十七、めぐりあわせの雨夜 6
ジュマスの思惑が気にならないわけではない。
なぜアイラに渦中の品を渡す気になったのか謎である。いくらなんでも善意の申し出ではないことくらい想像がつく。けれど、アイラは受け取ることを選んだ。
とはいえ、ジュマスが全ての品を所持していないこの状況では、すんなりと全てがアイラの手に渡るとも思えない。また手に入ったとして、どうすることが助けを求めてきた小さきものたちに報いることになるのか、正しい答えはわからない。いつもアイラに知恵と力を貸してくれた頼もしい精霊たちはそばにおらず、アイラが一人でできることなど何もないのかもしれない。関わることで、事態を悪化させてしまうかもしれない。確かなことはなにもない。
その上、既に間違いを犯してしまったかもしれないという不安がアイラにはあった。
初めて鏡を目にしたときの衝撃。多分に感覚的なその体験をダグとルーに言葉にして伝えることで、アイラはもう一度記憶をなぞった。そして、思い出した感覚に血の気が引いた。
縁飾りの細工の凹凸。雨粒に濡れた鏡面は冷えていたのに、指先には熱があった。
今思えば、最初の接触の一瞬、小さな反発が生じた気がする。あのとき、アイラが鏡に触れても平気だったのは、無意識に抵抗してしまったせいかもしれない。
ジュマスの屋敷に戻ろうとした目的の一つは、それを確かめるためだ。なのに、その件について未だ口に出せずにいるのは、話が思いもしない方向へ流れたせいだけではない。心のどこかに知りたくないと思う気持ちがあるからだ。
己の中で目覚めた力に関してアイラは無知であることを自覚している。けれども、ミシアの件で学んだこともあった。内容を把握しないまま、術者と精霊が交わした契約に干渉すると、思いもしない結果に結びつくことがあるということだ。いつも都合良く作用するものではないとわかっていたのに、初めて呪縛というものを目の当たりにして平静ではいられなかった。
アイラにとって、この力はあまりに容易く使えすぎるのだ。意識しなくても呼吸するように操れる。だから、気がつかなかった。
そんな有り様でこの件に安易に手を出すのは軽率かもしれない。アイラがしようとしていることは、呪縛に関わってほしくないというメルの言葉に真っ向から逆らっている。ダグとルーの言うとおり、これは術者の手に委ねるべき問題で、ジュマスの提案に乗るのは無謀なのかもしれない。
けれど、どうしても納得できなかった。ジュマスの言うとおり、現状を容認しても精霊たちは救われない。だからこそ、力を結集してかれらは動いた。たすけてと呼ぶ声が耳に残っている。あんな手段でアイラに縋るなど、よほど追い詰められているに違いない。
難しいことを考え始めるときりがない。正しいという確信を得るなどどうしたって無理なのだ。だから結局、アイラは感情に従った。最初に頭に浮かんだ、たった一つのこと。このまま術者の手には預けておくのは嫌だと思った。理由は、ただ、それだけだ。
「賢明な判断に拍手!」
パン、パン、パン、と手を打つ音がしらじらしく響く。アイラは性急に言った。
「あなたがお持ちの分だけでも、すぐにいただきに参ります」
「いや。せっかくだが、全部揃えてから進呈したい」
「なぜです?」
「私だけ先にというのは不公平だろう」
よくわからない理屈だったが、アイラはとりあえずジュマスの考えを聞いてみることにした。
「では、いつ、いただけるのでしょう?」
「受け渡し場所はケルゼリエ。準備する時間を三日ほどいただこうか。細かい段取りはミカに伝えておこう」
おそらく最初から決めていたのだろう。ジュマスはよどみなく答えた。
「わたくしはその方を存じ上げませんが」
「評議会のお偉いさんで、なかなか気の利く得がたい男だよ」
思いもしない単語がジュマスの口から飛び出して、ルーはぎょっとした。反対にダグの方はほとんど表情を変えておらず、ただ、なにか考え込んでいるふうだった。
アイラは術者たちの統治機構や社会構造がどうなっているのか全く知らなかったが、ジュマスの言いようや少年たちの反応から、評議会というものが権力構造の上位に位置する機関だと推測した。
「その方は保管庫を開けて押収品を返還する権限をお持ちなのですか?」
「そうでなければ話を通す意味がない」
意外だった。ダグとルーによればジュマスは犯罪者として追われる身のはずだ。にもかかわらず、術者の中で実権を握る実力者に渡りをつけることができるらしい。
