第25話 もうやめます、という言葉が一番苦しい
榊原澪が「これ以上いたら、本当に嫌われるので」と言ったあと、佐伯直人はしばらく何も返せなかった。
特別棟の廊下は静かだった。
夕方の光が窓から細く差し込み、床に長い影を落としている。
文化祭が終わった校舎は、昨日までの熱が嘘みたいに冷えていて、その冷たさが余計に今の会話を現実のものにしていた。
嫌われる。
その言葉が、思った以上に重く胸へ落ちる。
自分がさっき言ったことは、たぶん間違っていない。
乃愛への介入も、ひよりとの流れを壊そうとしたことも、もう“僕のため”では済まされない。
そこははっきりさせるべきだったし、曖昧に許せば次も同じことが起きる。
でも。
でも、だからといって、いま目の前の澪が静かに引いていこうとすることを、どう受け止めればいいのかが分からなかった。
「……澪」
気づけば名前で呼んでいた。
澪は少しだけ目を上げる。
その目は、泣いていないのに泣く寸前みたいに見えた。
「ごめんなさい」
もう一度、彼女は言った。
「今まで、たぶん何度も線を越えてたんだと思います」
「……」
「乃愛さんのことも、柊さんのことも、分かっててやりました」
そこを隠さないのが、やはり澪だった。
いまさら取り繕っても意味がないと分かっているのかもしれない。
「止められなくて」
小さく息を吸う。
「でも、止められないから許されるわけじゃないので」
その言葉は、直人が返そうとしていたものを先に塞いだ。
止められない。
だからこそ怖い。
だからこそ境界線が必要だ。
そこまでは、本当にその通りだ。
「だから」
澪は制服の袖を指先で軽く握ったまま続ける。
「もうやめます」
その一言は、予想していたはずなのに、予想よりずっときつかった。
もうやめます。
朝の挨拶も。
帰り道も。
先回りも。
寄り道も。
見ていることも、嬉しいと伝えることも、全部。
言葉にはされていないのに、その全部が一緒に切り離される感覚があった。
「お前……」
何か言わなければと思う。
でも、その先が続かない。
止める理由が、いまの自分にはまだうまく言えない。
いや、理由がないわけではない。
ただ、それをここで口にしてしまうと、自分の気持ちの輪郭まで一気に確定してしまいそうで怖かった。
澪はそんな直人を見て、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「安心してください」
「何を」
「朝の挨拶くらいは、普通にします」
冗談のつもりなのか、本気なのか、分からない言い方だった。
でもその“普通にします”が、逆に距離の深さを思い知らせる。
普通に、という言葉の中に、今まで普通ではなかった部分が多すぎるからだ。
「じゃあ」
澪は一歩だけ下がる。
「今日は、もう帰ります」
「……ああ」
その返事しかできなかった。
澪は最後にほんの一瞬だけ直人を見た。
何かを待っているようにも見えたし、何も期待していないようにも見えた。
そして結局、そのまま廊下の向こうへ歩いていく。
呼び止められなかった。
呼び止めるべきだったのかどうかも、分からなかった。
ただ、背中が見えなくなったあとで初めて、直人は自分の呼吸が浅くなっていたことに気づいた。
教室へ戻ると、ひよりはまだ残っていた。
委員長に提出する最後の確認書類をまとめていたらしく、机の上に紙を広げている。その手が止まったのは、直人の顔を見た瞬間だった。
「……何その顔」
ひよりが言う。
「そんなひどいか」
「ひどい」
ひよりは椅子を引いて立ち上がった。
「榊原さん、先帰った?」
「うん」
「そっか」
短い相槌。
けれど、次の問いはかなり慎重だった。
「怒った?」
「怒った、っていうか……」
直人は言いかけて、うまく整理できないことに気づく。
「ちゃんと言った」
「うん」
「それは駄目だって」
「うん」
「そしたら、もうやめるって」
ひよりの表情が一瞬だけ動いた。
驚いたのか、納得したのか、あるいはその両方か。
「……本気で?」
「たぶん」
たぶん、じゃない。
直人にも分かっている。
あれはたぶんではなく、本気だ。
ひよりはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「それ、かなりきついね」
責めるでもなく、慰めるでもない、その言い方が妙にしっくりきた。
