十八、夜明けまで 2
ミシアは軽い苛立ちを覚えた。
今更、なにを言うのだろう。そんなことは改めて問うまでもなく、とうにわかりきっていることだ。
ミシアにとって精霊との契約は、目前に迫った死を退けるために絶対に必要だった。命を繋ぎ止めるための、唯一にして不可欠の手段だったのだ。
だから、賭けた。自分の意思で受け入れた。危険も代償も承知して、契約を結ぶことを望んだのだ。決して、わけもわからず利用されたわけではない。
それをあたかも、今初めて気づいたかのように問われるのは心外だった。命の懸かった契約だと、ミシアが理解していないとでも思っていたのだろうか。アイラは、そこまで自分を見くびっていたのか。
「当たり前じゃない。わたしが望んだのよ。そして賭けに勝ったのよ」
「いいえ。そちらの話ではなく」
アイラは憚るように早口に言った。
疑念に満ちたミシアの瞳が、きつくアイラを睨む。
アイラはミシアを悪戯に傷つけたいわけではない。けれど、これからすることが彼女を傷つけない保証はなかった。恐らく、ミシアの心のやわらかい場所に触れることになる。それに迷いがなかったわけではない。現に少し前、ミシアとの契約について語ったメルの中に、ミシアの屈託の影を垣間見たときは追いかけなかった。
けれど、ここでミシアがくれたきっかけを素通りするのは違うような気がした。もし、何かを変えたいという無意識の願望が、内側に閉じ込めていたものを明かさせたのだとしたら、彼女が零した本音を掬い上げないまま進むことは、ミシアを拒む行為のように思えた。
それもまた、独りよがりな考えなのかもしれないけれど、せめてミシアを否定しないことを伝えたかった。
アイラはもう一度、今度は間違いようのない言葉を選んで、ゆっくりと問いかけた。
「グレイに会うこと以外で契約が解かれることがあったら、命を捨てると、あなたは自ら望んだのではないですか」
ミシアは落ち着こうと深く息を吸った。身体はないはずなのに、こうした感覚がそのまま残っていることは不思議だが、今はそのことがありがたかった。
「ちょっと違うわね。捨てるのではなくて、返すだけよ。精霊に出会わなかったらそうなるはずだったんだから、順当でしょ」
アイラはミシアの言葉のすり替えに構わず、続けた。
「メルは契約についてこう言いました。ミシアの命に関わらないのなら、わたくしに契約を切ってもらってもよかったと」
「……それで?」
「そのときのメルの表情が少し、気になりました。たぶん、メルは切ってしまいたかったのです。そうできないことが歯がゆかったのかもしれません。メルは契約から解放されるならどんな方法でもよかったのです。たとえ、定めた条件を満たさずとも。でも、ミシアの命がかかっている以上、彼はわたくしにそれをさせることを躊躇うでしょう。つまり、メルが契約解除とあなたの命を天秤にかけるような条件を組み込むはずがないのです。なぜなら、それは自由となる手段を限定する行為だからです。ならば、望んだのは、もう一方の契約者である、ミシア。あなたしかいない」
契約が術者を主体とするものである以上、ミシアが強く望めば影響は避けられないのではないか、というのはアイラの想像だが、的外れではないと思う。そう考えれば筋が通る。メルに契約しないという選択はなく、時間もなかった。だから、妥協したのだ。
昨夜の時点でそのことにアイラは気づいたが、あえて触れなかった。もちろん、ミシアにも言うつもりなどなかった。しかし、今、アイラは、感じたことをはっきりと口にした。
「そうなりたいと望みつつ、でも、本当にそれでいいと思っていらっしゃるのではないでしょう?」
アイラの台詞はミシアの中の矛盾を真っ直ぐに突いていて、知ったような口を利かないでと突っぱねることができなかった。
会えないなら、生きながらえる意味なんてない。そう断言できるほど潔くなどなれなかった。会えないままでいることが怖い。だからといって、会うことも怖い。だから会いたいわけではない。いや、違う。違う。違う。
アイラの言うとおりなのだ。いいとも、嫌だとも、どちらも本気で、どちらも本気ではない。心の中はぐらぐら揺れどおしで、どうしたら楽になれるのか教えて欲しかった。正論なんていらない。正しいと諭される道が選べるなら、こんなことになんてなっていない。
「そうよ!」
ミシアは悲痛な声で叫んだ。
「惨め、だわ……。耐えて生きるなんて、まっぴらよ……!」
