二、怪魔憑きの姫 2
「つ……かれた…………」
水蘭館の自室に戻ってきたアイラは、たった今閉めた扉を背にして呟いた。
夕食は、暁の館で父とリエラと彼女の母であるファンナ王妃と食卓を囲んだ。それからもあれやこれやいろいろあって、もう半刻ほどで日付が変わる。
アイラは扉に寄りかかるようにして軽く頭を振り、力なく呟いた。
「あぁ、だめだわ。やっぱり起きていられない……ギル、話は後にして」
部屋の奥へ向かってふらふらと歩き出したアイラを、ぞくりとするような深みのある声が止めた。
「アイラ。だめだ」
「だって我慢できないわ」
細身の体を包む柔らかな紗を重ねた薄紅色の衣装は、つかみ所のない足取りに合わせて花びらのようにふわりと広がったかと思うと、魚の尾ひれのようにひらひらと揺れた。
「アイラ」
非難がましく呼ぶ低い声を無視し、腕に絡めた透けるショールを長椅子の上に放り投げた。サンダルを脱ぎ捨てて一直線に寝台へ向かい、裾を翻して倒れこむ。真っ直ぐな銀髪が、ぱっと広がった。そして素早く寝台の中に潜り込み、柔らかな羽枕を抱きしめて幸せそうに頬擦りした。
「やっぱりここが一番好き。あぁ、ずうっとこうしていたい……」
最後の方はもう舌がよく回っていない。
「だめだと言っている」
「やぁよ……」
ギルは寝台に片手をついて身を乗り出し、白い顔を隠す髪を払って軽く頬を叩いた。
枕元の灯りが、ギルの銀髪をアイラのそれと同様に橙に染め、顔の陰影を明らかにした。闇夜のような漆黒の瞳に浮かぶ冷厳とした光。それは嫌味なくらい整った顔との相乗効果で、見る者に恐れにも似た感情を抱かせる。
「寝るな」
アイラが小さく身動ぎすると、その首を飾る細い銀鎖がきらりと光を反射した。
「や。ギルうるさい」
「起きろ」
「……」
ギルはすっとアイラの耳元に口を寄せた。
「――今、ここに、浴槽一杯の氷水をぶちまけてやる。いくらおまえでも目が覚めるだろう」
そう口にした以上、ギルは間違いなく実行することをアイラは知っている。
お気に入りの寝具を水浸しにされるのは遠慮したい。
アイラはくっつきたがってどうしようもない瞼を無理やり抉じ開けた。
最初に目に映ったのは、光を跳ね返す漆黒の双眸。ひどく間近にあったそれに、普通なら驚きの声の一つも上げるところだが、思考能力が著しく低下していたアイラは、ぼーっとしたまま一言、訴えた。
「眠いわ」
ギルは苛立たしげに溜息をついて近づけていた顔を離し、眠気でとろんとしている青紫の瞳を見つめ返した。
「らしいな」
「だって、一日の半分以上、起き……て……」
再び閉じそうになった瞳に、ギルの眉間の皺が深まった。ただでさえ迫力のある容貌をしているのに、そうするとますます近寄り難い印象になる。
「アイラ。だめだ」
断固とした口調に、アイラは何度か瞬きを繰り返して、自分を捕らえて離さない睡魔を追い払おうとした。何より氷水は困る。
「いつまでも横になっているからだ」
少し語調を緩めて言うと同時に、腕を伸ばしてアイラを引っ張り起こす。
「何故自分で決めると言わなかった?」
「……え?」
「何故、あんな方法を承諾した?」
「あぁ、それは……ふ、あぁぁ……あ」
答えかけた途端、大きな欠伸をしたアイラに、ギルは容赦のない冷たい視線を向けた。
「仕方がないでしょう。眠いものは眠いのよ。はっきり言えば、自分で選ぶのが面倒なの」
「おまえの伴侶のことだ」
「誰がなろうと同じだわ」
「……花冠の乙女も譲ったままか?」
「わたくしがその場にいる必要はないでしょう。いてもいなくても結果は変わらない」
そこでまた一つ、欠伸が出る。
「今日話を聞いて、リエラが行きたがったわけがやっとわかったわ。あの子が好みそうな話ですもの。でも、わたくしの代わりに行って何がおもしろいのかしら。それとも当事者ではないから楽しめるのかしら……?」
ギルは険のある目つきでアイラを見据えた。
