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クラスの完璧美少女は、僕にだけ壊れてみせる。―重すぎる愛に選ばれた、僕の初恋―  作者: 翡翠


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第23話 見えないところで壊されると、もう庇えない

 文化祭二日目の朝、佐伯直人は昨日よりもはっきりした疲労を感じながら教室へ入った。


 疲れているのは身体だけではない。


 昨日の最後、澪に言った一言。

 探していたのは、お前。


 あれはかなり決定的だった。

 少なくとも、もう“必要にされるから惹かれているだけかもしれない”という言い逃れはしにくくなっている。


 そして澪も、それをちゃんと受け取っていた。

 喜びと安堵と、それでもまだ完全には信じきれないような目で。


 教室には、すでに文化祭二日目の準備の空気が満ちていた。昨日より少し慣れて、昨日より少し雑な緊張感。机の位置、掲示物、呼び込み用の札、パンフレットの束。全部が“今日もやる”前提で整えられている。


「おはよ」


 ひよりの声が先に飛んでくる。


「おはよう」


「昨日、最後どうだった?」


 いきなり核心だった。


「どうって」


「どうって顔じゃないでしょ」


 ひよりは腕章を机に置きながら言う。


「見た感じ、かなり進んでたけど」


 直人は返答に困った。


 進んでいた。

 かなり。

 でも、その“進み方”は普通の恋のようでいて、やっぱり少しずつ歪んでいる気がする。


「……色々あった」


「便利だね、その言い方」


 ひよりは小さく息を吐いた。


「でも今日は、私もちゃんと動くから」


「動く?」


「うん」


 そう言って、少しだけ目を細める。


「昨日でだいぶ覚悟決まった」


 その言葉が何を意味するのか、直人が聞き返す前に、教室の入口の方で澪の気配がした。


 今日の澪は、昨日より少しだけ落ち着いて見えた。


 いや、落ち着いているというより、昨日得た安心をまだ抱えたままなのだろう。直人を見る目が、いつもよりほんの少しだけ柔らかい。


「おはよう、佐伯くん」


「……おはよう」


「おはようございます、柊さん」


 ひよりにもちゃんと挨拶する。

 感じがいい。

 完璧だ。

 でも、その完璧さの裏側をもう直人は見てしまっている。


 午前中は昨日以上に人が多かった。


 土曜日ということもあって、他校の生徒や保護者の姿も増えている。廊下の人通りは途切れず、クラスの出し物も順番待ちができるほどだ。


 直人は列整理をしながら、何度か無意識に教室の中を見た。

 昨日と同じように、目は勝手に澪を探す。

 そして、ひよりのことも見てしまう。


 ひよりは本当に強かった。


 案内も、呼び込みも、客への対応も、自然にやる。笑顔が作り物に見えない。誰といても空気が軽くなる。文化祭みたいな非日常では、ひよりの“普通の好意”の方がむしろ映える。


