第24話 それはもう、僕のためでは済まされない
日曜日の夜は、いつもより静かだった。
文化祭二日間の熱が嘘みたいに消えて、家の中には冷蔵庫の低い駆動音と、壁掛け時計の秒針だけが残っている。母は夜勤で不在。父は相変わらず単身赴任先だ。ひとりで温めたコンビニ弁当を食べ終え、流しに容器を置いたあと、佐伯直人はしばらくキッチンの前で動けなかった。
頭の中では、文化祭の最後に澪が言った言葉が何度も反芻されていた。
かなりきつかったってことだけは、覚えておいてください。
あれは、ただの嫉妬の告白ではなかった。
危うい衝動を、自分でやっと止めた人間の声だった。
見えないところで流れを壊したい。
どうにかしたい。
そう思った。
でも、しなかった。
そこまでは分かる。
問題は、その“しなかった”を自分がほっとして受け取ってしまっていることだった。
ほっとした。
そして同時に、少しだけ嬉しかった。
自分のために、そこまできつくなるくらい揺れていたこと。
それをちゃんと我慢したこと。
その全部が、危ないと分かっているのに、直人の中ではどこか甘いものみたいに溶けていく。
「……ほんと、よくないな」
独り言は小さく落ちた。
よくない。
たぶん本当にそうだ。
ひよりの好意は正しい。
澪の好意は危うい。
そこまではもう、かなりはっきりしている。
なのに、自分は後者の方を失いたくないと思い始めている。
その理由が“必要にされたいから”だけではなくなっていることも、最近は薄々分かる。
月曜日の朝、教室の空気は文化祭の余韻で少しだけ弛んでいた。
飾りの一部はまだ残っていて、机の位置も完全には戻っていない。皆どこか疲れていて、でも終わったという解放感が先にある。そんな月曜特有のだるい空気の中で、直人は教室へ入った。
最初に視界に入ったのは、やはり澪だった。
前方の席。
頬杖もつかず、背筋を伸ばしたまま窓の外を見ている。
その横顔は、文化祭前と何も変わらない完璧さを保っていた。
けれど直人には分かる。
何も変わっていないように見えて、たぶんかなり変わっている。
目が合う。
澪はほんの少しだけ視線を揺らし、それからいつも通りの柔らかな顔を作った。
「おはよう、佐伯くん」
「……おはよう」
挨拶は普通だった。
普通すぎた。
それが逆に、直人の胸を少しざわつかせる。
席に着くと、ひよりが今日は珍しくすぐには話しかけてこなかった。
少し遅れてから、椅子を引きながら言う。
「おはよ」
「おはよう」
「文化祭ロス?」
「まあ、ちょっとは」
「そっか」
ひよりはそれ以上何も言わなかった。
でも、直人に向ける目が以前より少しだけ慎重だった。
たぶん彼女も、文化祭の後半で何かを感じ取っている。
直人と澪の間の密度が、もう“クラスメイトの仲がいい”では済まないところまで来ていることを。
一時間目が始まり、二時間目が終わる頃、直人は違和感に気づいた。
澪が静かすぎる。
先回りのメモもない。
プリントの確認もない。
休み時間に振り返って小さく声をかけてくることもない。
教室の中での振る舞いは完璧だ。
でも直人に対してだけ、以前より半歩引いている。
ひよりの告白を聞いたあとで、文化祭の最後にあれだけ揺れて、それでいて今朝からは静かすぎる。
嫌な予感がした。
昼休みになると、その予感は少し形を持った。
乃愛が来ない。
いつもなら、何かしらの用事を作って教室を覗きに来てもおかしくないのに、今日は気配すらない。たまたまかもしれない。だが、直人はたまたまとは思えなかった。
「今日、七瀬ちゃん来ないね」
ひよりがぽつりと言う。
やはり同じことを思っていたらしい。
「……忙しいんじゃないか」
直人がそう返すと、ひよりは微妙な顔をした。