「話を逸らすな」
「そんなつもりはないのだけれど。つまりわたくしが言いたいのは――その、なんだったかしら……?」
軽く眉を吊り上げたギルに、アイラは気を抜くと閉じそうになる目を擦りながら続けた。
「ええと……今回のお話は婚約者の選定方法としては異例であるかもしれませんが、わたくしはお父さまの考えに従います。リエラとの約束を取り消す気もありません。あの子が上手くやれば最後にベールを外すまで露見することはないでしょうし、そこまできてしまったらお父さまも代役で押し通すしかないと思うの。理由は適当に考えてくれるでしょう。それに、わたくしがその場にいることが、それほど重要なこととは思えないわ。だって、皆が欲しいのはわたくしではなくて、わたくしの持参金なんですもの。その権利さえ手に入ればいいのですもの。だから、わたくしとしてもそんな場所へわざわざ出向く時間があったら、ここでいつも通りにしていたいの。いけない?」
一息に喋り終えたアイラは、ギルの返事がなかったので、そのまま掛け布を引き寄せた。
「お休みなさい。もう、起こさないで……」
横になると同時に、寝息をたて始める。
ギルは小さな溜息をついて、振り返った。
枕元の灯りが消え、今度は部屋の扉付近に不思議な白い光が点り、テーブルを囲む四人の人影を浮かび上がらせた。
ギルを含めた全員が、細部の違いこそあれ一目で揃いだとわかる黒い衣装を身に着けていた。
「説得は失敗みたいだね。ギル」
ギルは空いている椅子の一つに腰を下ろし、難しい顔で長い指を組み合わせると、テーブルを挟んで向かい側の長椅子に座るカタムを一瞥した。
カタムは十三、四歳くらいの少年だ。緩く編んだ赤茶の髪が首の後ろで揺れている。こぼれ落ちそうに大きな深緑の瞳が印象的なその顔は、にっこり笑うととても人懐っこく、どことなく愛玩動物を髣髴させる。
「説得っつーか、ありゃ必要最低限のこと聞いただけじゃねえの?」
あきれたようにそう言ったのはゼラ。長椅子の肘掛部分に中途半端に腰掛けた格好で片膝を抱え込んでいる。硬そうな黒髪に、明るい若草色の瞳。あっちこっちに撥ねまくった髪を押さえるためなのか、頭には青い布を巻いていた。
「えー、でもあの状態のアイラにあそこまで喋らせただけでもすごいよ。あんなことできるの、ギルかメルだけだもん」
「だったらメルのが適任だろ」
ゼラは、カタムの隣りに行儀良く座る青年へと視線をやった。優しげな面差しのメルは、体の線も細く、輝く白金髪を長く伸ばしているため、女性に見間違えても無理はないと思わせる姿をしている。
「適任……かどうかはわからないけど」
メルは晴れた日の青空のような瞳を瞬かせ、のんびりした様子で首を傾げた。
「アイラが行きたくないって言うんだから、仕方がないんじゃないかな」
「そんなあ。明日、アイラが起きてからもう一度話してみようよぅ」
カタムがメルの腕を両手で引っ張りながら訴えると、メルは優しく微笑した。
「それは難しいねぇ」
「どうして?」
「明日はそんなこと話してる暇ねーよ。迎えを遣すって言ってただろ。絶対、アイラが起きる前に来るぜ。アイラがはっきり受けると言った以上、俺たちは入ってくるヤツらを止められない。だから、今のうちに断ることに決めとかねえとなし崩しで準備に入られちまうだろ」
「ああ、そっか。そうなってからだと断らせるのはもっと難しくなっちゃうね。せっかくの準備が無駄になるのは気の毒だとか、シュタル王に迷惑がかかるとかアイラは思うだろうしー」
「その前に自分のことを考えて欲しいのだがね。どうしたものかな」
太く響く低い声はセリムだ。ここに集まった五人の中では最も年嵩のようだった。短く刈った髪は不思議な青い光沢を放つ鉄色で、琥珀の瞳は穏やかな光を湛えていた。背丈はギルと同じくらいだが、厚い胸板に、太い腕――盛り上がった筋肉がセリムの方をより大きく見せている。そのセリムの前のテーブルの上には、アイラが放り投げたショールがきれいに畳まれて乗っていた。見かけによらず几帳面なのだ。
