たとえ君が
3週間後には、結衣は新社会人として新しい生活をスタートする。結衣は特別区職員採用試験に合格して区役所で働くことが決まっていた。本当なら大学卒業後はプロの画家として生計を立てていきたかったはずだったが、現実はそんなに甘くなかった。美術大学を卒業してもプロの画家としてやっていける人間は、ほんの一握りしかいないのが現状で、大概の学生はデザイナー、グラフィックデザイナー、アートディレクターや教員免許をとって美術の教師になるなどの道を選択するというのが現実らしい。それは結衣においても例外ではなかった。結衣自身も画家として生計を立てるのは到底無理だということがわかっていたので、区役所で働く道を選んだ。でも結衣は、プロの画家になる夢を諦めた訳ではなく、仕事をしながら合間を縫って絵を描き続けると言っていた。そして絵画コンクールに出品すると意気込んでいた。それに、お金が貯まったら自分で個展を開くとも熱く語っていた。
ちなみに結衣は小・中・高校とコンクールで入賞をしたり、美術大学に入ってからも賞を獲る程の才能と素晴らしい素質を併せ持っていた。私は絵の知識も絵を見る眼も持ち合わせていないけど、結衣の描く絵が大好きだった。きっといつかは夢を叶えて、プロの絵描きになると信じている。
――3月最後の休日、結衣は仕事が始まるまでに、描きかけの絵を完成させると言って、朝早いうちから電車に乗って目的の場所まで絵を描きに行っていた。私はやり残した仕事や部屋の掃除と洗濯がたまっていたので、午前中は家でそれらの片づけをしていた。そして11時過ぎには全てを終えると、休むことなく結衣のところまで車で向かった。結衣に教わった場所の近くで車を停めると、結衣のところまで歩きで向かった。辺りを見渡すと、どこもかしこも田んぼだらけで、建物らしきものは数キロ先に見える大学以外には何もなかった。ふと私の田舎を思い出した。小学生の頃は、田んぼの中を走り回ったり、ゲンゴロウやカブトガニなどの珍しい水辺の生きものを友達とよく捕まえたものだ。まだ都内にも、こんな場所が残っていたことに驚いた。それにしても、よくもこんな場所を見つけたものだ。
結衣は、田んぼと田んぼの間を流れる川の橋の上から絵を描いていた。半径5mまで近づいているのに、絵を描くことに没頭している結衣は、私の存在に全く気付いていなかった。時計を見ると、時刻は既に12時を回っていた。
「あれっ? 真一、来てたんだ?」
「はい」
3mくらい離れた位置で黙って立っていると、しばらくたってから私の存在に気付いた。
「来てるなら来てるって言ってよ!」
「言いましたよ」
「全然聞こえなかったけど、本当に言ったの?」
「本当ですよ。集中していたから気付かなかったんですよ」
「ホントに?」
結衣は、そう言うと私の顔をジッと見始めた。
「ウソつき! 言ってないでしょ?」
「わっ、わかっちゃいましたね。さすがですね」
「そりゃそうよ。当たり前でしょ!」
「でも、結衣も嘘をついていますよね?」
「何のこと?」
「本当は私に気付いていましたよね。正しくは私の持っているお弁当の匂いに気付いたとでも言った方がいいでしょうか?」
「――――」
「すいません。これでも精神科医の端くれなもので、人の嘘は大抵見抜く自信はあります」
「へ~そりゃすごいね。でも、その割に恋愛には疎いし、女心がわかってないよね」
「よく言われます」
「別にいいんだけどね。私には関係ないしさ」
「関係なくはないですよ。私は結衣の恋人ですし、私にとって結衣は世界で1番大切な人です。それに結衣は私の生きる希望なんです」
結衣が、ああいう言い方をする時は、たいてい嫉妬をしている時や私の気持ちを確かめたい時。結衣は、思いのほかやきもち妬きで寂しがり屋だった。
「じゃ、じゃあ早速お弁当をご馳走になっちゃおうかなぁ」
照れ屋でもあった。
それからここに来る途中で買った2種類のお弁当を交換しながら食べた。そして昼食を済ませると、結衣は再び絵を描き始め、私はアウトドア用の折りたたみのイスに座り読書を始めた。