「まあ、それならいいけど」
その言い方に含みがある。
前の席の澪は、今日は振り返らない。
でも、直人には分かる。
ひよりと自分の会話をちゃんと拾っている。
昼休みの終わり頃、直人は用紙回収のついでに一年の教室がある棟まで行くことになった。
そこで乃愛を見つけた。
廊下の角、掲示板の前で別の女子と話している。
以前と変わらず明るい顔はしていたが、直人に気づいた瞬間の反応が明らかに一拍遅れた。
「……佐伯先輩」
「おう」
直人が近づくと、乃愛は持っていたプリントを少しだけ握り直した。
「どうした、何か元気ないな」
「え、そんなことないです」
明るく返す。
だがその明るさが、少しだけ無理に見える。
「文化祭明けだから疲れてるだけです」
「そうか」
それだけで済ませるべきか、一瞬迷った。
けれど直感が、それでは駄目だと言っていた。
「なあ」
「はい」
「何かあった?」
乃愛は笑顔のまま、数秒だけ黙った。
その沈黙だけで、直人には十分だった。
「……いや、本当に大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる」
そう言った瞬間、乃愛の目が少しだけ揺れる。
「先輩、そういうの分かるんですね」
「分かる時もある」
「……ずるいです」
乃愛は小さくそう言って、視線を落とした。
その言い方が妙に引っかかる。
「誰かに何か言われた?」
直人が一歩踏み込むと、乃愛はあからさまに困った顔をした。
「別に、怒られたとかじゃないです」
「でも、何かはあったんだろ」
「……」
「乃愛」
初めて名前だけで呼ぶと、乃愛は少しだけ目を見開いた。
「……榊原先輩に」
やはり、その名前が出た。
喉の奥が少し冷える。
「何て」
できるだけ平坦に聞く。
だが自分でも、声が少し硬くなったのが分かった。
「文化祭の日のこと、ちょっと」
乃愛は言いづらそうに指先でプリントの端をいじる。
「先輩、優しいから勘違いしやすいって」
直人は言葉を失った。
「それで、変に近づくと困らせるかもしれないから、気をつけてって」
一見、正しい。
かなり正しい。
間違ったことは言っていない。
けれど問題は、そこではなかった。
直人が知らないところで。
また勝手に。
相手との距離を動かしている。
「……いつ言われた」
「文化祭終わったあとです」
乃愛は小さく続ける。
「すごく優しく言われました。怒ってる感じじゃなくて、私のことも気にしてるみたいに」
そこが余計に悪質だった。
正しさの顔をして。
優しさの顔をして。
本人に悪いことをしている自覚すら薄くなるやり方で、流れだけは確実に変えていく。
直人の中で、何かがすっと冷えた。
「……そっか」
それだけ言うのが精一杯だった。
乃愛はそんな直人を見て、おそるおそる聞く。
「先輩、怒ってます?」
「少し」
正直に答えると、乃愛は困ったように笑った。
「私、榊原先輩のこと嫌いじゃないです」
「うん」
「むしろ、すごい人だなって思ってます」
「うん」
「でも、ちょっとだけ怖かったです」
その一言で、直人の中の何かが決定的に傾いた。
怖かった。
正しい顔をした介入で、相手にそう言わせてしまうなら、それはもう“僕のため”では済まされない。
教室へ戻る道のりで、直人は何も考えられなかった。
いや、考えていた。
ただ全部が同じ一点に収束していた。
またやった。
しかも今度は、文化祭の日のあと。
止まったと思わせておいて、見えないところではちゃんと動いていた。
昼休みの終わり、教室へ戻ると澪は何事もなかったように席に座っていた。
前の席。
綺麗な横顔。
相変わらず整いすぎた静けさ。
その姿を見た瞬間、直人の中にあった苛立ちが、初めてはっきり輪郭を持った。
