第26話 静かな日常に戻ったはずなのに、何も戻っていない
火曜日の朝、佐伯直人は目覚ましが鳴る前に目を開けた。
眠れなかったわけではない。
けれど深く眠れた感じもなかった。
目を開けた瞬間から、昨日の教室の空気がそのまま胸の中に残っている。
おはよう、だけ。
それ以外の何もない朝。
前ならそれが普通だったはずなのに、今はその“普通”がやけに空っぽに感じられる。
「……ほんと、最悪だな」
布団の中で小さく呟く。
自分で線を引いた。
だから今の静けさは、当然の帰結だ。
それなのに、こんなにも物足りないと思っている。
誰かに必要にされたいだけなら、ここまでにはならないはずだった。
必要にされることが心地いい。
それはたしかにある。
でもいま胸の中を占めている違和感は、もっと具体的で、もっと個人的なものだった。
榊原澪がいない。
正確には、いる。
学校にもいるし、同じ教室にもいる。
でも、自分の方を向いてくる澪がいない。
その違いが、こんなにも大きいなんて思わなかった。
キッチンに行くと、母はすでに出勤したあとだった。
テーブルの上に置かれたメモには、簡単な一言だけ。
『朝ごはんあるから食べてね』
いつもの字。
いつもの気遣い。
ありがたいと思う。
思うけれど、それだけだ。
直人はトーストを口に運びながら、昨日の朝の教室を思い出していた。
澪の「おはよう」は、たしかにそこにあった。
でもそれは、今まで積み重ねてきた特別さを全部削ぎ落とした、ただの挨拶だった。
それがこんなにも効くのは、自分がどれだけそこに慣れていたかの証拠だ。
学校に着き、昇降口で上履きに履き替えて教室へ向かう。
扉の前で、一度だけ足が止まった。
何を期待しているのか、自分でも分からない。
ただ、昨日と同じ“普通”があるのだろうと思うと、少しだけ息が詰まった。
教室へ入る。
澪はもういた。
前方の席。
ノートを開き、静かに座っている。
こちらに気づいて、顔を上げる。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
やはり、それだけだった。
昨日と同じ。
それ以上でもそれ以下でもない。
席に着くと、ひよりが後ろから小さく机を叩く。
「今日も普通モードだね」
「……見れば分かるだろ」
「分かるよ」
ひよりは少しだけ声を落とす。
「で、どう?」
「どうって」
「静かで、楽になった?」
その問いに、直人は即答できなかった。
楽。
本来ならそうなるはずだ。
誰かに見張られるみたいに気にかけられることも、先回りされることも、寄り道の誘いもない。
健全で、普通で、余計な摩擦のない状態。
それなのに。
「……分かんない」
そう答えると、ひよりは小さく息を吐いた。
「それ、もうだいぶ答え出てるんだけどね」
そこまで言ってから、ひよりは少しだけ言い方を和らげる。
「まあ、まだ認めたくないのも分かるけど」
認めたくない。
たしかにそうだった。
これは、澪がいないことへの寂しさだ。
必要にされないことの物足りなさじゃない。
もうかなりそこまで分かっているのに、まだ最後の一線だけ認めたくない。
一時間目が始まり、二時間目が終わる。
驚くほど何も起きなかった。
提出物の確認もない。
小テストの範囲メモもない。
体調を気遣う紙パック飲料も、机に置かれた付箋もない。
直人は何度か無意識に前の席を見た。
澪はいつも通り真面目に授業を受けている。
教師の問いに答え、ノートを取り、必要な時だけ周囲と会話する。
完璧美少女の榊原澪。
クラスの誰にとっても、たぶん今日も彼女はそういう存在のままだ。
自分だけが、違う見え方を知っている。
そのはずなのに、その違う顔が今日はいっさいこちらへ向かってこない。
昼休み。
直人は購買のパンを持って自分の席へ戻った。
ひよりは今日は友人たちと食べるらしく、少し離れた席にいる。
乃愛の姿は見えない。