「あなたはその方と親しいのですか?」
ジュマスは失笑した。
「親しい、ねぇ……?」
笑いの衝動を抑えきれず、語尾が震える。
「彼に会う機会があったら同じことを訊いてみるといい。どんな顔をするか、見ものだ」
ジュマスの声には嫌がらせを楽しむような意地の悪さはあるが、相手への悪感情は感じられない。むしろ、その逆だ。
「どんな反応を期待なさっているのですか?」
「さてね。少なくとも肯定はしない、と、信じている」
「あなたの片想いでいらっしゃるの?」
ジュマスはますます楽しげに笑った。
「アイラは変わった発想をするのだね」
「そうでしょうか」
「片想い、とは、当たらずとも遠からずというところかね。長い付き合いだが、なかなか心を開いてくれないのだよ。寄るな触るなと言うわりに、いつも趣向を凝らした対応をしてくれるから訪ねて行くのが楽しみでね」
「言葉ほどには嫌がっていないと仰りたいのですか?」
アイラはあくまで真面目に受け答えをしている。聞いていたルーは頭が痛くなってきた。
「この前はわざわざ専用の罠まで用意してくれていたのだよ」
「罠……?」
「あれは壊してしまうのが惜しいような出来栄えで、引っ掛かってみようかと思ったくらいだ」
「それで、掛かってみたのですか?」
「いや。やめたよ。まだ死ぬつもりはないのでね」
アイラは眉を寄せた。捕らえるどころか抹殺を謀られているらしい。
「命を落とすようなものだったのですか?」
「そこは徹底している。手抜きはしない主義だそうだよ。欲を言えば、もう少し遊び心が欲しいところだ」
聞きようによっては、ジュマスの方が理不尽に邪険にされているようにもとれるが、アイラはなんとなく、ミカという人物は一方的にジュマスに迷惑をかけられている気の毒な人のような気がしてきた。
どちらにしろ、そうそう気軽に連絡を取り合える仲とも思えない。ましてや、言うとおりに都合よく動いてくれるとも思えないが、ジュマスは少しも障害を感じていないようだった。それどころか声が弾んでいる。
「評議会とこちらのお二人がいらっしゃる部署は対立しているのですか?」
まだジュマスの性格がつかみ切れていないアイラは、両者に利害の一致するところがあるのだろうかと考えた。いわゆる、敵の敵は味方という法則だ。しかし、答えは否だった。
「対立どころか、そこの子どもたちが属している違術検使院は別名異端審問院といって、評議会の便利な手足の一つに過ぎないのだよ」
「異端、審問……?」
「表向きは術者の平和と安全のために犯罪を捜査し取り締まる正義の味方だが、実態は、評議会の作った秩序から外れたものを弾圧し粛清する偏向した組織――と、言う者もいる。私はそこまで否定的なことは思っていないがね。彼らのように社会のために奉仕する者は必要だ。そうでなければ、市井の人々は安心して暮らせないだろう?」
不思議と皮肉には聞こえなかった。
「だからもちろん検使院は何かしてくるだろうが、いい余興になる。ただ受け渡すのも面白みに欠ける。横やりの一つ二つあったほうが盛り上がるだろう」
「ただ混乱するだけのように思います」
「現実として、大部分の品を保管しているのは彼らなのだから仲間外れにはできない。それに、出演者が多い方が舞台は多彩になる。私はアイラのことがもっと知りたいのだよ。だから、一緒に遊ぼうじゃないか」
ジュマスはくつくつと喉の奥で笑った。
「わたくしにあなたの遊び相手が務まるとは思えません」
「それは私が決めることだ。私はアイラを選んだのだから断ることは認めない。付き合ってくれなければいけないよ」
なんという俺様な発言だ。傍で聞いていた少年たちは呆れると同時に、アイラの反応が気になった。さすがに気分が良くないのではないかと思ったが、彼女は何故か微笑らしきものを浮かべていた。
あくまでも『らしきもの』である。『なりそこない』かもしれない。それでもダグとルーが初めて見たアイラの笑みには違いなかった。
アイラは単純に、以前似たようなことをリエラに言われたことを思い出しただけだったが、そんなことを知るよしもない二人は、意味がわかんねえ! と、心の中で叫んだ。
「確認いたしますが、ここはケルゼリエの近くなのでしょうか」
「おやおや。時間はあったろうに。まだそんなことも話していないとは呑気なことだ。ここはレンノーラの森の東端。一番近い村はラガレ村。馬車を使えば二刻足らずでケルゼリエだ」