セリムは顎を撫でながらゆっくりと背もたれに寄りかかった。
「やれやれ。アイラに気を変えさせる言葉一つ思いつかないとは困ったものだ」
「困ったと言えば、明日からしばらく寝不足だろうねぇ。大丈夫かな」
「メル。心配するのはそこじゃねぇだろうよ。もし俺たちの知らないうちに、いけ好かねー嫌みったらしい男に決まってたらどうするよ。俺のアイラがそんな野郎の好きにされるかと思うと!最悪だ!」
しきりに憤慨するゼラを、カタムは少し首を反らして見上げ、幾分宥めるような調子で言った。
「いけ好かない嫌みったらしい陰険な人だったとしてもだよ? アイラを大切にしてくれればいいんだよ」
それに同意するようにセリムが頷く。
「そうだな。大事なのはそこだ。たとえ、いけ好かない陰険で嫌みったらしい傲慢極まりない男だったとしても」
「そうだね。いけ好かない陰険で嫌みったらしい傲慢極まりない冷血漢だとしても……」
どんどん増えていく好意的とは言いがたい修飾語に、元々が自分の台詞という責任からか、ゼラが不毛な会話に待ったをかける。
「ハイハイ悪かったよ。不満なのは俺だけじゃねえってのはよくわかったから」
「だってさ、腹立つよ、こんなの」
カタムはぷっと頬を膨らませた。
「当然だよな。建国伝説に則った婿選びとかいくら言葉で飾っても、賞品と変わらねえ」
「しかも、大会に出るのは代理人でもいいことになってるし。あーやだやだ。なんでアイラは文句の一つも言わないんだろう」
「それはねぇ、単純に、結果に興味がないから……じゃないのかな」
メルはおっとりと続けた。
「誰になっても同じってことは、それを決める過程なんてただの手続きに過ぎないからねぇ。くじ引きで決めると言われても気にしないんじゃないかなぁ」
奇妙な顔で唸ったゼラは、自棄糞気味に捲くし立てた。
「ああそうだろーよ。花冠の乙女をあっさり譲っちまうのも、大会を見に行かないのも、横暴なことを言い出した父親に対する抗議でもなく嫌がってるわけでもない。かと言って、あのお嬢ちゃんみたく変に夢見てるわけでもない。ただ面倒なだけ!」
憤慨しているのはわかるのだが、ゼラが言うとからりとした明るさがあり、セリムは口許を緩めた。
「花冠の乙女に興味を持たないだろうことは予想がついたが、自分の夫となる相手にまで無関心とは、どうしたらいいのだろうな」
「そうだよなぁ。好きな相手がいるのなら、そいつを優勝させてやるのになあ」
セリムはすやすやと眠るアイラにちらりと視線をやり、苦笑した。
「その方面での情緒的発達は極めて未成熟としか言いようがないな」
「断った方が面倒が少ないって言ったら断るかな」
カタムの言葉にメルが首を振る。
「なんだかんだ言っても、結局アイラはシュタル王が一番好きなんだから。そのくらいのことではシュタル王のお膳立てを断らないよ。もっとはっきり嫌だと思ってくれないと」
「うーん。いっそのことリエラ王女みたいだったら説得は簡単だったかもしれないね」
リエラ王女は、政略結婚当然の立場にあって既に婚約者もいながら、何故か恋愛に関して夢を捨てきれていない。だから今回も、一人の乙女を妻に迎えるために騎士たちが戦う――この辺から既に勘違いしている――という情景に単純に憧れている。もちろん勝ち残った勇者は見目良い立派な若者で、世界中の誰よりも乙女を愛していると信じているのだ。そしてそんな若者に自分が花冠の乙女として祝福を与えたい、と素直に思っている。
だから、説得とはその幻想を打ち砕けばいいのである。
それが簡単かどうかは別として、ゼラはカタムの意見に盛大に顔をしかめた。
「おまえ恐ろしいこというなよ。アイラがあれみたいだなんて考えるのもやだね! あんな無神経な我儘娘。普通こういう状況で譲れって言うか?」