教室はいつも通りざわざわしているのに、自分の周囲だけ少しだけ音が遠い気がした。
前の席の澪は、今日は友人の女子二人と話していた。
笑っている。
ちゃんと楽しそうにも見える。
その姿を見て、直人の中に妙な違和感が広がる。
自分がいなくても、彼女の日常は回る。
当たり前だ。
当たり前なのに、その事実が少しだけ胸に刺さった。
別に、自分だけが彼女の世界の中心だなんて思っていたわけではない。
でもどこかで、自分に向くあの濃い感情が“特別な何か”として機能していたことも否定できない。
それがなくなった今、教室の中で彼女が普通に笑っているのを見るのは、少しだけ苦しかった。
「佐伯」
気づくと、ひよりが近くまで来ていた。
「ん?」
「顔やばいよ」
「そんなにか」
「そんなに」
ひよりは隣の空いた席に腰かける。
「言っとくけど、私に遠慮してるなら意味ないからね」
「何が」
「寂しいなら寂しいって思っていいってこと」
まっすぐだった。
直人はすぐには答えられない。
「……寂しいっていうか」
「うん」
「何か、落ち着かない」
「うん」
「でも、楽になった感じはしない」
そこまで言うと、ひよりは小さく頷いた。
「そっか」
短い相槌。
でもそこには、もう十分な理解があった。
「これ、私としては複雑だけど」
ひよりは少しだけ笑う。
「でも、たぶん“必要にされなくなったから物足りない”だけじゃないね」
その言葉に、直人は視線を落とした。
そうだ。
そこはもう、自分でも薄々分かっている。
もし本当にそれだけなら、静かに戻った日常を“楽”と感じるはずだった。
でも今の自分は、楽どころか、何か大事なものを急に失くしたみたいに落ち着かない。
「放課後、少し付き合う?」
ひよりが聞く。
「気分転換に、コンビニでも」
その誘いは優しかった。
押しつけがましくなく、でも放っておきもしない。
ひよりらしい距離感だ。
「……ありがと」
直人はそう言ったが、すぐには頷けなかった。
「でも、今日はちょっと」
「そっか」
ひよりはそれ以上無理には言わない。
「じゃあ、また今度」
その引き方も、やっぱりちゃんとしている。
午後の授業が終わる頃には、直人は自分でも驚くくらい疲れていた。
何も起きていないのに、何かがずっと足りない。
その足りなさを意識し続けるのは、妙に消耗する。
放課後、教室の人数が減っていく。
直人は鞄に教科書をしまいながら、前の席を見た。
澪も帰り支度をしている。
前なら、ここで自然にどちらかが声をかけていた。
今日は、その気配がない。
「じゃ、また明日」
ひよりが先に帰るらしく、席の横でそう言った。
「うん、また」
「無理しないでね」
その一言が、今日は妙に染みた。
ひよりが教室を出る。
残るのは数人だけ。
直人は少しだけ迷ってから立ち上がった。
もう帰るだけだ。
それでいいはずなのに、足がすぐには教室の出口へ向かなかった。
その時、澪が席を立った。
こちらを見る。
「お先に失礼します」
感じのいいクラスメイトとしてなら、ちょうどいい言葉だった。
直人は一瞬遅れて返す。
「……ああ」
それだけ。
澪は小さく会釈して、教室を出ていった。
その背中を見送りながら、直人の中に小さな衝動が生まれる。
呼び止めたい。
何て言えばいいのか分からない。
怒ったことを撤回したいわけじゃない。
乃愛への介入が許せるようになったわけでもない。
それでも、このまま“普通”に戻ることだけは、どうしても違う気がした。
違う。
でも、まだそこまで言語化できない。
結局、呼び止められなかった。
家に帰ってから、直人はようやく自覚した。
静かな日常に戻ったはずなのに、何も戻っていない。
むしろ、戻れなくなっていた。
必要にされないことが寂しいのではない。
先回りがないのが不便なのでもない。
自分を見てくる澪がいないことが、ただ落ち着かない。
それはかなり、答えに近い感情だった。