なぜ、こんな弱さをさらけ出しているのだろう。そう思いながらも、悔しさは湧いてこなかった。
心の底では、ぶちまけたかったのかもしれない。本当は、一人で抱えていることがつらかった。支離滅裂な感情を、誰かにぶつけてしまいたかったのだ。
その相手がアイラだったことがひどく不思議で、けれどどこかで納得していた。彼女はきっと、そのままの言葉を受け止める。曲げることなく、嗤うことなく、聞くのだろう。
「わたしには、なにもない。怖い。どこへも行けない――行きたくない。時が、止まってしまえばいいのに……」
前を向くのが嫌なのだ。進みたくない。選びたくない。できることなら、誰にも破れない繭を作って閉じこもりたい。
際限のない穴へ落ち込むように、ずぶずぶと精神が暗く沈んでいくことを止められず、けれど落ちていく己を受け入れきれずにもがくミシアに、一筋の糸を垂らしたのはアイラだった。
「わたくしのところへいらっしゃいませんか?」
澄んだ声は耳に届いたが、ミシアには意味が解らなかった。
ただ、間の抜けた音が口から零れた。
「――え?」
「わたくしの館へお誘いしているのです」
「なにを言ってるの?」
「本当にどこへも行かないというわけにはいかないでしょう。ミシアにはなんの所縁もないところです。あなたを煩わせるものは少ないと思います。ミシアさえよろしければ、ご招待いたします」
二の句が継げずにいるミシアに、アイラは落ち着いた声でこともなげに続けた。
「もう一つ。グレイに会うも会わないも、ミシアの自由です。どちらでも構いません」
「会わないと、ずっとわたしはこのままなのに?」
「そうとも限りません。全快すれば、自然と体に戻れるはずです。ミシアの体をメルの楔とする契約はそのままですから、体を共有することになると思いますけれど。その場合、主導権がどちらにあるのかわたくしにはわかりませんが、なるべく、あなたの希望に沿うように考えましょう」
「そういうことを訊いてるんじゃないわ!」
ミシアは苛立った口調で言った。
「契約が解けないと困るのでしょ?」
「メルは不自由するでしょうけれど……」
アイラは呟くように言ったあと、妙にはきはきとした調子で、ミシアに向かって意味不明なことを言ってきた。
「そうね。メルはあなたとグレイを会わせようとするでしょう。でも、そのときがきて、どうしても決心がつかなかったら、わたくしを呼んでください」
「呼んだからって、どうなるっていうのよ」
「わたくしは精一杯の力を尽くして、あなたをその場からさらいます」
あまりに男前な発言をされ、ミシアは不覚にも、言い返す声が一拍遅れてしまった。
「……っ、ばっ、馬鹿じゃないの?!」
「そうですね。でも、気休めのつもりはありません」
「本気?」
「はい」
「精霊の味方をしなくていいの?」
「はい」
「なぜ? あの精霊はあなたをなにより優先すると、そこまで言ってるのに」
「だからです」
「わからないわ」
「理由を言葉にすることは、難しいのです」
アイラはほんの少し、眉を寄せた。
「わたくしも、ミシアを納得させられる説明ができるほど、はっきりとわかってはいないのです」
アイラは心に浮かぶ思いを掬い上げながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ですから、今、わたくしに言えることは、そう多くありません。わたくしは、たぶん、ミシアに、契約を後悔して欲しくないのです。メルがミシアと関わったことを、ミシアにとって不本意な結末には、したくないのです」
「どうして……?」
消え入りそうなミシアの問いかけに、アイラは無邪気に首を傾げた。
「どうして? どうしてでしょう。最後までやり遂げれば、答えられるかもしれませんが、今は、なんとも」
アイラはそっと月長石の表面を撫でて、ミシアの顔を覗き込んだ。
「自分のことだからこそ、わからなくなってしまう。ミシアにはよくおわかりでしょう」
「狡い言い方だわ」
「――ミシア」
薄い色の唇がそれは美しく動く。そして、青紫色の瞳がなごみ、頬が優しく微笑むのを、ミシアは確かに見た。
「あなたの答えが出るまで、一緒にいましょう」
どきりとした。
心を揺らされたことが癪だった。
そう。ちょっと動揺しただけだ。決して、懐柔されたわけではない。でも、ここは頷いてやってもいい。なぜかそう思えたミシアは、気がつけば、同意の言葉を返していた。
「ええ。そうね……きっと、わたしはそうするわ」




