第28話 選ばれるのを待てない彼女を、今度は僕が追いかける
放課後のチャイムが鳴ってから、教室の空気はいつもより遅くほどけていった。
文化祭明けの疲れがまだ残っているのか、誰もが少しだけ動きが鈍い。教科書をしまう音、椅子を引く音、誰かの小さな笑い声。それらが全部ゆっくり流れていく中で、佐伯直人は自分の鼓動だけが妙に速いことを自覚していた。
必要にされたいんじゃない。
もう、お前がいい。
そこまではっきり自分で認めた以上、もう次にやるべきことは決まっている。
なのに、いざとなると喉が詰まる。
前の席で、澪は静かにノートを鞄へしまっていた。
こちらから「帰り、少し時間あるか」と言ったあとも、彼女は特に何も変わらない顔で「あります」とだけ返した。
でも、変わっていないはずがない。
直人だって、いまこうして椅子に座ったまま、立ち上がるタイミングすら測りかねているのだから。
「先、行くね」
ひよりが教室の出口のところでそう言った。
こちらを見ているようで、でも真っすぐには見ていない。
その距離感がひよりらしいと思う。
「うん」
直人が返すと、ひよりは少しだけ口元を緩めた。
「ちゃんとね」
それだけ残して、教室を出ていった。
ちゃんとね。
短い一言だった。
でも、その中に込められているものはかなり重い。
中途半端にするな。
選ぶなら最後まで選べ。
たぶん、そういう意味だ。
教室の人数がさらに減っていく。
澪が立ち上がった。
「行きますか」
声は静かだった。
いつものように穏やかで、でもどこか慎重だ。
「……うん」
直人も立ち上がる。
二人で教室を出て、廊下へ出たところで、直人は一瞬だけ迷った。
どこへ行くべきか。
校門へ向かって、そのまま駅前へ出るのが一番自然だろう。
でも今日話したいことは、あまりに大きい。
駅前の雑踏では無理だと直感した。
「澪」
「はい」
「少し、こっち」
そう言って、直人は特別棟の方ではなく、旧校舎へ続く渡り廊下の方へ足を向けた。
澪の足が一瞬だけ止まる。
その反応だけで、直人にも分かった。
彼女も、あの日を思い出している。
雨の日。
旧校舎の階段。
壊れかけていた彼女を初めて見つけた場所。
そこから、全部が始まった。
渡り廊下は夕方の光の中で静まり返っていた。
窓の外には薄い橙色が差し、床に長い影が落ちている。
人の気配はほとんどない。
「……ここ」
澪が小さく言う。
「覚えてる?」
直人が聞くと、澪はゆっくり頷いた。
「忘れるわけないです」
その声が少しだけ細い。
旧校舎側の階段まで来ると、二人は自然に足を止めた。
あの日と違って雨は降っていない。
空気も穏やかだ。
でも、この場所に立つだけで、胸の奥に沈んでいたものがいくつも浮かび上がってくる。
澪が先に口を開いた。
「何の話ですか」
聞き方は静かだ。
だが、その目にはかなり強い緊張がある。
当然だろう。
これまでの流れなら、ここで直人が改めて距離を置く話をする可能性だってある。
むしろ、彼女からすればそちらの方が自然かもしれない。
だからこそ、直人は変に遠回しにしたくなかった。
「この前」
「……はい」
「もうやめるって言っただろ」
澪の指先が、制服の裾をわずかに握る。
「はい」
「あれ、正しかったと思う」
そこは、まずはっきり言わなければいけない。
乃愛への介入。
ひよりとの流れを壊そうとしたこと。
見えないところで相手との距離を操作するやり方。
それは駄目だった。
そこを曖昧にしたまま進めば、たぶんまた同じことになる。
澪は顔を上げないまま、小さく答える。
「分かってます」
「でも」
直人は続けた。
「お前がいきなり普通に戻るのも、違った」
その一言で、澪の肩がわずかに揺れた。
直人は自分の喉が乾いていくのを感じながら、言葉を探す。
「昨日、一昨日、ずっと落ち着かなかった」
「……」
「楽になった感じもしなかった」
澪は何も言わない。
