虚ろの鎧と、憂いの娘①
「あなたは、何者なのですか?」
「俺は、誰だ?」
沈んでゆく。ーー沈んで、ゆく。
伸ばした手は、水面の光には届かず。
叫んだ声は、コポコポと泡を立てるだけ。
「あなたは、何者なのですか?」
尋ねた娘の声が、いつまでも耳に残る。
「俺は、誰だ…」
湖は、鉄の鎧を呑み込んで。
ただ、静かにそこにある。
***
ふと気が付いたら、俺は鎧だった。
いつから鎧だったのか思い出せないし、いつまで鎧なのかも、分からない。
ただ、分かるのは、今、鎧である、という事実だけ。
場所はーー。
どこかの館なのだろう。
俺は、婉曲する階段の下に立ち、立てた剣の上に手を置いて、あるのかないのかも分からない瞳で、耳で、周囲を知覚しているのだった。
床は、白と黒のタイルが互い違いに置かれた、市松模様。
階段は、古いオークの木でできており、毎朝メイドたちに磨かれて、しとやかに光っている。
メイドたちは毎朝、俺のこともぴかぴかに磨き上げる。--正直、ちょっとくすぐったい。
油をつけた古布で、丁寧に丁寧に、磨く。
床もモップで隅から隅まで拭き上げる。
この館には、埃なんてあるのだろうか。
館の主人は、よく太った恰幅のいい初老の男性で、一人娘を、猫可愛がりしている。目に入れても痛くない、というやつだ。
息子もいたはずだが、放蕩しているらしい。主人と大喧嘩をしたまま俺の前を通り過ぎ、そして玄関を出て、その後、二度と見ていない。
ある日俺は、首を動かせることに気が付いた。
そうなれば、--当然。手も動かしてみる。脚も、上げてみた。
ああ、動く。
折しも、満月の夜。
瞳によらない知覚をしている俺には、明かりは必要なかったがーー。
がしゃん。
脚が、鳴る。
鎧の関節が、鳴る。
ぴかぴかに磨かれた甲冑の姿が、同じくよく磨かれた床の、黒い部分に映り込んでいる。
「--ふむ」
つぶやいてから、声がーー空気を震わす見えない波を発せること。そしてそれを知覚できたことに、また驚いた。
そしてーー内心で苦笑する。ヒトのような目も耳も、鼻も口もないのに。
俺は一体、何なのだ。
がしゃり。がしゃり。
歩く。
そして、ふと、首をめぐらせーー
水を飲みに降りてきたのだろうか。
裸足のまま、階段を降りてきていた人物と、目がーー目が? --ともかく、合い。
彼女は凍り付き、そして俺もまた、動きを止めたのだった。
彼女の右手には、木製のコップが握られていた。
「あ~…、その」
「き」
「き?」
「きゃぁぁあああああ!!!」
絶叫だった。
耳をつんざくような、とはこのことか。
彼女は、腰を抜かしたように床にへたりこむ。
使用人が、一階の使用人部屋から顔を出した。
「よ、鎧がうご、うごいて…」
彼女が指さす先で俺は、直立不動で、いつもの飾り台の上にいる。
「お嬢様。寝ぼけて見間違えたんですわ」
「で、でもたしかに歩いていたわ!」
メイドに宥められながら、彼女は階段を上ってゆく。俺を何度も、気味悪そうに振り返りながら。
ーー少し、悪いことをしただろうか? 驚かせるつもりは、なかったのだ。
翌朝。
質素な、青と白のストライプのドレスに身を包んだ彼女は、朝陽の中、静かにたたずむ俺を見て、少し安心したようだ。
あれは夢だった、と思ったのだろう。
ほっとした表情で、食堂へ入っていった。
「…でも、確かに動いたのよね」
…彼女は、しつこかった。
窓から差し込む冬の日差し。メイドたちが、階段や床を一心に磨くその傍ら。
彼女は、階段に腰かけ、膝に肘を載せて、手のひらに顎をのせて。
栗色の長い髪が、光にきらきらと光っている。
彼女の瞳の中に、俺が映っている。
そっと俺に近づくと、小声でささやいた。
「…ね、もう一度、歩いてみてくれない? 誰にも言わないわ。約束する。だからーー、ねっ?」
そう言われて、できるものでもない。
俺は、無視を決め込んだ。
ーーが。
カツーン!