五時間目も六時間目も、ろくに頭に入らなかった。
ただ、放課後になったら話さなければいけないと思っていた。
曖昧に流したら、たぶん次も同じことが起こる。
そして、それを自分がもう庇えないことも分かっていた。
放課後、教室の人がだいぶ減った頃、直人は前の席に向かって言った。
「澪」
名字ではなく名前で呼んだのは、ほとんど無意識だった。
澪がゆっくり振り返る。
その目が、ほんの少しだけ揺れる。
「……はい」
「少し、いいか」
「いいですよ」
穏やかな返事。
でもたぶん彼女も、直人の空気の硬さで何かを察している。
二人で教室を出て、人気の少ない特別棟の廊下まで行く。
文化祭が終わった校舎は、昨日までの熱が嘘みたいに静かだった。
その静けさの中で、直人は真正面から澪を見た。
「乃愛に何か言ったか」
開口一番、それだけをぶつける。
澪の表情は一瞬止まった。
それから、ほんのわずかに目を伏せる。
「……はい」
否定しない。
そこはもう予想通りだった。
「何て言った」
「先輩は優しいから、勘違いしやすいかもしれないって」
「あと」
「近づきすぎると、困らせるかもしれないから気をつけてって」
乃愛の言葉とほぼ同じだった。
直人は小さく息を吐く。
「何で俺に言わない」
「言ったら、止められると思ったので」
その一言に、直人の中の苛立ちが一段深く沈んだ。
「分かっててやったんだな」
「……はい」
「それはもう、俺のためじゃないだろ」
声が少し低くなる。
自分でも分かるくらい、はっきり怒っていた。
澪は何も言わない。
「乃愛が怖かったって言ってた」
その言葉を聞いた瞬間、澪の肩がほんのわずかに揺れた。
「お前がどれだけ正しい言い方しても、相手が怖いって感じたなら駄目だろ」
「……」
「ひよりの時もそうだ。文化祭のことだってそうだ」
直人は止まらなかった。
「お前が嫌なのは分かる。怖いのも分かる。取られたくないのも分かる」
そこまでは本当だ。
理解できる。
だからこそこれまで強く切れなかった。
「でも、それで勝手に周りの流れを変えるなよ」
ようやく、そこまで言い切る。
「それはもう、俺のためじゃなくて、お前の都合だ」
澪はずっと黙っていた。
顔を上げない。
言い返さない。
その沈黙が逆に痛かった。
「……ごめんなさい」
やがて、掠れた声でそう言った。
「ごめんなさいじゃなくて」
直人は言いかけて、言葉を切った。
ここで何を言えばいいのか分からない。
怒っている。
でも怒鳴りたいわけじゃない。
ただ、これだけは駄目だと分かってほしかった。
澪はようやく顔を上げる。
その目は、文化祭の時みたいに整っていなかった。
泣いてはいない。
でも、何かを必死に押し殺している顔だった。
「分かってます」
澪が言う。
「いま、佐伯くんが言ってること、全部正しいです」
その返しが、かえって直人を苦しくさせる。
「正しいかどうかじゃなくて」
「正しいです」
澪は静かに繰り返す。
「だから、たぶんもう、これ以上は駄目なんです」
その言い方に、直人は一瞬だけ言葉を失った。
これ以上は駄目。
それは、何を指しているのか。
問い返す前に、澪が小さく息を吐いた。
「これ以上いたら、本当に嫌われるので」
その声音は、驚くほど静かだった。
壊れているわけではない。
取り乱してもいない。
ただ、腹の底まで冷えてしまった人間の声だった。
直人の中で、怒りと別の感情が同時に揺れた。
それはもう、僕のためでは済まされない。
たしかにそうだ。
その線は越えた。
でも同時に、ここで彼女が本当に引こうとしていることも、直人には伝わってしまった。
それが正しいのかどうかすら、今はもう簡単には言えなかった。