でも、耳だけがこちらの言葉に全神経を向けているみたいだった。
「最初は、必要にされないのが物足りないだけかと思った」
そこは正直に言うべきだった。
「でも違った」
ようやく澪が顔を上げる。
目が合う。
その目には、まだ信じきれない人間の慎重さがある。
「お前がいない感じが、嫌だった」
言葉にした瞬間、胸の奥の何かが少しだけ整う。
これだ、と直人は思った。
必要にされることの気持ちよさではなく、もっと具体的な不在への拒絶。
「朝、挨拶しかないのも」
「……」
「放課後、何も言われないのも」
「……」
「先回りされないのも、全部」
そこで少しだけ苦笑する。
「本来なら楽になるはずなのに、全然そうならなかった」
澪は瞬きすら忘れたみたいに、ただ直人を見ていた。
ここまで来たら、もう止める意味はない。
「ひよりに言われたんだよ」
直人が言う。
「必要にされたいんじゃなくて、その人だから離れたくないのかって」
その言葉に、澪の喉が小さく動く。
「……はい」
「ずっと、そこ誤魔化してた」
自分でそう言うと、少し情けなかった。
でも本当だ。
必要にされるのが心地いい。
それはたしかにある。
だからこそ、その気持ちよさに流されているだけかもしれないと、自分で自分に言い訳していた。
「でも、もう違うって分かった」
直人ははっきりと言う。
「必要にされたいからじゃない」
そこで一度だけ息を吸う。
「もう、お前がいい」
静かな旧校舎の階段に、その言葉だけが落ちた。
好き、とはまだ言っていない。
でも、それよりたぶんよほど具体的で、逃げ道のない言葉だった。
澪はすぐには反応しなかった。
何秒か、ただ目を見開いたまま立っている。
そのあと、ようやく掠れた声が出た。
「……それ」
声が震えている。
「いま、そういう意味で受け取っていいですか」
またそれだと思う。
期待していい言葉ですか。
聞いていい言葉ですか。
彼女はいつも、最後の一線だけはこちらに確認する。
それが、いまは少しだけ愛おしかった。
「都合よく解釈するなって、前は言ったけど」
直人がそう言うと、澪の目がわずかに揺れる。
「今日は、いい」
その一言が、澪の中でどう響いたのかは、表情を見れば十分だった。
完璧な榊原澪の顔が、ゆっくりと崩れる。
泣くわけではない。
でも、ずっと張りつめていたものが少しだけ緩んだ顔だった。
「……だめです」
なのに、返ってきたのはそんな言葉だった。
「何が」
「それ、ちゃんと全部言ってもらわないと、私」
澪はかすかに首を振る。
「また都合よく拾って、勝手に期待して、また重くなります」
そこまで言うのか、と思う。
でも、たぶんそれが彼女の誠実さなのだろう。
曖昧な好意の断片だけで生き延びられる人間ではない。
だからこそ、最後のところはちゃんと選ばれたいのだ。
「……分かったよ」
直人は苦笑した。
「そこまで言うなら、ちゃんと言う」
澪は黙って待っている。
その待ち方が、必死なのに静かで、直人は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「重いのも知ってる」
「……」
「普通じゃないのも知ってる」
「……はい」
「勝手に先回りするのも、怖いくらい見てくるのも、分かってる」
そこまで言ってから、一歩だけ近づく。
「それでも、いない方が嫌だ」
澪の呼吸が目に見えて浅くなる。
「だから」
ここまで来たら、もう一つしかなかった。
「俺は、お前といたい」
告白というには少し不器用で、でも今の直人にはそれが精一杯だった。
綺麗な言葉より、たぶんずっと本音に近い。
澪はしばらく動かなかった。
それから、ようやく小さく息を吸う。
「……それ」
声が震えている。
でも、今度は逃げない。
「私のこと、選んでるって思っていいですか」
「いいよ」
直人はすぐに答えた。
「ちゃんと選んでる」