「あっさり譲ってしまうアイラも普通じゃないと思うよ。まぁ……内容が何であれ、リエラ王女に頼まれれば、よほどのことがない限り、嫌とは言わないだろうけどねぇ」
くすくすと笑い声をもらすメルに、ゼラは苦虫を噛み潰したような顔で髪をかき回した。
「どこがそんなに好きなんだかなー」
「あの二人はいろんな意味で正反対だからね。自分にないものに惹かれる気持ちはわかるよ。それに、リエラ王女はゼラが言うほど性格悪くないよ。けっこう可愛いと思うけどな」
「僕もそう思うー。なんと言っても、ファンナ王妃に影響されないのがすごいよねっ。そのことは、僕、本当に良かったと思うよ」
「確かにカタムの言うとおりだが、仮にリエラ王女がアイラを嫌っていたとしてもアイラは気づかない可能性が高いな」
身も蓋もないセリムの指摘に、カタムが声を立てて笑った。
「あははっ、そうかも。なんていうか、偏ってるよね。こっちが驚くくらい鋭いところもあるのに」
「アイラはもともと感受性が高いよ。勘もいい。実際、微妙な表情の変化やちょっとした感情の揺らぎなんかも敏感に察してるよ。気づかないのは、気づきたくないから」
「そうだな。あれは、自分で自分に目隠しをしているようなものだ。シュタル王との躓きがアイラを臆病にしている」
途端、カタムは悲しげな顔で肩を落とした。
「何とかしてあげたいけど、僕たちがどうにかできることじゃないし。誰も悪くないのにね。アイラって時々ちょっとズレてるけど、お父さんとすれ違っちゃうのはそのせいじゃないもん。ファンナ王妃とうまくいかないのはそのせいだけど……」
ゼラとメルはカタムの台詞に触発され具体的な場面を思い出したらしく、苦笑した。
「ああ、あれなー。リエラやクドゥルを翻弄するやつ。肝心なところで的を外すんだよな。はたから見てるとすげぇ面白いけど」
「そうだねぇ。アイラなりに筋が通っているんだけど、気にするところが違うというか……」
「なかなか予想できない方向にいくからなー」
「僕たちでさえ、いまだにびっくりする時があるからね」
そこへ、セリムが真面目な顔で口を挟んだ。
「さっきの『面倒くさい』発言も、根を辿ればそれだろう」
「そうなの?」
きょとんとして尋ねるカタムを微笑ましく思いながら、メルは頷いた。
「そうだね。予想の範囲内ではあったけど」
「だからって引き下がったらダメだろ。人生における重大事項の一つだぞ」
「困ったことに、アイラはそう思ってないんだよ」
「ゼラが大事だと思ってることを、アイラは些細なことだと思ってる、てこと?」
「簡単に言えばね」
カタムはすんなり納得できず、口を尖らせた。
「でも、それだけじゃない気がするなあ。二人以上の人が集まれば、価値観の違いで意見が合わないのはよくあることでしょ。深刻な対立や差別につながることもあるけど、相手を尊重する気持ちがあれば話し合うことで解決できる問題だよ。けど、ズレたこと言うときのアイラはなんていうか、すごく近くに見えてるのに触れない場所にいるみたいな感じ?」
「そんなふうに感じるってことは、カタムはアイラと逆なのかな」
「逆?」
「アイラの意識は僕たち寄りになっちゃってるからねぇ」
「おまえは生まれてすぐ捕まったもんだから、考え方がずいぶん人間くさいぜ。だから逆」
「人間くさいって、ゼラとあんまり変わんないじゃないか」
名指しされた当人は若草色の瞳に楽しげな光を踊らせ、カタムに向かってにやりと笑った。
「おまえは素だろ。俺はちゃんとこっちと向こうで切り替えてんの。アイラには向こうの枠の中で幸せになって欲しいからな。じゃなかったらこんなつまんねえことで悩んだりしねえで、とっくに攫ってる」
「ゼーラ。不穏なこと言わないでよ。ちゃんとここにはアイラの居場所があるし、大切な人だっているんだからね」
「アイラの意思を無視したりしねえよ。だから、もう少し自分の将来を真剣に考えてもらいたいワケ。っとに、心配で落ちつかねえ」