 そんな彼女が、昼前の少し落ち着いたタイミングで直人を呼んだ。


「佐伯、ちょっと」


「ん?」


「買い出しの余り、倉庫から持ってこないといけないの。一人だと面倒だから手伝って」


 それは、かなり普通の頼み方だった。

 雑用の延長。

 誰が見ても不自然じゃない。


「分かった」


 直人が答えると、ひよりはほんの少しだけ息を緩めた。


「ありがと」


 その様子を、澪が教室の奥から見ていた。

 見ていたが、何も言わない。

 ただ視線だけが、一瞬だけ直人とひよりの間をなぞった。


 倉庫は特別棟の一階にある小さな物置スペースで、昨日使った予備の資材や飲料ケースが置いてある。人通りが少ないぶん、文化祭の喧騒から切り離されたみたいに静かだった。


「助かる」


 ひよりがケースの箱を覗き込みながら言う。


「こういう時、佐伯ほんと使える」


「またその言い方かよ」


「褒めてるって」


 直人は苦笑しながら、段ボールを一つ持ち上げた。

 そこまで重くはない。


「ひより」


「ん?」


「朝言ってた、動くって何」


 そう聞くと、ひよりは一瞬だけ手を止めた。


「聞く?」


「聞いたの俺だし」


「そっか」


 ひよりは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げる。


「私、今日ちゃんと言うつもりだったんだよね」


「……何を」


「好きって」


 あまりにもまっすぐだった。


 倉庫の狭い空間の中で、その二文字は妙に大きく響いた。


 直人は一瞬だけ何も言えなかった。


「文化祭のどこかで、ちゃんと伝えようと思ってた」


 ひよりは笑うでもなく、泣くでもなく、ただ静かに続ける。


「別に今ここで言う予定じゃなかったけど、たぶんもう逃げてる暇ないなって思ったから」


 その言葉の重さは、澪のものとは違う。

 管理もしない。

 先回りもしない。

 ただ自分の好意だけを、真正面から置く。


「佐伯、私のこと楽しいとは思ってくれてるでしょ」


「……うん」


「でも、落ち着くのは榊原さんの方」


「……」


「そこも分かってる」


 ひよりは自分で言って、自分で少しだけ苦く笑った。


「だからたぶん、勝てるとかそういう感じじゃないんだろうなって思ってる」


 その冷静さが余計に刺さる。


「でも、それでも好きだから、言わないで終わるの嫌なんだよね」


 直人は段ボールを持ったまま、立ち尽くしていた。


 何か返さなければいけない。

 でも、ここで下手に口を開くのは違う気がした。


 ひよりはそんな直人を見て、小さく息を吐く。


「今、答えいらない」


「……ひより」


「うん。でも一個だけ言わせて」


 少しだけ距離を詰める。


「私といる時の佐伯、好きだよ」


 その言葉は、飾りがないぶんひどく痛かった。


 その瞬間だった。


 倉庫の半開きの扉が、外からわずかに動いた。


 二人とも反射的にそちらを見る。


 扉の向こうに立っていたのは、澪だった。


 手にはクラスの備品確認票。

 まるで本当に、ただ倉庫へ必要なものを取りに来ただけのような顔をしている。

 でも、その顔色は一瞬で分かった。


 冷えている。


「……すみません」


 澪は静かに言った。


「飲料ケース、こっちにあるか確認したくて」


 声は穏やかだった。

 穏やかなのに、空気が明らかに変わっていた。


 ひよりは一瞬だけ澪を見返したが、すぐに直人から半歩引く。


「今、私たち使ってる」


「はい」


「終わったら持っていく」


「分かりました」


 澪はそれだけ言って、扉を閉めた。


 足音が遠ざかる。


 倉庫の中には、文化祭の騒音よりずっと重い沈黙だけが残った。


「……最悪」


 ひよりがぽつりと呟く。


「聞かれたかもな」


 直人がそう言うと、ひよりは少しだけ顔をしかめた。


「たぶん、かなり」


 直人は喉が乾くのを感じた。

 澪がどう感じたかは、想像しなくても分かる。


 問題は、そのあとだ。


「……でも、言えてよかった」


 ひよりが言う。


「このタイミングでも」


 その強さに、直人はまた何も言えなくなる。


「返事は、いまじゃなくていい」


 ひよりは最後にそう言って、段ボールを持ち上げた。


「でも、うやむやにはしないでね」


 その一言は、かなり重かった。


 倉庫を出たあと、教室へ戻るまでの廊下がやけに長く感じた。


 澪はクラス内にいた。

 いつも通りに。

 まるで何もなかったみたいに。


 案内役の女子に小さく指示を出し、来客へ柔らかく笑い、机の上のパンフレットを揃えている。完璧だ。完璧すぎる。


 だが、直人には分かる。


 あれはかなり危ない静けさだ。


 ひよりもそれに気づいたらしく、教室へ戻ってからはさすがに澪へ近づかなかった。

 澪もひよりを見ない。

 でも見ないこと自体が、逆に意識しすぎている証拠だった。


 午後の当番が終わる頃には、直人の胃は微妙に痛かった。


 何も起きていない。

 でも、確実に何かがずれている。


 そしてその“ずれ”の中心に、自分がいることだけは間違いなかった。


 片づけが終わり、生徒たちが少しずつ帰り始める。


