第27話 必要にされたいんじゃない。もう、お前がいい
水曜日の朝、佐伯直人は目覚ましが鳴る前に起きた。
最近ずっとそうだったが、今日は少しだけ質が違った。眠れなかったわけではない。むしろ、いつもより深く落ちていた気さえする。その代わり、目を開けた瞬間からはっきりした感覚が胸の中に残っていた。
もう、誤魔化しきれない。
昨日一日、榊原澪が“普通のクラスメイト”としてしかこちらに接してこなかっただけで、あれほど落ち着かなかった。朝の挨拶だけ。余計な一言もない。先回りもない。帰り道も別。たったそれだけなのに、日常の輪郭がずれているようだった。
必要にされないのが寂しいだけだ。
そう思おうとして、無理だった。
必要にされたいなら、他の誰かでも埋まるはずだ。
でも昨日、自分が失くした気がしていたのは、もっと具体的で、もっと澪そのものに結びついた感覚だった。
机の横で振り返ってくること。
言いすぎるくらい気にかけてくること。
嬉しいと、怖いくらい素直に言うこと。
少し重すぎる愛情を、器用に隠しきれないこと。
あれがないことが、嫌だった。
キッチンへ行くと、母はもう起きていた。
「珍しいね、早い」
コーヒーを淹れながらそう言う。
「最近ずっとだろ」
「最近ね。何か学校楽しいの?」
その問いに、直人は一瞬だけ手を止めた。
楽しい。
それもたぶん、嘘ではない。
いや、正確には学校そのものではなく、その中にいる特定の一人のせいで、というべきかもしれない。
「まあ、文化祭終わったし」
曖昧にそう返すと、母はふうんとだけ言って、それ以上は聞かなかった。
その距離感に救われる時もある。
でも今朝は、逆に少しだけ物足りなかった。
自分の内側に起きている変化に、誰も気づかない。
気づかなくて当然なのに、そういうところまで読んでくる相手を知ってしまったせいで、余計にそう感じるのかもしれない。
教室に入ると、澪はすでに席にいた。
昨日と同じ。
前方の席、静かな横顔、整った空気。
目が合う。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
やはり、それだけ。
でも今日は、その一言だけで胸がきつくなることはなかった。
代わりに、もっと別のものが静かに固まりつつある感じがした。
席に着くと、ひよりが後ろから小さく机を叩く。
「顔、昨日よりマシ」
「そうか?」
「うん。代わりに、何か決まりかけてる顔してる」
鋭い。
相変わらず、嫌になるくらい鋭い。
「……そんな分かるか」
「分かるよ」
ひよりは少しだけ笑ったあと、声を落とす。
「昨日、ちゃんと考えた?」
「考えた」
「で?」
直人はすぐには答えなかった。
答えはかなり近いところまで来ている。
でも、それをひよりに言うことは、ひより自身を傷つけることでもある。
その逡巡を見て、ひよりは小さく息を吐いた。
「私に気を遣って濁すなら、それでもいい。でも」
少しだけ視線を和らげる。
「自分にだけは濁さない方がいいよ」
その一言は、妙にまっすぐだった。
一時間目が始まっても、直人の頭の中にはその言葉が残っていた。
自分にだけは濁さない。
たしかにそうだ。
ひよりへの遠慮や、澪への警戒や、いろんな理由で言葉にするのを避けてきた。
でも、自分の中でだけでも認めなければ、この先ずっと半端なままだ。
昼休み、ひよりは珍しく自分から声をかけてこなかった。
少し離れた席で友人と話している。
ただ、時々こちらを見る。
それは確認の視線ではなく、待つ視線に近かった。
一方で、澪は今日も静かだった。
前の席で、必要な時だけ周囲と話し、自分には朝の挨拶以外ほとんど何も向けてこない。
その静けさが、やっぱりきつい。
気づけば、直人は前の席の背中ばかり見ていた。
黒髪の流れ方、ノートを取る肩の動き、休み時間にペンを持ち替える指先。
見ていたいと思ってしまう。
それはもう、ただの承認欲求では説明できない。
五時間目が終わったあと、ひよりが直人を呼んだ。
「ちょっとだけ、いい?」
その声で、教室の空気が少しだけ変わった気がした。
澪も一瞬だけこちらを見る。
でも、何も言わない。
ひよりに連れられて行ったのは、特別棟へ続く渡り廊下だった。
ここ最近、二人きりで話す場所として何度も使っているせいで、妙に意味が出てしまっている。
