打ったのはひどく短い文だった。
『今日はありがとう』
送信してから、あまりにも味気なかったかと思った。
だが既読はすぐにつき、返事はもっと早かった。
『こちらこそ、ありがとうございます』 『まだ夢みたいです』
その二通を見た瞬間、直人は少しだけ息を吐いた。
夢みたい。
たぶん、それは澪だけじゃない。
自分だってまだ半分は現実感がない。
それでも、嬉しいと思っている。
そこはもう、疑いようがなかった。
少しして、もう一通届く。
『でも』 『選ばれたあとも、たぶん私は普通にはなれません』
直人はその文を見て、思わず苦笑した。
やっぱり最後はそこに戻るのかと思う。
けれど同時に、その正直さこそが澪なのだとも思う。
直人は少しだけ考えてから、返した。
『知ってる』 『だから怒る時は怒る』
送信すると、しばらく間があいた。
やりすぎたかと思った頃に、返事が来る。
『はい』 『その代わり、好きな時はちゃんと言ってください』
画面を見たまま、直人はしばらく動けなかった。
それはかなり難しい要求だった。
でも、たぶん彼女にとっては必要な言葉なのだろう。
怒るだけじゃなく、好意も見える形で示してほしい。選ばれたという実感を、これからもちゃんと与えてほしい。
それに対して、いまの直人が返せる言葉は一つしかなかった。
『……努力する』
送ると、すぐに既読がつく。
『期待してます』
その四文字に、思わず声が漏れそうになった。
「もう始まってるな……」
苦笑しながらスマホを伏せる。
選ばれたあとも、たぶん僕たちは普通にはなれない。
でも、それでいいのかもしれないと思ってしまっている自分が、もうそこにいた。