ゼラは片手で顔を覆い大きなため息をついた。
「俺もしばらく人間の近くにいたから、それなりに常識を踏まえてるつもりだ。伴侶選びをないがしろにしたら不幸になる確率が高いことくらいわかってるんだ。アイラにもちゃんと教えたはずなのになあ」
「アイラはわかってるよ。ただ、それを自分に当てはめないだけ」
メルが少しも慰めにならないことを言う。
「そこで自分を除外する意味がわかんねえよ」
「無意識だろうけど、アイラは線を引いてるような気がする。僕たちとアイラのいる世界と、それ以外というふうにね。本当なら、アイラはシュタル王やリエラ王女の側にいなくちゃいけないのに、どこか別の世界の出来事のように感じてる部分があると思う」
「……ごく稀に、本来の種と違う群れで育って自分の種族を勘違いする動物がいるよな」
「アイラがそうだって言うの?」
カタムが深緑の目を丸くする。そうすると、もともと大きな目だけに零れ落ちそうに見えた。
「そこまで思い込んではいないけど、近いものはあるかな」
「もうそれは意識がこっち寄りだとかそういう問題じゃねえだろ。カタムよりよっぽど重症だぞ」
「僕たちとアイラは生きる場所も時間も違う。それはわかってると思うよ。ただ、馴染み深いのは僕たちの側で、本来属する場所であるはずの向こう側にはどうしても現実感が足りない」
しばらく三人の会話を黙って聞いていたセリムは、淡々と述べた。
「対人経験の圧倒的な不足が大きな原因だろうな。――それについては私たちにも責任がある」
カタムは口を尖らせ、ゼラは肩を竦め、メルは困ったように微笑した。
彼らも、セリムの言う責任については自覚している。
出生の事情により王宮におけるアイラの立場は弱く、味方は少なかった。親の愛情を知らずに育つであろうことを少しばかり哀れに思ったが、それほど悲惨な境遇ではないとも思った。周囲の目が冷たかろうと、王の子として認められたのだ。食べ物や着る物に困ることもない。住む場所も与えられた。また、日々の糧を得るための労働を必要としない点において、幸運だった。何しろ、アイラは人より多く眠りを必要とする。怠惰だと非難されようと、みっともないと陰口を叩かれようと、その程度で済むなら実害はないに等しい。
けれど、出生の事情にしろ強い睡眠欲求にしろ本人にまったく責任のないことだ。必然的に水蘭館で過ごすことが多くなるだろうが、せめて寂しい思いをしないように見守ろうと思った。それは、特別にアイラが愛しかったからではない。
正直に言えば、アイラが生まれたとき厄介なことになったと思いこそすれ、嬉しさはなかった。同時に、来るべきときが来たという思いと、それが予想した形でなかったことへの不安があったことも確かだ。しかし、まさにそれこそアイラに責任はない。公平に考えて、ある程度は彼女自身のことを気にかけてやるべきだと思った。最初はその程度のことだったのだ。それが、気がつけばアイラと過ごす時間が楽しくて仕方がなくなっていた。
「だって可愛かったんだもんよー」
ゼラの台詞に皆が一斉に頷いた。
可愛くて可愛くて、できるだけ時間を共有したかった。話しかければ応えてくれて、笑いかければ笑ってくれる。ずいぶん長い間そんなことはなかったものだから、嬉しかった。夢中になった。何より、アイラは頼らない。力を当てにしない。願いを押し付けない。ただ、その存在を好きだと言ってくれる。アイラのそばは自由で居心地がよかった。
だから、少し配慮を忘れてしまったのだ。
いつもそばにいる彼らなら、アイラがもっと多くの人間と関わるよう仕向けることはできたのに、やらなかった。独占欲が邪魔をした。その独占欲は、数少ないアイラと親しい人間たちにもあるように思う。