「今日で最後の確認ね」
ひよりがそう言う。
「何の」
「私が聞くの」
直人は黙った。
ひよりは壁にもたれ、腕を組んだままこちらを見る。
その顔に無理な明るさはなかった。
「昨日の佐伯、かなり答えに近い顔してた」
「……」
「だから、もう聞く」
少しだけ間を置く。
「必要にされたいんじゃなくて、榊原さんだから離れたくないって、思ってる?」
その問いは、避けようがなかった。
ひよりは最初から、ずっとそこを見ていたのだ。
必要にされる快感に流されているだけなら、まだ間に合う。
でも、相手そのものを欲しがっているなら、それはもう別だと。
直人は、しばらく何も言えなかった。
ただ、答えは胸の奥にはっきりあった。
昨日、澪がいない一日を過ごして感じた空洞。
それは“必要にされない寂しさ”ではなかった。
もっと個人的で、もっと名前を持った欠落だった。
「……思ってる」
ようやく、そう言う。
自分の声が思ったより静かで、逆にその本気さが分かった。
「もう、たぶんそこは誤魔化せない」
ひよりは目を閉じて、一度だけ深く息を吸った。
泣くかもしれないと思った。
でも彼女は泣かなかった。
「そっか」
短い一言。
その中に、理解と、痛みと、少しの諦めが全部入っていた。
「……ごめん」
直人が言うと、ひよりは首を振る。
「謝らないで」
「でも」
「だって、ちゃんと答えてくれたんだから」
それから、少しだけ笑う。
「私、薄々分かってたよ。文化祭の日に、誰探してるか見たあたりから」
ひよりの笑い方は、いつもの軽さより少しだけ弱かった。
でも、無理に壊れた顔を見せないところがひよりらしかった。
「普通に考えたら、私の方が安全なんだろうなって思ってた」
ぽつりと続ける。
「一緒にいて楽だし、変な先回りもしないし、誰に見られても説明つくし」
「……」
「でも、そういうのって理屈じゃないんだね」
直人は何も言えなかった。
理屈ではない。
まさにその通りだった。
ひよりの方が正しい。健全だ。選びやすい。誰に見せても問題ない。
それでも、心が向いてしまう先は別だった。
「私さ」
ひよりは少しだけ視線を落とす。
「ちゃんと好きだったよ」
その一言が、直人の胸に強く刺さる。
「知ってる」
「うん。じゃあ、いいや」
ひよりはそう言ってから、顔を上げた。
少しだけ目が赤い。
でも、泣いてはいない。
「一個だけ、最後に言う」
「何」
「選ぶなら、ちゃんと最後まで選んで」
その声は、優しいのに逃げ道がなかった。
「中途半端に優しくして、結局誰も幸せにならないのが一番嫌い」
それは、たぶんひより自身の願いでもあった。
直人はゆっくり頷く。
「……分かった」
「うん」
ひよりは小さく笑う。
「じゃあ、私はもうこれ以上は言わない」
そこで一歩だけ引く。
「でも、もし榊原さん泣かせたら、普通に殴るから」
「物騒だな」
「冗談半分」
そう言って、ひよりはくるりと背を向けた。
その背中が思ったよりまっすぐで、直人は余計に胸が痛んだ。
ひよりが渡り廊下の向こうへ消えたあと、しばらく動けなかった。
必要にされたいんじゃない。
もう、お前がいい。
言葉にすれば、たぶんそうだった。
澪だから、気になる。
澪だから、いなくなるのが嫌だ。
澪だから、あの重さも、危うさも、全部ひっくるめて見てしまう。
そこまで認めてしまうと、次にやるべきことは一つしかない気がした。
教室へ戻ると、澪はまだいた。
前の席でノートをしまっている。
直人が入ってきたのに気づくと、一瞬だけ目を上げる。
その目にはまだ、距離があった。
当然だ。
自分が引かせたのだから。
「……澪」
名前で呼ぶと、彼女の手が止まった。
「はい」
「今日、帰り」
そこまで言って、一度言葉が詰まる。
でも、もう止まる理由もなかった。
「少し、時間あるか」
澪は数秒、直人を見ていた。
驚いている。
でも、すぐには喜ばない。
たぶん、また期待して傷つくことを怖がっているのだろう。
「あります」
小さく、そう答える。
「じゃあ、あとで」
「……はい」
それだけで充分だった。
ひよりの言う通りだ。
選ぶなら、ちゃんと最後まで選ばなければいけない。
そして今の直人には、その方向しかもう残っていない気がしていた。