彼女はあろうことか、俺の脛を蹴飛ばした。
ーーとはいえ、俺は鎧なので、何も感じない。痛くもないし、痒みもない。
「--ちぇ」
彼女はつまらなさそうに。もう一度だけ、俺を見上げた。
***
「--ねえ、聞こえてるんでしょ? 何か、しゃべってくれない?」
それ以来、しかし、彼女は俺を、動けるもの、生きているものと、何故だか、信じ込んでしまったらしかった。
俺の隣に来ては、階段のところに座って、メイドたちのたわいない噂話や、読んだ本の話。気難しい家庭教師の話。旦那様のこと。食べた料理の話。見たもの、聞いた事、見たことのないもの、聞いたことのないものの話を、とりとめもなく、するようになった。
ある日。
彼女は泣きじゃくりながら俺のところに来て、階段のところに座って、いつまでも泣き続けていた。
雨の日だった。晴れてはいなかった。それとも、夜だったろうか。
とにかく、彼女は泣いていたのだ。
その栗色の頭が、あまりにも手の届くところにあるので、俺はーー今思えば、何ということをしたのだろう。
彼女の頭に手を載せた。
はっとして、俺を見上げ、彼女は涙を止める。
「泣くな」
「……。」
驚きのあまりだろう、彼女は泣くのをやめていた。
代わりに、俺に手を伸ばす。
「鎧さん」
彼女はにこりと、花のような笑顔を浮かべた。
「みんな聞いていたのね。みんな見ていたのね。全部」
「……。」
「でも、」
彼女は顔をかげらせた。
「異民族が、攻めてきたのよ。この館もじき、彼らに襲われる。--お父様は、死んでしまった。私たちは、逃げなきゃーー」
俺は答えなかった。俺は、ただの鎧だから。
「さようなら」
彼女は微笑んだ。
業火。轟音。馬のいななき。金属のぶつかり合う、鋭い音。
ーーああ。異民族というのが、この館を通り過ぎようとしている。
俺は鎧だから、気にならない。
自分が煤だらけになっても、変形しても、気にならない。
ーーただ、彼女のことが少しばかり、気がかりだった。
ちゃんと逃げられただろうか。
幸せに、生きているだろうか。
***
今、俺はヒトに着られている。
なんでも、シュチョウだかいう、偉い人間なのだそうだ。
通り過ぎる部族の仲間たちは皆、彼にかしづく。
彼は剣を持つ。彼は鎧を着る。
彼は歩き、捕虜たちの前に出る。
俺の知覚は、ヒトのそれではない。だから、彼の表情も、わかった。
薄く笑っている。
値を定めるように、品を定めるように、捕虜たちを、見回す。
その中に、俺はあの栗色の髪の娘を見つけて、凍りついた。
彼は首を刎ねよと命じた。
彼の部下たちは、剣を手にした。
…どさり。
彼は、彼の鎧の手にした剣で喉を突いて絶命した。
途端に、部下たちがざわめく。それもそのはず。
彼の喉からはひどく血があふれ出しているのに。
彼の鎧の手はその剣を引き抜き。
ひとりの捕虜の娘の前に進み出たから。
彼女の瞳が怯えを映す。
「安心していい。俺だ」
「--鎧、さん?」
小さな声で告げた俺に、小さな声で彼女が返す。
部族の者たちが叫んだ。
「首長が…!」
「おい、誰か呪術師を呼んでくるんだ!」
「呪いだ!」
捕虜たちの縄を切る。
彼らは不安そうに俺を見てから、一目散に走り出した。
「鎧さん!」
彼女が手を伸ばす。
俺は手を伸ばし、彼女を抱きしめ返した。
ーーただし、俺を着ていた人間は、俺の内部で死体になっていた。
彼女が血で汚れては可哀想だ。
俺は、中に入っていたヒトを放り出した。
彼女に手を引かれて駆け出す。
ひどく変な気分だ。
俺は鎧なのだ。
守られる必要はない。
ーーが。
ああ、そうか。守ることはできるのだと。
***
俺の手は冷たいが、彼女の体温を感じることはできる。
俺の瞳は虚ろだが、彼女の瞳に映ることはできる。
俺の中は空だが、彼女の心を感じることはできる。
俺は。何者なのだろう?
尋ねた俺に、彼女は微笑む。
「鎧さんは、鎧さんよ」
ーー彼女がそう言うから。俺はたぶん、まぎれもなく、ーー鎧なのだろう。
(終)