自覚しているかどうかは怪しいが、リエラなどはアイラが別の人間と一緒にいるとわかりやすく不機嫌になる。「アイラはわたくしと遊ぶのだから、帰って!」と兄王子を追い出したことさえある。そんな状態なので、アイラの交際範囲はさっぱり広がらないのだ。
アイラは父やリエラが大好きだが、二人が自分よりよほど忙しい身であることをよく承知していたし、頻繁に顔を見たいとか話をしたいとかいう欲求は薄い。アイラの好意の示し方は良く言えば奥ゆかしく、悪く言えば淡白だ。
一人でいることが苦にならない性格なのだ。それに、本当の意味で独りではない。彼らがいるから、アイラは人恋しくなることもなく、館の外で慣れない人付き合いを求める必要がなかった。
そんなわけで、アイラは王宮という特殊な環境の中でさらに孤立して育った。その功名と言うべきか弊害と言うべきか迷うが、浮世離れした少女に成長した。世界観が違うから、世俗的なことに興味が薄い。
アイラは世の大多数の人々が、容姿の美しさを褒め称え、富を羨み、地位や名誉を貴ぶことを知っている。時にそれが人に罪を犯させることも教えられた。だが、それは知識として知っているに過ぎない。説明されればそういう考え方もあると理解を示すし否定もしないが、共感できないのだ。だから感情が動かない。どうでもいいことなので真剣に考えない。
「こんなところでツケが回ってくるとは思わなかったぜ」
「僕たちが今度の婚約者選びに怒ってることは通じたと思うけど、理由はわかってないね」
「そんな! だって立候補した人たちって、レヴィエナ小領がアイラのものになるって知った途端群がってきた連中だよ。財産目当てって見え見えだもの。さっきアイラだってそう言ってたし、ちゃんとわかってるでしょ!」
「賭けてもいいぜ。財産目当ての何がいけないのかって真顔で言うぞ」
ゼラが投げ遣りな調子で言えば、セリムがため息混じりに同意する。
「私たちが教えたとおりに理解しているなら、そうなるだろうな」
「そんなこと教えたっけ?」
カタムは心当たりが思い浮かばず首を捻ったが、メルがあっさり頷いた。
「うん。『人が生活を豊かにするために財を欲することは、健全な欲求だ。しかし、人を傷つけたり騙したりしてまで手に入れようとするのはいけないことだ』だいたいこんな感じ」
「今回の場合、求婚という手段は理に適っている。だから、悪いことは何もしていないとアイラは判断する」
「財産が欲しくて求婚てのが、そもそも間違ってるよ!」
カタムは悲鳴に近い声で言った。
「求愛なら応えられないという理由で断っただろうが、求婚なら署名すれば成立だ。たぶん、その程度の認識しかない」
沈黙が流れた。
あまりにも夢がない。しかし、現実的とも言えない。やはり、ズレているという表現がしっくりくるのではなかろうか。
「なんか馬鹿馬鹿しくなってきた。すげえアイラらしいよ。しょうがねえなあ。今回は俺たちで始末つけるか?」
「やっぱり、アイラがいいって言うなら、仕方がないのかなあ」
「だから最初からそう言ってるよ?」
のほほんと言うメルにつられたように、セリムは琥珀の瞳を細めて笑みを浮かべた。
「そうだな。どうせすぐに式というわけではあるまい。その間に決めればいいことだ」
「決めるって?」
「もちろん結婚するかしないかをだ」
当然の如く答えるセリムに、カタムは首を傾げる。
気にいらない使用人だの教師だのを脅かして館から追い出すのとは、わけが違う。
「それって、僕たちが決めることなの?」
メルは微笑んで、カタムの頭に手を置いた。
「そのくらい、僕たちに決めさせてくれてもいいんじゃないかな。だって今のところアイラに希望はないんだし」
「そーだよなぁ。アイラが決めねぇなら、決めるのは俺たちの義務だよな」
「じゃあ、僕たちから見てアイラに相応しくない相手だったら……」
四人の視線がずっと黙っていた銀髪の青年に自然に集まる。
「――簡単だ。そいつは不慮の事故であの世行きだ」
思い切り物騒な発言に、しかし反対意見は上がらなかった。