「わかりました。ケルゼリエにてお会いすることに異存はございません。ただ」
「アイラ。私の持っているものだけ先に出す気はないし、見るだけというのもお断りだ。三日後の十二日まで待ちなさい。その間、そちらも考えておくべきことがあるだろう。アイラの前に積まれる品は、少なくとも、その両手で持ち運べる量ではなかろうよ」
確かに、ジュマスが先に言ったとおりなら、集まる数は百を超える。間違っても手荷物の範疇には収まらない。しかも、物が物なだけに迂闊に人には任せられない。
人目に触れぬ置き場所という意味では、アイラには水蘭館がある。けれど、王宮への運搬搬入という実務的な手配ができるできない以前に、アイラはケルゼリエからそれらの品を移動したくなかった。できることなら時をおかず、その場で片を付けてしまいたい。まだなんの見通しも立っていなかったが、いろいろな意味で尾を引かないためにはそれが最善だと思う。
アイラには、術者たちと長く関わる気はこれっぽっちもなかった。
そして、最後にもう一つ、アイラには確かめなければならないことがあった。ずっと目を逸らしているわけにはいかない。自分のしたことの結果をきちんと知るべきだ。
アイラは指先をぎゅっと握り込んだ。
「教えていただきたいことがございます」
「何かね」
アイラはわずかに残る躊躇いを振り切って、口を開いた。
「……わたくしが触れた鏡はどうなりましたか」
手のひらに触れる指がひどく冷たい。
密やかな睦言を囁くように答えはもたらされた。
「とても静かで美しく、強かった。だからかね。足りなくて、溢れてしまったよ」
うっとりと酔いしれるような声には称賛の響きがある。ダグとルーには何のことかさっぱりわからなかったが、アイラには通じたようだ。
「そうですか」
平坦な声だった。けれど、震えそうになる声を、必死で押さえているとわかる。表情が動かないのも、気を張り詰めているせいだ。俯くかと思った。けれど、アイラは顔を伏せなかった。
「お願いがございます」
「私に、願い?」
「はい。あなたに」
「アイラ」
ジュマスの声の調子が微妙に変わった。ダグは、優しくやわらかく、じわりと圧力がかかったような錯覚を覚え、体を硬くした。
「私は名乗ったはずだが、忘れてしまったのかね。一度も呼んでくれないとは、寂しいね」
ダグにはそれが、願いごとをするなら縋るように名を呼んで懇願しろ、と聞こえた。偏見だろうか。いやあながち間違いではない気がする。
「憶えております。――ジュマス」
「そうではないだろう?」
小さな棘を感じて、アイラは瞳を揺らした。
そう言えば、あのとき。
「ジュ、マ……」
アイラは姿の見えない男に呼びかけた。
吐息で笑う気配を感じて、アイラはもう一度その音を口にする。
「ジュマ」
声がほのかな熱を帯びる。自分が呼ばれたわけでもないのに、ダグはごくりと生唾を呑みこんだ。なんだろう。この、心臓を鷲掴みにされたような感覚は。
あの時と同じだ。ダグが忍び込んだ部屋にいた少女は、鏡を見つけて、ジュマスを問い質した。あの時もそうだった。強い感情が乗ったとき、彼女の声は抗いがたい力で五感を刺激し、揺さぶる。
「お願いいたします」
祈るような必死さと、頼り切れない強情さが混ざった不安定な声は、淡く色づいて甘く耳に残る。
「もう、増やさないで」
「承知した」
拍子抜けするほどあっさりとジュマスは言って、浮かれた調子で続けた。
「ああやはり、直接赴かなくて正解だ。会ってしまったら間違いなく攫ってしまう。我慢できなくなる前に、お暇するとしようか。さて少年たち。多少の悪戯は大目に見よう。約束通り、ご褒美をあげようかね」
言い終わるや否や、ダグとルーの足元に金属と硝子のぶつかり合うような高い音が響く。反射的に飛びのいた二人は、床の上に積み重なった破片を見つめた。
「きみたちが欲しがっていたものだ。受け取りたまえ」
アイラは光を反射する破片から視線を引きはがすように顔を背けた。
「ジュマ。だめ」
アイラは足早にルーの前を横切り、何もない場所で膝を折った。床に近い位置に両手を差し伸べ、小さな何かを包み込むように手を合わせる。
「この子は置いて行って」
「ふっ、はは! いいだろう。それでは諸君。三日後にまた会おう」
それきり、ジュマスの声がすることはなかった。
ダグは信じられなかった。ジュマスは本当に、話をしただけで帰って行ったのだ。
彼女がいたからだろうか。
ダグは銀色の髪に覆われた細い背中をじっと見つめた。