 直人は教室の後ろで余ったチラシをまとめながら、いつ澪が近づいてくるかを半ば覚悟していた。だが、澪はすぐには来なかった。


 代わりに、委員長がひよりへ何か確認しに来て、ひよりはそちらへ呼ばれていく。


 教室の人数がさらに減る。

 そしてようやく、澪がこちらへ歩いてきた。


「佐伯くん」


 声は静かだ。

 静かすぎる。


「……何」


「少しだけ、いいですか」


 断れなかった。


 教室を出て、特別棟への渡り廊下へ向かう。

 あの日、旧校舎へ続く場所とは少し違う。

 でも人通りが減った放課後の校舎は、どこも少しだけ空気が薄い。


「さっきの」


 澪がようやく口を開く。


「聞こえました」


 やはりそうだった。


 直人は一度だけ目を閉じる。


「どこから」


「好き、のあたりからです」


 十分すぎる。


 澪は少しだけ視線を落とした。


「……思っていたより、きついですね」


 その言葉は責めるでもなく、ただ本音だった。


「ごめん」


 直人が言うと、澪は小さく首を振る。


「謝ってほしいわけじゃないです」


「でも」


「柊さんが悪いとも思ってません」


 即答だった。


「悪いのは、たぶん私の方なので」


 その言い方が、妙に不穏だった。


「何がだよ」


 直人が聞くと、澪は少しだけ間を置いた。


「私、さっき一瞬だけ」


 細い指が、制服の裾を軽く握る。


「どうにかしたいって思いました」


 直人は息を呑む。


 どうにかしたい。

 その言葉が、彼女の口から出るとかなり危ない意味になる。


「何を」


「流れをです」


 澪は正直に答えた。


「柊さんが今ここで言えないようにするとか、先生を呼ぶとか、何か理由を作るとか」


 想像以上に具体的だった。


 直人の背筋に冷たいものが走る。


「……でも、しなかった」


「はい」


 澪は頷く。


「しませんでした」


「それは」


「分かってたからです」


 澪の声は、少しだけ震えていた。


「ここで私が何かしたら、本当に駄目になるって」


 その言葉は、直人の胸を強く打った。


 彼女は分かっている。

 そして分かった上で、ぎりぎりで止まったのだ。


「でも」


 澪が続ける。


「止まれたから偉いとは、自分でも思えません」


「何で」


「したいって思った時点で、もうかなり駄目なので」


 その自己認識の鋭さが、逆に痛い。


 普通ならそこは隠すだろう。

 でも澪は隠さない。

 隠さないで、危うさごと差し出してくる。


「……それでも止まったんだろ」


 直人がそう言うと、澪は少しだけ目を上げた。


「うん」


「じゃあ、それはちゃんと偉いよ」


 気づけば、そう口にしていた。


 澪の目がわずかに揺れる。


「……そう言われると、困ります」


「何で」


「それでまた、次も我慢できる気がしてしまうので」


 その言葉に、直人は苦笑した。


「じゃあ別にいいじゃん」


「よくないです」


 澪は少しだけ自嘲気味に笑う。


「私は、本当はそんなにいい子じゃないので」


「知ってるよ」


 直人がそう返すと、澪は一瞬だけ言葉を失ったように見えた。


「……知ってて言うんですね」


「知ってるから言うんだろ」


 それはたぶん、本音だった。


 完璧美少女の顔だけしか知らないなら、ここまで言えない。

 危うさも、嫉妬も、欲深さも知っているからこそ、今ここで止まれたことを認めてやりたいと思ってしまう。


 それがたぶん、もうかなり深い。


 澪はしばらく黙っていた。


 やがて、ごく小さく言う。


「……今日、少しだけ本気で怖かったです」


「何が」


「正しい方に、ちゃんと持っていかれるんだなって思って」


 その一言が、ひどく痛かった。


 ひよりは正しい。

 普通だ。

 そしてちゃんと、自分の言葉で好きだと言える。


 それに対して澪は、危うくて、重くて、先回りして、我慢して、ぎりぎりで止まっている。


 どちらが“選ばれるべきか”だけ見れば、答えは簡単なのかもしれない。


 でも直人の気持ちは、もうそんなに簡単ではなくなっている。


「……簡単じゃないよ」


 直人が小さく言うと、澪は少しだけ目を細めた。


「何がですか」


「そういうの」


 うまく言葉にできない。

 でも、それで十分伝わったらしい。


 澪はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「今日は、これ以上何もしません」


「それ、さっきも言ってなかったか」


「確認です」


 少しだけ笑う。


「しないで、ちゃんと帰ります」


「……ああ」


「でも」


 そこで、ほんの一拍置く。


「かなりきつかったってことだけは、覚えておいてください」


 その頼み方が、ひどく切実だった。


 見えないところで壊されると、もう庇えない。

 今日、直人はそれを初めてはっきり理解した。


 澪が一線を越えなかったことは確かに救いだった。

 けれど、越えたい衝動がその内側にちゃんとあることも、もう見てしまった。


 それはたぶん、次の段階へ行く前に避けて通れない現実だった。

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