その瞬間、澪がほんの少しだけ俯いた。
泣くのかと思った。
でも違った。
次に顔を上げた時、そこにあったのは、直人が今まで一度も見たことのない表情だった。
嬉しい。
怖い。
信じたい。
まだ信じきれない。
その全部が同時に浮かんでいる。
「……私」
澪が言う。
「たぶん、いま人生で一番うれしいです」
その言い方が、あまりに澪らしくて、直人は思わず笑ってしまった。
「大げさだな」
「大げさじゃないです」
澪は小さく首を振る。
「だって今まで、こういうのって」
少しだけ言葉に詰まる。
「ちゃんと選ばれる前に、壊れて終わるものだと思ってたので」
その一言が、直人の胸に静かに刺さる。
彼女にとってこれは、ただの恋愛成立じゃない。
重さを隠しきれない自分ごと、選ばれるということなのだ。
直人はさらに一歩、距離を詰めた。
手を伸ばせば触れられる。
あの日から何度も意識してきた距離だ。
「……澪」
「はい」
「もう一回だけ確認するけど」
「何ですか」
「俺、まだお前の重さ全部捌ける自信あるわけじゃない」
そこは言っておくべきだと思った。
綺麗ごとだけで始めれば、たぶんまたいつか歪む。
「それでもいいか」
澪は、ほんの少しだけ目を細めた。
「それ、確認になってないです」
「何で」
「それでもいいかって聞いてる時点で、もう十分優しいので」
「ずるい返しするなよ」
「佐伯くんにだけは言われたくないです」
そう言って、澪は少しだけ笑う。
やっと、少しだけいつもの澪に戻った気がした。
「いいです」
そして、はっきりと頷く。
「全部完璧にできなくても」
「うん」
「でも、途中でちゃんと怒ってください」
その頼み方は、予想よりずっと真面目だった。
「また駄目なことしたら」
「……」
「今みたいに、ちゃんと止めてください」
それはたぶん、澪なりの条件だった。
歪んだまま甘やかされるのではなく、境界線ごと受け入れられたいという。
「分かった」
直人がそう答えると、澪は少しだけ安堵したように息を吐いた。
沈黙が落ちる。
でも今の沈黙は、前とは違った。
逃げ道のない言葉を交わしたあとに残る、少しだけ甘い沈黙だった。
直人はふと、自分の右手を見た。
何度も意識してきた。
準備室で一瞬触れた指先。
手を伸ばせば届く距離。
「……手」
思ったより自然に口から出た。
澪が目を瞬く。
「手?」
「嫌じゃなければ」
そこまで言うと、さすがに少し恥ずかしくなる。
「……繋ぐ?」
澪は完全に固まった。
それから、信じられないものでも見るような顔で直人を見る。
数秒遅れて、ようやくほんの小さく頷いた。
「嫌じゃないです」
その声が、また少し掠れていた。
直人はゆっくりと手を伸ばす。
澪も同じように手を出す。
指先が触れ、次に、ちゃんと重なる。
想像していたより少し冷たくて、でもすぐに熱が移る。
たったそれだけなのに、胸の奥がひどく静かに満たされる感じがした。
澪は繋いだ手を見下ろして、しばらく動かなかった。
やがて、ほとんど吐息みたいな声で言う。
「……ほんとに」
「ん?」
「選ばれたんですね、私」
その言葉に、直人は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「そうだよ」
ちゃんと答える。
「俺が選んだ」
澪は目を閉じるみたいにして、小さく笑った。
泣いてはいない。
でも、たぶん彼女の中ではかなりぎりぎりだったのだろう。
「じゃあ」
澪が繋いだ手に少しだけ力を込める。
「もう少しだけ、独り占めしてもいいですか」
やっぱり最後はそれかと思って、直人は苦笑した。
「少しだけ、な」
そう返すと、澪はすぐに首を振った。
「たぶん無理です」
その返しが、ひどく澪らしくて、直人はとうとう声を出して笑ってしまった。
選ばれるのを待てない彼女を、今度は僕が追いかける。
その形に、ようやくたどり着いた気がした。