「自分で言ったくせに、って思うだろ」
直人がぼそりと言うと、ひよりは首を振る。
「思わないよ」
「何で」
「だって、線引きは必要だったし」
ひよりはまっすぐ言う。
「ただ、その結果が想像より痛かっただけでしょ」
その言葉は、きれいすぎるくらい正確だった。
線引きは必要だった。
それは間違いない。
でも、その線を引いたあとで相手が本当に離れていこうとすると、こんなにも痛いとは思っていなかった。
「佐伯」
ひよりが少しだけ声を落とす。
「それでほっとした?」
直人は答えられなかった。
ほっとしたか、と問われれば、たぶん一瞬はした。
もう乃愛に余計なことを言われることも、ひよりとの間に見えない形で手を入れられることもないのだと思えば、その意味では正しい状態に戻るはずだ。
でも今、胸の中にあるのは安堵ではなかった。
むしろ逆だ。
静かで、落ち着かない。
どこか大事なものが急に抜け落ちたみたいな感じがしている。
「……分かんない」
ようやく絞り出すと、ひよりは小さく苦笑した。
「またそれか」
「仕方ないだろ」
「うん。まあ、今はたぶんそれしか言えないよね」
ひよりはそう言って書類をまとめ始める。
「でも、今日はあんまり考えすぎない方がいいかも」
「無理だろ」
「無理だろうけど」
それから少しだけ、こちらを見ずに言う。
「いなくなった時に何感じるかって、たぶん結構本音だから」
その一言が、あとでじわじわ効いてくることを、この時の直人はまだ分かっていなかった。
家に帰ると、母はまだ戻っていなかった。
靴を脱ぎ、電気をつけ、制服のボタンを外す。
いつもの流れ。
いつもの静かな部屋。
でも、今日はその静けさがいつもより濃かった。
テーブルの上に鞄を置き、スマホを取り出す。
何か来ているかもしれないと思った。
いや、思ってしまった。
画面には何もない。
当然だ。
澪は「もうやめる」と言った。
それなら、わざわざ何か送ってくるはずがない。
それなのに、何もないことに少しだけ落胆している自分がいて、直人は思わず舌打ちしそうになった。
「……最悪だな」
自分で自分に言う。
線を引いたのは自分だ。
なのに、相手が本当に引いたら、それを寂しいと思っている。
都合がよすぎる。
そんなことは、痛いほど分かっていた。
夕飯を適当に済ませ、風呂に入り、机に向かう。
問題集を開いてみても、内容はほとんど頭に入らなかった。
ふと気づく。
今日は、先回りが一度もなかった。
プリントの確認も、提出物のメモも、帰り際の短いやり取りもない。
朝の「おはよう」だけが、ただの“普通”として残っている。
たったそれだけの変化なのに、日常の輪郭が妙にぼやけていた。
誰にも見られていない。
誰にも拾われていない。
それは本来、健全で普通なはずなのに、今の直人には少しだけ空っぽに感じられる。
気にかけられることに慣れすぎていたのか。
それとも、澪にだけ気にかけられることに慣れてしまっていたのか。
そこを考え始めると、もう勉強どころではなかった。
ベッドに入っても、眠気はなかなか来なかった。
旧校舎の階段。
図書館。
駅前のベンチ。
文化祭前夜の準備室。
今日の、静かに「もうやめます」と言った顔。
思い出すなと言われても無理だった。
翌朝、直人は少しだけ早く教室へ入った。
理由は自分でも分かっていない。
いや、半分は分かっている。
澪が本当に“普通”に戻るのかどうか、確かめたかったのだ。
教室にはまだ人が少なかった。
前方の席に澪がいる。
ノートを開いて、静かに座っている。
直人が入ってきたのに気づくと、わずかに顔を上げた。
そして。
「おはよう、佐伯くん」
それだけ言った。
声はいつも通り。
柔らかく、でもそれ以上の温度はない。
「……おはよう」
直人も返す。
会話は続かない。
前ならそのまま何か一言、体調や提出物や昨日の話題に繋がったはずなのに、今日は本当にそれだけだった。
心のどこかが、静かに軋む。
ひよりがあとから教室へ入ってきて、その空気を一瞬で読んだらしい。
席に着きながら小さく言う。
「ほんとにやめたんだ」
直人は何も言えなかった。
やめた。
少なくとも、表面上は。
朝の挨拶だけが残って、それ以外の“特別”が消えた教室は、驚くほど普通だった。
そしてその普通さが、直人にはやけに苦しかった。




